世界がぐるぐると回っている。私を取り巻く全てがぐんにゃりと歪んで、それは私すら虜にしようとする。混沌とした世界へと、私を貶めようとする。子宮に響く快楽と生理的な嫌悪を一身に受けながら、私はただ歯を噛みしめ、矛盾に満ちた感情を何とか消し去ろうと足掻いてみる。この忌むべき男に抱かれながら、虫酸が走るような感覚に襲われながら、一方で、身体の奥底には女としての悦びが芽生えつつある。その事実は、この男以上に私を苛立たせた。
 もちろん、この男に恋愛などといった感情を持ち合わせてはいない。私がこうして寝ているのも、ただ懐に入り込むという以上の意味を持ち得はしない。それでも疑問を抱かずにはいられないのだ。何故このような事をしているのかと。一番安直かつ説得力のある答えは「仕事」という事になるのだろう。アドビスの行く末を担う者として、そこに脅威があるのならば、私は全力をもってそれを排除する。この国のため、ミト様の為に。しかし、私の抱いている疑問の核心はそこにこそあったのだ。何故そうするのかではなく、そうするだけの意味があるのかという事。その裏付けを自らの内に見いだす事が出来るのかという事。そのような事など到底出来よう筈がないのだ。万が一にでも、そこに見出していた筈の「意味」とやらが全くのでたらめだとしたら、私は全てを失ってしまう事となるから。私を私たらしめている思想や概念が、一瞬にして水泡と帰してしまうのだから。
「んっ……あっ……ああっ……イキそ…………」
 今の私のように、きっと全てが『嘘』になってしまう。

e v e r g r e e n

 いつの間にか、隣からは寝息が聞こえてきていた。自分さえ満足すればそれでよいだなんて、如何にも彼らしいではないか。唇を重ねる事もなければ、抱きしめあう事もないし、まして愛を語らう事もない。もっとも、そのような戯れ言を聞かずに済むのはありがたいのだけれど。いい加減に相槌を打って、愛想笑いをして。やるのは簡単だけど、これが案外疲れるものだ。このような男が相手なら尚更だろう。
「ニール」
 彼の名を呼びかけてみる。
 返事はないし、彼はぴくりとも動きはしない。それだけ確認をして、私はゆっくりとベッドから降りていった。
 もう一度彼の方に振り返ってみる。こんな男でも、眠っている姿は案外可愛く見えてしまうから不思議なものだ。目を覚ますたび、それはただの幻想であったと思い知るのだけれど。懲りもせず、幾度と無くそのような思いを抱いてしまう。
 一つだけため息をついて、それから彼に背を向けた。だけれど、すぐに動き出す事は出来なかった。
 私はその場に突っ立ったまま、壁際にある机をじっと見つめ、そしてぎこちなく視線を落としていく。ぼんやりと床を見つめながら、もう一度だけため息を吐いた。
 これから私がしようとしている事。あるいは今までに何度も繰り返してきた事。それが本当に正しいかどうかは、正直私には解らない。相手が彼であったとしても、本当に許されるのかどうか。そして、その行為によって自分を貶める事が果たして正しいのかどうか。考えれば考える程どつぼにはまってしまう。
「まったく……」
 噛みしめるように言って、それを合図に歩き始めた。本棚や箪笥やらを調べながら、いつものように、私の関心は机の方に向かっていく。その上に積み上げられた書類の山を、穴が開く程じっと見つめている。そして今日もまた、取り憑かれたように、それらを手に取っていた。
『パレードにおける警備計画概要』
 それは明日のパレードに関わる書類だった。もちろん私も持っているものだ。しかし、私の興味を引いたのは、上方に書き殴られた『ヤヌス→3000』という文字だった。それが意味する所は見当がついたが、ヤヌスという言葉には聞き覚えがなかった。人の名前だとすればしっくりくるのだが、いずれにしろ、早まった判断をすべきではない。いや、この慎重すぎる姿勢こそが、このような事態に陥った元凶なのかもしれないけれど。
「何してるんだ?」
 背筋を冷たい感覚が走り抜けていく。どこから見られていた? そのような疑念がわき起こってくる一方で、何か答えなければと焦って、頭の中が一気に飽和状態へと至ってしまう。
「明日の事もあるし、もう帰ろうと思って。それにしてもこれは何? いつも片づけるように言ってるじゃない」
 咄嗟に出てきたのは取って付けたような言い訳だった。「まずかったか」という思いを裏付けるように、刹那の沈黙が後に続いた。きっと、それほど長くはなかった筈だ。何せ、刹那などと言う言葉が思い浮かんだくらいだから。だけれど、その瞬間はまるで刻が止まったかのように、何分にも何時間にも感じられたのだ。
「ハッ」
 人を馬鹿にする時のように咽を鳴らす彼。失態を犯したのではないかという疑念が、私の中で一気に確信へと変わっていく。しかし、それを打ち消すかのように彼は笑い出したのだった。
「ははっ、俺はそれ位の方が仕事がはかどるんだよ。あんまりこざっぱりしてると落ち着かないからな」
「も、もう……またそんな事言って。いいわ、また今度私が片づけてあげる」
「ああ、頼むよ」
「じゃあ、私行くわね」
 彼の顔を見る事が出来なかった。私の動揺を悟られたくはなかったし、何より、彼の顔に浮かんでいるかもしれない意地の悪い表情を見たくはなかったのだ。
 私は手にした書類を机に落とすと、ドアの方に向かって足早に歩いていった。途中で何度か躓いたけれど、そんなものには構わず、がむしゃらに足を進めていった。
「シェーナ」
 酷く威圧的な声だった。まるで主には逆らえないと言わんばかりに、私の身体は反射的に動きを止める。微かに震えだした手をギュッと握りしめ、カラカラに乾いた咽をゴクリと鳴らした。
「無理はするなよ」
「え……」
「明日が本番だからって、今から焦っても仕方がない。そうだろう?」
 その言葉の真意を理解できなかったのだ。彼が私の事を心配する筈がないのに、それなのに何故このような言葉をかける? 平生の彼ならば決して口にしないような台詞だ。
 何とも言えない気持ち悪さを胸に抱きつつ、「ええ」とだけ答えた私は、逃げるように部屋の外へと出て行った。
 後ろ手でノブを掴みながらドアにもたれかかる。今更ながら、心臓が激しく鼓動を打ち始めていた。ニールという人間の抱いている深い暗闇ーーそれに自分までもが飲み込まれてしまいそうで、それがたまらなく不安で、悔しくて、私は奥歯をギリッと噛みしめていた。

to be continued...


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