MATRICE

第五章 マトリス

「マトリクスの中に入るだと!? そんなの無茶だ! 危険過ぎる!! それにシステムの運営は停止している筈だろ?」
「調査の為に全システムは稼動しているわ。緊急コードを使えば簡単に入れる」
「解ってるのか? またJadeが出てこないとも限らないんだ。それに未知のセキュリティホールがあればどうする? それが原因かもしれないんだぞ!?」
 私はキーボードを操る手を止めると、そのまま顔を横に向けてダグをじっと見つめた。
「私は……私なら大丈夫よ。絶対に襲われたりはしない」
「何を根拠に言ってる? まだ原因だって解ってないんだ」
 深刻な表情のダグをあざ笑うように口元をゆるませ、そしてキーボードから手を離した。その手をゆっくりと上げて撫でるように彼の頬に触れる。
「大丈夫よ。――私を信じて」
 彼は一瞬ほど視線を逸らすと、意を決したかのように唇をぎゅっと噛み締め、私の顔をじっと見つめた。
「……解った、信じるよ。但し、戻って来なかったらただじゃ済まさないからな」
「ええ、約束するわ」
 フッと鼻で笑って、彼の頬に軽くキスをした。何が起こったのか解らないといった風な彼は立ち竦んだまま動こうとしない。私はそんな彼に悪戯っぽい笑みを向けると、方をぽんと叩いてダイブ用のマシンへと向かっていった。

「緊急コードはさっき入力しておいたわ。殆ど設定はデフォルトでいけるけど、環境変数はゼロに、バックグラウンドのアクティブ演算は停止して」
 そう言いながらマシンから伸びた黒いコードをインプラントに接続する。一瞬視界にノイズが混入し、目の前のモニタには夥しい数のデータ群が映し出された。
「転送座標は?」
「トレース可能域ならどこでもいいわ。あなたに任せる」
「OK。じゃあ目を閉じて。ダイブするぞ」
「ええ、お願い」
 その瞬間、頭の中に蒼白い炎のイメージが浮かび上がった。その炎からは青く輝く糸が無数に吐き出され、まるで生き物のように四方へと広がっていく。そして暗闇がグリッドで覆われた瞬間、目の前が真っ白になった。

 そこは何もない世界だった。
 否、白いヴェールだけが無数に連なる無機質な空間。
 周りを見回しながらゆっくりと足を進めていく。足が地面に接する度に、歪んだ反響音が静寂を切り裂いていった。
 何度ヴェールをくぐろうともその先にあるのは同じヴェールの連なりであり、文字通り連続体としての世界だった。まるでエンドレスに演算を繰り返すように、微かな風に靡くヴェールは視界から消える事が無かった。
「この世界は気に入ってくれたかな?」
 不意に透き通った声が思考の中に侵入してくる。
――それは酷く懐かしい、私が常に求めていた者の声。
「…………スライ」
 私はゆっくりと目を閉じると、愛しむようにその名を呼んだ。期待と不安の入り交じった複雑な感覚を抱きながらゆっくりと目を開いた瞬間、目の前には昔と何ら変わる事のないスライが、うっすらと笑みを浮かべながら立っていた。
「覚えていてくれたんだね、エイダ。嬉しいよ」
「やはり……貴方だったのね」
 微動だにせずに抑揚のない声で呟く。それが気に入らないのか、スライは両手を上げて肩を竦ませると、唇を微かに歪ませてみせた。
「どうしたんだい? 三年ぶりの再会だというのに、何故そんな顔をしている?」
「あなたは亡霊だわ。私の知っているスライじゃない。あの時から……貴方は変わってしまった。何かに取り憑かれたかのように……」
「亡霊?僕の目から見れば君達の方がそうに違いないね。現実を認める勇気も無いくせにいつまでも現実に固執して。永遠にその揺らぎに猶予う亡霊だ。だが僕は違う。僕は人間がその永き歴史の中で求め続けた楽園を見つけたんだ。マトリスと交わる事により、僕は母となった。全てを超越した存在だ」
 薄らと笑みを浮かべたスライの姿は、既に常軌を逸した人間のなれの果てにしか見えなかった。私はそんな彼を哀れみ、同時に憎んでいた。現実を、私を忘れて別の世界に行ってしまった彼を。
――自ら死という生を選んだ彼を。
「本気で……そう思っているの?」
「どういう事だい?」
「貴方は誰よりも気付いていた筈よ。楽園の不在に、揺らぎの中で猶予う自らの存在に」
「――馬鹿な事を」
「だから……あなたはマトリクス上に己が内に潜む無を吐き出した。そして楽園を侵すものに制裁<Jade>を課した。自らの楽園を脅かすファルスとしての人間達に、ね」
「何を根拠にそんな事を言っている!!」
「あなたは言語による世界の構築を目指した。それは即ち、自らの無を隠蔽してくれる完全無欠な世界。でも……貴方は気付いたのよ。言語その物が無であるという事を。そしてその言語に依るあなたは、寄る辺ない寸断された存在だった。自らを規定する術を失った。あなたの存在は揺らぎ出している。そしてあなたが合一したゾーム自身も、その身に矛盾を抱えてしまった。だから……マトリクス・システムが暴走したんでしょ?」
「や……やめろっ……嘘だ……そんなの嘘だ……僕は認めないぞ!!!!」
 蒼白い光を放ちながら、スライの身体に無数の皹が走っていく。それはまるでパズルのピースのようにバラバラになり、そしてゆっくりと宙に浮いていった。辛うじて形をとどめていた彼は、哀願するような表情で私を見つめていた。
「この世界は私達とは相容れないもの。貴方のいるべき場所ではないわ。私がついている。だから……だから一緒に還りましょう、スライ」
 私が彼を抱きしめた瞬間、微かに残っていた欠片は粉々に砕け散り、風に飲み込まれていった。
 漠然とした喪失と虚無を感じながら、私はただその場に立ち竦んでいた。
 耳を澄ませばこの世界が軋む音が聞こえてくる。
 全ては無に還るのだ。
 この世界の母であるスライを、そしてゾームを失った今、存在する唯一の理由は失われた。
 そして私も、この世界に身を任せて消えていくのだろう。
 曖昧な意識の中で思考が限りなく白に溶け込んでいくような、そんな気がした。

to be continued...


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