全てが終わる日に vol.3

 私達は何の為に生まれてきたのだろう。
 門の守護者として、世界の均衡を保つ為?
 来るべき終焉を避ける為?
 そう、私達は言わば他者の為の自己を演じざるを得なかった。
 しかし彼は違った。門の民としての自己を破棄し、妹の為に飛び出して行った彼は文字通り頚木を外したのだ。
 私はこれまで、そんな彼の傍でやんちゃな子供を見守る母親を演じてきた。
 少なくともそう信じていた。
 だが実のところ、私が抱いていたのは憧れだった。課せられた自己を生きるのではなく、自らそれに抗う彼に、憧れていたのだ。

 だから、彼と一緒にいられる一時は、私にとってかけがえのない瞬間だった。

「……ア」
 虚ろな思考に心地よい旋律が流れ込んでくる。
 しかし同時に回帰する意識に傷みが混じり込んでくるのも確かだった。
「シリア!おいっ、しっかりしろ!!シリア!!」
 そう。もう一度彼に会えるのだな、という想いと共に、はっきりと死と言う物を知覚していた。
 腹から胸に走る焼け付くような痛み――それは……
「大丈夫、まだ生きてる。だから……そんなに喚くな……」
 笑顔をうまく作る事が出来なかった。胸の上に酷く重いものが乗っているようで、息を吸う度にズキッと激しい痛みが走る。身体中の神経がギイギイと軋んでいるような、そんな感覚だった。
「今すぐにどけてやるからな。だから少しだけ辛抱しろよ!」
 少しだけ辛抱しろ……か。そんな控え目な言葉では足りない事くらい誰よりも私が知っている。
 生きるという事が如何に傷みを伴う物なのか、そして生きる事で死に向かう私達人間は生という呪縛から解き放たれ、苦しみの無い世界へと旅立つその瞬間を切望しているのだと、この時思った。
「――んぁっ!!」
「我慢しろ!コイツをどかさないと……」
 薄らと目を開くと、顔を真っ赤にして何かを持ち上げようとしているダイクの姿が見えた。
 法力がつかえない今となっては私を助ける事など出来よう筈も無いというのに、それでも彼は必死になって私を助けようとしてくれている。
 ここだっていつ崩れるかも解らないというのに、彼は……
「私は……もういい……だから、だからお前だけでも……逃げ……」
「馬鹿野郎!!んな事考えるんじゃねえ!!お前は俺が絶対に助ける。だからそんな事言うんじゃない!!!」
 彼の一言一言がすぅっと胸に溶け込んで来る。その度に目頭がカッと熱くなって、思わず涙が零れ落ちそうになった。
 それでも、泣くわけにはいかなかった。何故なら、涙を零すという事はこの世界に未練があるという事だから。そしてその未練は、彼を縛りつける物だから。
「よしっ。これで少しは楽になっただろ?なあ、おい、シリア!目を開けろ!!シリア!!!」
「全く……とんでもない大馬鹿野郎だ……お前は……私は何度も……逃げろと……言ったぞ……なのに……いつまでも私のそばに……」
「一緒に逃げるんだよ!俺も、お前も!何とかここから抜け出して、地上で暮らすんだ!二人で、いいだろ?」
「それができたら……どれだけ……いいだろう……一緒に暮らして……そう……ずっと言いたかったんだ…………お前の事が……お前の事が……」
「解ってるから……無理して喋らないでいいから……!!」
「言わせてよ……最後くらい…………ずっとずっと言いたかったんだから……」
「…………ああ」
「お前の事が好きだった……ずっと一緒になりたかった……それから……お前の子供を産んで……みんなで一緒に暮らしたかった……」
 最初で最後の告白……出来る事ならこんな形でしたくはなかった−−彼の顔をじっと見つめながら漠然とその様な事を考えていた。私の心は酷く落ち着いていて、いや、感情が溢れすぎて何も感じられないほど麻痺していたというのに、気がついたら生暖かい涙が頬を伝っていた。
 一方のダイクはそんな私の手をギュッと握りしめながら必死になって笑顔を浮かべようとしていたようだった。でもそうしようとすればするほどどんどん顔が引きつっていって……今は泣き出しそうな顔でうんうんと頷いていた。
「ああ、たくさん作ろう。男の子も女の子も!」
「ダイク……もう終わりに……しよう……私はもう……助からない……せめてお前だけでも……」
「シリア!!!」
「……お前だけでも……生きるんだ。私なんかの為に……こんな所で死んじゃ……いけない……」
 その瞬間、身体中に暖かな力が流れ込んできた。頭のてっぺんからつま先までぽぅっと熱気を帯びていく。そして少しずつ痛みの感覚が和らいでいって……その瞬間彼が何を下か悟ってしまった。
「だめ……だめ……だめ!……そんな事するな……お前の命をもらってまで……生きたくなんて……ない……お前がいなかったら……私は……」
「俺の勝手な自己満足かもしれない。お前を傷つける事になるって事も知ってる。でも……俺の最後のワガママ、きいてくれよ」
「嫌よ……何回あんたの我侭……きいてやったと……思ってんのよ……ダメなんだから……もう……」
「……俺の命はお前の中で生きつづける。お前が死ぬその瞬間まで、俺はお前の傍にいるよ、シリア。お前の事、愛してる。お前に救われたこの命……今返すよ」
「……ば……か……」
「サヨナラは言わないから。愛してる……シリア」
「ダイ……ク……」

 強い、強い、意思を持った光に包まれていた。
 虚ろな意識の中で、この力はダイクの命なのだ、という言葉が刃のように心に突き刺さってくる。
 目を覚ました私は、果して自分自身を許せるであろうか。傷みに耐えられるであろうか。
 ダイクが愛してくれた私で……いられるだろうか。

 遠い世界を旅していた。
 暗くて深い海の底。一面の星に抱かれた遥か空の向こう。命の息吹をこの手で感じた深い深い森の奥。そして、かけがえのない刻<とき>を過ごしたあの場所――

 全てが始まり、そして終わったこの場所に、私は再び戻ってきた。
「……ダイク」
 その名を呼んで応える者などいないと、始めから解っていた。
 しかし、そう呼びかけずにはいられなかったのだ。
 今までの全てが夢で、目を覚ませばすぐ傍に彼がいてくれると、そう信じたかった。
「ダイク」
 もう一度だけ、その名を呼ぶ。そして冷たくなった肌に触れて、思いきり指をこすりつけた。
「返事をしろ……いいから、返事をしろ!!!お願い……だ……」
 声を絞り出しながらダイクの身体を思いきり抱きしめる。
 その瞬間に気付いたのだ。

――私は涙を流してはいなかった。


 どれ位の時が経っただろう。
 あれからずっと、ダイクの亡骸を抱きしめたまま、私は地べたに座り込んでいた。
 どこか遠くから人の足音が聞こえてくる。
 足音……足音…………足音……………………シェザードが死に絶えた今、この足音はイルスのそれに違いないだろう。
 私はギリッと歯を噛み締めると、ダイクの身体を静かに横たえ、そしてゆっくりと立ち上がった。
「おいっ、こっちから降りられるぞ!」
「用心しろ!まだシェザードが残っているかもしれない!!」
 残っているさ――そう心の中で吐き捨てながら口元を歪める。そして片手を前に突き出すと、人差し指で魔力増幅の印を結んだ。
 指の動きに沿って蒼白い光の残像が浮かび上がる。その度に胸がズキンと痛んだ。
 私を助ける為にダイクがどれだけの傷みを背負ったのか――それが痛いほどに解った。
 彼は自らの命を削って、それを魔力に変えていたのだ。そして私も今、彼と同じ事をしようとしている。
 それが正しい事かどうかは解らない。いや、ダイクに救われたこの命を捨てようとする時点で、過ちを犯したという事に疑いは無いかもしれない。
 しかし、彼のいない世界で生きる事など私には耐えられる筈が無かった。それが例え己がエゴに従った結果であったとして、私にはそれ以外の決断を下せなかった。
 それは私の弱さであり、同時に、私とダイクを結びつける力の強さでもある。少なくとも、私はそう信じたかった。
「ダイク……ごめん。でも私……お前の望みをかなえてやれるほど強くはないんだ。だから……ごめん」
 ダイクを一瞥した瞬間、それまで安らかだった彼の表情が曇ったような気がした。
 そして視線を上げた時、目の前には大勢のイルスの兵士達がやってきていた。
 私の全てを奪い去っていった奴らを目の前に、拳をギュッと握りしめながら忌々しいその顔を思い切り睨み付ける。
「ふふっ、勇ましいものだな。だがその虚勢がどこまで続くかな?シェザードはもうお前しかいない。余計な抵抗は身の為にならないぞ?」
 結局の所、私達が守ろうとしてきたのはこのような愚かな人間だったのだ。
 自分のことしか考えずに、目的達成の為なら他人を傷つける事をも厭わない恐るべき人間達――それが奴らだった。
 そんな者の為に私達一族は死に絶え、私は一番大切な彼<ひと>を失ったのだ。
「……そんなに力が大切か?ふふっ、残念だったな。神門は二度と開かない。……法力は永遠に失われたぞ!!」
 そしてこの瞬間、私は一つの決断を下したのだ。
 それは即ち、この本能に刻まれた愚かしい人間の本性に従おうという事。ただひとつ、私の最後の仕事として憎むべき奴らを殺そうという事。
 正しいとか間違っているとか、もはやそのような事などどうでもよかった。
 彼らは私達の聖域に土足で踏み込んできて、あまつさえ同族を殺したのだ。そして白状しよう、私をその狂気に突き動かしたのは同族の死などでは無い。たった一人、かけがえのない者の死なのだ。
 彼を失った瞬間、私の半身も死に絶えた。私という規定に些かの変更を加える必要が生じたのだ。

――そう、今や私という存在自体がブレていた。

「ふん……どうせ口から出任せに決まってる。皆、やってしまえ!」
 指揮官と思しき男が右手をあげた瞬間、前列に立っていた法術兵が術の詠唱を始めた。
 ロッドを使った簡易詠唱だ。
 しかし、それが何の意味をも為さない事は明らかだった。
 彼らの杖は淡い光を発するものの、決して術が完成する事は無かったのだ。
「ま……まさか!?」
「お前達に私を倒す勇気があるならかかって来い。だが……容赦はしないぞ!!」
 イルスの間でざわめきが起こる。何人かの兵士達は腰に下げた爆弾に手をかけていたが、私はそれに構わず術の詠唱を始めた。
 つきたてた中指と人差し指を前に差し出し、古代文字を刻み付ける。空気は音も無く震え、刻まれた文字は蒼白い光を放ちながら印を増殖させて行く。
「ば……爆弾を使え!!この女を殺すんだ!!早く!!!」
 明らかに動揺を隠しきれない声が耳に飛び込んでくる。それでも、私は防御結界を張る事無く術の詠唱を続けた。
 彼らが下手に仕掛けてこれない事など承知していた。ただでさえ不安定な場所で爆弾など使ったらどうなるか、理性を失った私でさえも解る事だ。
「駄目です!!先程の振動で側壁が弱っています。こんな状態で爆弾なんて使ったら――」
「この役立たずがぁ!!かくなる上はこのワシが成敗してやるわっ!!!!」
 そう叫んだ男は腰に差した長剣を取り出すと、思いきり隙だらけの型で切りかかって来た。
「ル フェイク ダス アンス  ユーヴァ エス イスト ダス アインキルシュ――」
「でいやぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ヴァイス   ルス ニヒト  ユーヴァ ダス アイネ アインキルシュ フィル ゲヒト ヴァイス!!!!!」
 差し出した手を振り下ろした瞬間、凄まじい磁場の乱れを伴って空間に亀裂が入った。
 空に浮いた印は血の如き赤黒い色に染まり、その中心部からは冷たい光を帯びた稲妻が放たれる。
 裁きの稲妻は地面を這うようにしてイルスの身体を貪り、彼らの命を食らった。
 私は身体中に走る鋭い痛みを感じながら、ただその凄惨な光景を眺めている事しか出来なかった。
 目の前で憎きイルス達が死んで行く姿を見ても、決して満たされる事はなかった。
 ただ、心の奥底に走った亀裂は少しずつ、しかし確実に大きな物となって私を蝕んで行く。
 そして全てが終わったその瞬間、私はただ呆然と立ちつくしていた。


 累々と築き上げられた屍の上に、私は立っていた。
 もはやこの世に生きているのは私だけであるような、そのような錯覚すら抱いてしまう。
 鼻につく生臭い血のにおいは私を現実に引き戻し、これで全てを失ったのだと再び認識させた。
 ただ立っている事しか出来なかったのだ。
 私の行為の結果と、そして失った物の大きさにただ呆然としていた。
 そして次の瞬間、胸を襲う鋭い痛みに耐え切れずに私はその場に倒れこんだ。
「決して許されない事は解っている……でも……後悔はしてないわ……ダイ…ク……」
 そう呟いた瞬間、意識は深遠なる闇の底へと隋ちていった。

fin


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