brutish children

 目を閉じれば波のざわめく音だけが聞こえてくる。幾重にも連なる波の音は徐々に思考を侵していき、ある一つのイメージを植え付けていた。
 遥か空高くで冴え冴えと輝く月に抱かれた物言わぬ世界。見渡す限り蒼いフィールドが広がり、その中でただ一人、彼女だけが色を奪われる事無くそこにいる。浅黒い肌、紅蓮の瞳、紫の髪――この世界でたった一人のダークエルフだ。
 感情を読み取る事の出来ない仮面のような表情をした彼女は何かをじっと見つめていた。その視線の先を追ってみても何も見えはしない。ただ蒼く染まった世界が広がっているだけだ。そして視線を戻した瞬間、不意に彼女は涙を零した。
 一筋の涙が零れ落ちた瞬間、その冷たさを自らの肌で感じ取った。そして知ったのだ。これは夢などではない、今俺の目の前で起きている事なのだと。
 ゆっくりと目を開けると、その瞳に大粒の涙をためたジェンドは微動だにせずに俺を見つめていた。微かに開いた唇からは鋭く尖った八重歯がのぞき、あたかも獣のそれのように見える。俺は身体に纏わりついてくる気だるさに抗うよう手を伸ばすと、すっかり冷え切った浅黒い肌に指を這わせた。
「ジェン……」
 その名を口にしようとした瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。生暖かい雫が頬に零れ落ちて、その度に凄惨な記憶が一つ一つ蘇ってくる。それなのに何故か頭はぼんやりとしていた。まるで遠い世界の物語でも見ているかのように、それでも心の中は妙にザラザラしていて。
 必死に涙を堪えようとする彼女の顔を見ながら、ただ一つの疑問が頭を駆け巡っていた。

――俺は一体何がしたかったのだろう

 ただ彼女を励ましたかっただけなのに。ただ彼女の支えになりたかっただけなのに。ただ側にいたかっただけなのに。そんな言い訳が頭の中をぐるぐると回っている。だけど結局の所ただ認めるのが嫌だったんだ。彼女の瞳に自分が映っていなかった事を。そしてただその為だけに力ずくで彼女を抱いた。そのような行為に及んだ所で心を奪えはしない事など初めから解っていた筈なのに。いや、衝動に囚われていた俺はそれにすら気付いていなかったのかもしれない。
 不意に彼女の唇が醜く歪んだ。眉間にしわを寄せた彼女はボロボロになった服を押さえながら立ち上がると、もうお前には興味が無い、と言わんばかりに一瞥をくれてふらふらと歩き出す。足を引きずり、何度も転びかけながら歩き続けるその姿は酷く痛々しかった。そんな風にしてしまったのは俺自身なのに、ただ砂の上に横たわったまま呆然と彼女を見つめている事しか出来なかった。俺には何もかもが解ってしまったのだ――鋭い刃のような沈黙は全てを雄弁に物語っていた。


 暫くして宿に戻った時、既に彼女の姿は無かった。
 薄暗い部屋の窓からは蒼白い月明かりが流れ込み、宵闇に冷たい色取りを添えている。そして窓際の机には白い光を纏った石が、まるで別れを告げるように遺されていた。
 その石を見つめながら、思わず意識が飲み込まれてしまうかと思った。
 胸の中にあるのは限りない喪失感と自分に対する激しい嫌悪感だけ。そんなカラッポの自分にこの白い石は眩しすぎたのだ。
 彼女がいつも肌身離さずに持っていたこの石。ジェンドの森の奥深くに眠っていた彼女がずっと抱いていたこの石。それは彼女にとってとても大切な物であったはずだ。そして俺はこの白い石のように純真な彼女の心を一時の衝動で汚してしまったのだ。
「……ジェンド」
 失ってしまったものの大きさを噛み締めながら、先程まで腕の中にいた彼女の名を口にした。そして握り締めた拳を振り上げると、机の上の花瓶を乱暴に殴り飛ばした。
 手の甲が熱気を帯び、鈍い傷みだけがいつまでもそこに残っていた。しかしこの傷みこそが今の俺を繋ぎ止める唯一の物だったのだ。


――三年後

 オッツ・キイムは一人で旅をするには広すぎると、最近になってそう思うようになった。
 彼女と別れてからの三年間、誰ともパーティを組まずに旅を続けている。たった一つだけ、あの白い石に託された彼女の想いを知る為に。そして出来る事ならば許しを乞う為に。
 俺に与えられた手がかりと言えば旅先のギルドを賑わせるダークエルフの噂だけ。あとは俺の瞳に残るかつての残像と、そして確かに彼女が存在したという証拠くらいのものだ。
 目に見えない彼女の後姿を追いながら、再び逢い見えるその瞬間を切望し、同時に恐れている。そうされて当たり前なのに、再び拒絶される事を恐れている。何て情けない男だ、そう自分に罵声を浴びせて、その度に涙を飲み込むのだ。

 地図にも載っていないような小さな辺境の村、その場末の酒場に俺は来ていた。本当はもう少し先の大きな町まで行きたかったのだが、疲れている所為かそこまで行く元気は無かった。昔ならば「あともう少し……」と思っていた事でも今ではその気すらおきないのだ。こと最近は自分の不甲斐なさを思って気分が沈みこむ事が多いような気がする。
「おい、兄ちゃん。何辛気臭い顔してんだい?」
 何時の間にか隣に座っていた男は、赤ら顔を近づけながら気さくに話しかけてきた。
「はは……最近不景気でね。財布も身体も寂しいって、コレさ」
 肩を竦めながら自嘲的な笑みを浮かべる。
 いつからこのような顔をするようになったのだろうか。今では腹のそこから笑う事も無ければ、自然と笑みを浮かべる事も無い。この顔にはりついた冷たい仮面を引き剥がす事が出来ずに、気がついたらいつも空虚な笑みを浮かべていた。
「何処も同じだなあ、おい。最近はタチの悪い魔物が増えたお陰でろくな仕事も無いしな。全く……ディアボロスの影響だかなんだか知らねぇけど、このご時世で儲かってんのは命知らずの大馬鹿者だけだぜ」
「手厳しいね。でも奴らあれで結構頭いいから、こっちもそれなりに賢くなきゃやられちまうぜ?」
「まあ、そう言うヤツもいなくはないわな。あんたも知ってんだろ、ダークエルフの姉ちゃんの話ぐらいさ」
 ダークエルフという言葉に反応して、手にした酒を机の上に下ろす。そして反射的に男の方へと視線を向けていた。
「ダークエルフって……Sクラスの魔物ばっかり相手するって、あの噂の事?」
 男はグイと酒を引っ掛けると、自慢気な表情をしながら顔を近づけてきた。
「噂?いやいや、ソイツなら今この村にいるぜ。今ごろは狩の真っ最中じゃねえか?」
「この村にいる?この村にいるって、一体どう言う事だ!!」
「あ……あんたどうしたんだよ、いきなり血相変えちゃってさ?」
「いいから教えろ!!そいつは今どこにいる!!!」
 そう叫ぶと、男の胸倉を掴んでグイと引き上げていた。かなり酒の回っているらしい男は何の抵抗をもする事無く、ただ驚きを隠せない様子で俺をじっと見つめている。
「お客さん、乱暴はよして下さい!!」
 横からマスターが割って入るが、俺は構わずに男を締め上げる手に力をこめる。
 本気だという事を悟ったのだろう、男は口元の筋肉をプルプルと震えさせながらゆっくりを口を開いた。
「い……今ごろは裏の森にいるって。オ……オークス、オークスを狙ってるって話をギルドで聞いたからさ……」
 それを聞いた瞬間、身体中から血の気が引いていくような気がした。
 俺は男の胸倉から手を離すと、ポケットに突っ込んでいた数アルを取り出してそれをカウンターの上に投げつけた。
 マスターの顔を一瞥すると「これで勘定してくれ!」と叫んで酒場から飛び出していく。
「あいつ……無茶しやがって!」
 背後からは男の咳き込む音と罵声が聞こえてくる。しかしそれに構う事無く、俺はただひたすら走り続けた。

 酒場から飛び出した俺はわき目も振らずに森の中を駆け抜けていった。
 内臓という内蔵がグツグツと茹だっているような感覚に襲われ、体中が酷く熱を帯びていた。それなのに噴出してくるのは冷たい汗ばかり、ボタボタと止めど無く零れ落ちてくる。
 息を切らせながら、頭の中にあったのは先程の酒場での話だった。あの男が口にした言葉、もしそれが本当だったらと思うと背筋が凍りついてしまう。
 オークスと言えば夜行性の強暴な魔物だ。大の大人が何人か集まった所で倒せるかどうか怪しい所だ。確かに彼女の剣の腕は凄いと認めるけれど、オークスに敵うかと言えば無謀だと言わざるを得ない。そしてその事に彼女が気付いていない筈が無かった。
「……畜生!!」
 頭をもたげだした最悪の事態を吐き捨てるように悪態をついた。それでも考えまいとすればするほど悪い方向に考えが向かってしまう。
 旅先のギルドを賑わせていたダークエルフの噂――それはSクラスの指定を受けた強暴極まりない魔物のみを相手にする命知らずの剣士のものだった。瞳に赤い光をたたえ、顔色一つ変えずに魔物共を切り刻んでいく彼女をある者は鬼神と呼び、ある者は狂戦士と呼んだ。彼女の話を聞く度に胸の辺りをぎゅっと握りつぶされるかのような傷みをおぼえた。人々の語る彼女の姿が死と重なって仕方がなかったからだ。死に急いでいるとしか思えない彼女に対して激しい怒りを覚えながら、同時にそれを招いてしまったのは自分なのだという激しい後悔が俺を縛りつけた。
「グォォォォォ!!!!!」
 突如、空気を切り裂くような魔物の咆哮が森中に響き渡る。続いて、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「クソッ……魔物の分際で――」
 その声は紛れも無く彼女のものだった。
 しかしそれは最後に聞いたよりも酷く擦れており、鋭い殺気に満ちたものだった。

 背丈ほどの高さはある雑草をすり抜けて行った先に彼女はいた。かつてと何ら変わる事無く、長身の細い剣を持った彼女は紅蓮の瞳をギラつかせながらオークスと対峙していた。
 彼女の五倍はあろうかというオークスは素早い動きで右腕を上げ、闇夜を切り裂くように鋭い爪を振り落とす。
「ジェンド!!」
 俺がそう叫ぶ前に彼女の身体は宙を舞っていた。しなやかな肉体は弧を描きながらオークスの頭上まで舞いあがり、そして月光を背に受けながら下降を始める。艶かしい光を帯びた刃はオークスの頭をめがけて、まるで彼女とその身を一にしているかのように見えた。
「でいやぁぁぁ!!!」
 彼女の叫び声と肉を抉る嫌な音が重なる。その瞬間に暗闇は血で染まり、苦悶に満ちた魔物の咆哮が響き渡った。
 異物を振り解こうと思いきり身体を振りまわすオークス。他方剣一本で身体を支えていた彼女は弄ばれるかのように宙を舞い、幾度と無く生い茂った木に身体をぶつけた。その度に彼女は嗚咽を漏らし、次々と折れた木の枝が地面に落ちる。その光景を見ながら、身体中の血が沸騰するような感覚を禁じ得なかった。そしてそれを断ち切るように腰に刺した剣を引き抜くと、獣のような雄たけびをあげながらオークスに斬りかかっていった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」
 オークスの身体に剣をつきたてるや否や鍔越しに鈍い振動が骨を伝う。そして力を御する事が出来ないまま剣の柄が腹にめり込んできた。
「く――!!」
 力を逃すよう柄から手を離すと、反動で突き飛ばされた身体が思いきり地面とぶつかった。追い討ちをかけるように勢いよく彼女の身体が飛び込んでくる。
「うぐっ」
 身体の上に圧し掛かって来た彼女と目が合った瞬間、胸の辺りに鈍い痛みが走った。まるで錘か何かをのせられたかのような感覚がはりついたまま離れない。肋骨をやられたか――片目を閉じて歯をギリッと噛み締めると心の中でそう吐き捨てた。
 一方の彼女は状況を掴めていない様子で、紅蓮の瞳を大きく見開いたまま俺を見つめている。しかし俺達に再会を喜ぶ――それが喜びとなり得たかは解らないが――暇など与えられてはいなかった。彼女の顔の向こうでは丸太のような腕を振り上げたオークスが目を血走らせて俺達を睨みつけている。
 俺は瞬時の判断で彼女の両肩に手をかけると、右手だけに思い切り力を入れて上に覆い被さった。その瞬間、背中に鈍い傷みが走る。同時に俺を見つめる彼女の瞳が収縮し、その小さな唇からは想像もつかない獣のような嗚咽が漏れた。
 俺は唇を微かに緩めて強引に笑みを作ると、傍に突き刺さっていた剣を片手に勢いよく身体をねじった。
『グギャァァァァァァァァ!!!!!!!!!!』
 鈍い手応えと共に魔物の咆哮が響き渡る。そしてボトッという音を立てながら地面に毛むくじゃらの指が落ちた。
 勢いづいた剣は軌道を変えずに手からすり抜けていき、気がついたら再び地面に叩きつけられていた。
 身体中をめぐる鈍い痛みに思わず顔を歪ませてしまう。
「カイッ!!!!!!」
 背後から彼女の叫び声が聞こえてくる。それに応えるように起きあがろうとするが、うまい具合身体に力が入らない。地面に倒れ込んだまま、俺の身体はピクリとも動かなかった。
「貴様……許さんぞ!!!!!!」
 意識が徐々に闇の中へと飲み込まれていく中、怒りに震える彼女の声だけはしっかりと聞こえていた。そして剣が固い何かとぶつかり合う音を知覚した瞬間、意識は完全に闇の底へととけていった。


 深い眠りの中で、曖昧な意識は様々な過去を映し出していた。
 聖騎士の称号を手にしたあの日、目の前でむざむざと殺されて行く仲間を見ている事しか出来なかった幼き日、国を出て行く覚悟をした瞬間――――そして、初めて彼女と出逢ったあの日。
 燃え盛るような紅蓮の瞳に言い知れぬ魅力を感じていた。他の誰にも感じる事の無かった、心の奥底の欠落を満たしてくれる何か。自分と似ているようで全く違う、対の翼を持った存在。歪な形をしたそれで飛ぶ事など叶わないと解っていた。だから互いに拒絶したのだ。傷つく事を知っていたのだから。決して傷を舐め合うのではなく、傷を広げる事にしかならないと知っていたから。だけど、惹かれ合う気持ちを断ち切る事は出来なかった。それは互いの弱さの表象。そして……互いを繋ぐ意思の強さ。


 目覚めつつある意識の中で不安を感じなかったと言えば嘘になる。
 しかし、今なら解るような気がした。ジェンドがあの白い石を置いていった本当の意味。そして、それに対する俺自身の答え。
 間もなくして俺は現実へと回帰するだろう。そこで何が待ち受けているかはわからない。もしかしたら彼女と離れていた三年よりも辛い日々がそこにはあるのかもしれない。だけど、もう一度だけ頑張ってみようと思う。その先にある光を信じて。あの夜、俺達を抱いていた蒼白くて冷たい月の光のような――冷たき月は、その内に秘めた鏡の向こうに全てを抱く優しさを持っていた。
 だからもう一度。
 間違ってもいい。過ちの数だけ翼はより大きくなって行く。歪な過去を塗り変えていく。そしてその身に風を孕んだ瞬間――――

「……ジェンド」
 薄らと開けた目には顔中を真っ赤に泣き腫らした彼女の姿が映っていた。
 八重歯で唇を噛み締め、今にもまた泣き出しそうなその顔に震える手を伸ばしていく。そして熱を帯びた頬に触れた瞬間、もう一度だけ彼女の名を呼んだ。
「ごめんな、ジェンド」
 三年の間、ずっとこの言葉を言いたかった。
 何をしてでも許しを請いたかった。
 請わなければならなかった。
「馬鹿……何であんな事をした!!私なんかの為に……お前を傷つけることしか出来ない……こんな私の為に…………」
 でも本当に伝えたかったのはこんな言葉じゃなかった。自分を偽る事の無い本当の気持ちを伝えたかったんだ。それなのに拒絶される事ばかり恐れて、彼女だけじゃない、自分にまでも嘘をつく術を覚えてしまった。気がついたらいつも諦めたような虚しい笑みを浮かべて。
 だから終わらせたいと思う。その結果がどうであれ、今までずっと胸に抱いてきたこの気持ちを伝えたい。そうしなければ一生後悔するような気がするから。
「ジェンドだから……お前だから命を投げ捨てられる。お前の為だったら俺はどうなってもいいんだ。お前が側で笑ってくれさえすればそれで……」
 頬を生暖かい涙が伝った。
 俺を見下ろした彼女はその大きな瞳から大粒の涙をボロボロと零していた。それでも……それはあの時の涙とは違うと、そんな確信があったのだ。
「そんな事……言うな…………私なんかの為に……全部私の所為なのに…………」
 彼女の頬から手を離し、震える手で懐に入れていた白い石を取り出す。それを見た瞬間、彼女は微かに開いた唇から声を漏らし、目を大きく見開いた。
「お前――」
「これ……お前の気持ちだと思っていいか?」
 彼女は胸に手を当てると、何も言わずに視線を床に落とした。そしてその細い身体を震わせながら何度も頷いてくれた。
 俺は手を伸ばすと彼女の手にそっと触れた。それに応えるようにゆっくりと顔を上げる彼女。頬を真っ赤に染めて目も泣き腫らして……でもそんな彼女がたまらなく可愛く思えた。
「ジェンド……ありがとう」
 もう一度頷くと、彼女は俺の髪にぎこちなく指を絡ませてきた。そしてその場にしゃがみ込んでゆっくりと顔を近づけてくる。
「ありがとう……カイ」
 目の前には宝石のように輝く彼女の瞳があった。

fin

n o t e
引き続き読んでくださってありがとう御座いました! カイのした事はとうてい許される事ではありませんし、「若いから」と正当化するつもりもありませんが、激しくぶつかり合う人間同士の姿を描きたい、という想いからシリーズかさせて頂く事になりました。この先も長く続きますが、よろしくおつきあい頂ければ幸いです。

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