ゆっくりと目を開くと、未だ仄暗い闇が辺りを包んでいた。 窓から差し込んでくる蒼白の月明かりは闇を切り裂き、この世界が深い闇の底に堕ちる事を辛うじて免れさせている。 私はこの闇に恐怖し、そして一条の矢の如き光に慰めを求めるのだ。 毎夜のように見るあの夢が心の奥底に張り付いて、あまつさえ深い影を落としていたから。
夢の中で私は見覚えのある街を歩いている。 既に陽の光は落ちて、閑散とした街は身体に纏わり付くようなじっとりとした闇に包まれている。 何がおきているのか、自分がどこにいるのかすら解らない−−私はそこから逃れるように、そして彼の姿を探るように足を進めていく。 この街を訪れた事のあるような一種の既知感を抱きながら、その記憶を手繰りよせようとした瞬間に大勢の人間が私を取り囲んでいるのだ。 彼らは私を指差しながら各々が忌まわしいダークエルフの名を口にしている。 私は唇を噛み締め、そして足早にその場から立ち去ろうとする。 しかし彼らの視線はナイフのようにいつまでも私の心に突き刺さったままなのだ。
「どうして……」 溜息をかみ殺すように呟くと、隣で眠る彼に視線を落とした。 彼は何事も無かったように無邪気な顔をして眠っている。 実際に何も無かったに違いない。しかしそんな彼の顔を見る度に恐ろしい程の孤独と焦燥に襲われるのだ。 闇に沈んだこの世界に私一人だけが取り残されているようで……私は慰めるように自分の身体を抱きしめる。そして彼の腕に抱かれる自分を思い浮かべながらゆっくりと目を閉じた。 『俺がいるよ』 『一人じゃないから』 そんなお決まりの陳腐な科白にどれだけ救われていたか--それにすら気付かない自分を愚かしく思いながら、私は記憶に残る彼の言葉を何度も何度も頭の中で反芻していた。 |
an angel in a birdcage
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アドビス王の訃報が伝えられたのは今から数ヶ月前の事だった。 流行り病にやられたというのが王室の公表だったが、その裏で王は殺されたのだという噂がオッツキイム中に広まっていた。 王位継承者であるシオン王子がいないまま王位はルハーツ王妃に委譲され、それから王妃による専制が始まる事となる。 横暴な政治と搾取によって国中が荒廃し、かつてはオッツキイムの中心とまで言われたアドビスの姿など見る影もなくなっていた。 「なあ、ジェンド……俺……」 その話を聞いた後、落胆の色を露にした彼は遠慮がちに切り出してきた。 アドビスが私にとって好意的な対象とはなりえなかった事を彼は知っていたのだ。 それなのに敢えてアドビスに行きたいと言ったその裏には並々ならぬ決意があったに違いなかった。 そんな彼を差し置いて嫌だなどと言える筈が無かったのだ。 「私はどこにでもついていくから……お前の好きにしたらいい」 鼻で笑いながらそう言った私に、彼は済まなさそうに微笑んでみせたっけ。
久々に訪れたアドビスは予想していた以上に酷い有様だった。 街の上にはまるで鎮座しているかのように暗雲が垂れ込め、城下町は酷くくすんだ色彩を帯びている。そして街路にはボロボロになった服を纏った民が子供も大人も関係なく座り込んでいた。 近くを通り過ぎる度、空ろな瞳の彼らは値踏みをするように私達を見つめ、溜息を吐きながら再び頭を垂れた。 「酷いな……どうしてこんな……」 消え入りそうな沈痛な声に反応して隣に顔を向ける。 彼は目を細めながら痛みに耐えているかのような表情で辺りを見つめていた。 彼がそのような顔をする理由を私は知らない。この国で何があったのか、そして何故聖騎士をやめたのか−−過去の記憶を失った自分のように、私は彼の過去を知らなかった。 それを知っていた所で気のきいた言葉一つかけてやれたかどうかは解らない。ただ、苦しむ彼を目の前に何もしてやれない自分がどうしようもなく歯痒かったのだ。 こういう時に彼ならどうしただろう? きっとわざとらしいまでに明るく振舞って、そして場違いな手品でも見せてくれたに違いない。 馬鹿らしいと思いながらも心にしっくりきて……こういう時には嫌というほど良く気が回る男だから。 「……大丈夫か?」 強張った笑みを浮かべながら「ああ」と答える彼。 大丈夫なわけないだろう−−そう思いながら、こんな言葉しかかけてやる事の出来ない自分が酷く情けなかった。
「俺はこれから知り合いに会ってくるけど……お前はどうする?」 場末の宿の一室で荷物を解きながら、彼は不意に口を開いた。 「知り合い?」 その言葉に引っかかって反射的に問いかけてみる。彼は一瞬だけ手を止めると、私の方に顔を向けて口元に微かな笑みを浮かべてみせた。 「僧兵長だよ。まあ……色々縁があってさ。ついて来ても大して面白くないと思うけど」 「……私は街をぶらついてるよ」 その言葉の中に隠された真意を察して、私は敢えて彼の顔を見ずにそう応えた。そんなに解りやすく避けなくてもいいじゃないか−−心の中で呟きながら、彼に見えないようにベッドのシーツを握り締める。 「そう……か。うん、それがいい。でも色々物騒みたいだから−−」 「−−暴れたりはしない」 「ははっ……お手柔らかに頼むぜ?」 「解ってる。夕食は?」 「戻ってくるよ。六時ごろは?」 「いいよ。じゃあ六時にここで。」 「ん……解った」
ドアが閉まる音が聞こえた瞬間、私は一つだけ大きな溜息を吐くとごろんとベッドの上に横たわった。 無造作に散らばった髪の毛が首筋をチクチクと刺して、不意に身体中に倦怠感がのしかかってくる。 「ついてきても面白くない……か」 埃にまみれた灰色の天井を眺めながら、誰に聞かせるわけでもなくそう呟いた。 窓の外から聞こえてくる活気の無い足音が酷く空虚に聞こえて、その音に飲み込まれてしまいそうな錯覚を抱きながらゆっくりと目を閉じる。 このアドビスには彼が私に隠そうとしている全てがある……何となくそんな確信があった。 ひた隠そうとする目の下の傷跡、時々発作のように悪夢にうなされるその理由、何もかもがここにある。だけど大切な事は何一つ知らないのだ。彼は何一つ教えてはくれない。私にはそれを受け入れる器が無いと言われているようで、そんな自分がたまらなく虚しかった。
数刻の時が漠然と流れて行った後、私は思いたったように街へと出かけていく事に決めた。 ただ一人で待っている孤独に耐えられなかったのと、きっと無意識のうちにこの街に残る彼の匂いを求めていたのだろう。 鞄の底に仕舞っていたローブをすっぽりと被って、顔を隠すように髪の毛を前に垂らしてみる。 独りきりでダークエルフであるこの身体を衆人に曝け出す勇気は今の私には無かったのだ。 一人で旅をしていた頃には気にすらしなかったと言うのに……依存する事で私は弱さを知ってしまった。いや、決して自分が弱くなかったわけではない。必死になって自分に嘘をついて、自分にすら己の弱さを隠していたのだから。
アドビスの城下町は陰鬱な空気に包まれていた。 街道を行き交う人々の顔にも暗い影が落とされ、それが空に浮かんだ暗雲と相俟って街全体がくすんで見える。 私には政治の事など何も解らないが、彼らにとって幸せとは程遠い状況である事は容易に理解できた。 「あ……」 私の顔を見つめたまま立ち止まった男が不意に声を漏らす。 きっとローブの隙間から尖った耳が見えたのだろう。ローブ越しに耳を両手で覆い、歯をギリっと噛み締めながらその男の顔を睨み付けてやる。 そんなに怖い顔をしていたのだろうか、男は情けない叫び声をあげながら慌ててその場から立ち去っていった。 後に残ったのは周囲の人間からの蔑むような鋭い視線……少なくとも私にはそうとしか思えなかった。 「何をじろじろ見ている!!!」 肌に纏わり付いてくるじっとりとした視線を断ち切るように思い切り叫んだ瞬間、奴等は風に吹かれた枯葉の如く徒党を組んで立ち去っていった。
一人取り残された街路の中で呼吸は酷く乱れ、身体中が熱気を帯びていた。 何故私が他人の視線など気にしなければならない?ダークエルフだというだけでこそこそ生きなければならない? そもそも−− 「……だと言うのか?ルハーツ王妃が−−」 突然耳に入ってきた聞き覚えのある声に思わず足が向いてしまう。 だが何か忌諱を犯しているようで、気が付いたら足音を殺していた。 「その可能性を示唆しているだけだ。確信は無い」 「だがこの状況はどういう事だ!?貴方がついていながら−−」 「−−お前はこの国を棄てて自由を選んだ。わしにとやかく言う権利が?」 「…………いや。それは−−!?」 不意に足音を立ててしまった瞬間、即座に言葉を切った彼はこちらに向かって勢い良く振り向いてきた。そして私の顔を見るなり呆気に取られた様子ではっと息を呑んだ。 「ジェンド……何でお前が!?」 明らかに動揺を隠し切れないその顔に、それ程までにして隠したい事があるのか、と思うと酷く腹が立って仕方が無かった。 「…………」 一度だけ彼を睨み付けておもむろに身体を翻す。 そしてそれ以上彼の言葉を待つ事無く足早に歩き出した。 「あ……おいっ、ジーク、悪いけど続きはまた今度に!!」 必死になって追いかけてくる彼を尻目に歩き続ける私。 胸の辺りにもやもやとした感覚が立ち込めて、悲しいのか怒っているのかすら解らないまま、その感覚を断ち切るように足を進めていく。 「ジェンド!!ちょっと待てよ!一体どうしたんだよ!?」 「別に……」 「別にって……だったら話くらい聞いてくれたっていいだろ?」 「話の途中だったんだろう?私になど構わなくていいから続きを話してきたらどうだ?」 「たいした話じゃない。ただ……」 「だったら何でこそこそする!!私に知られちゃ困る事でもあるのか!?」 そこで足を止めると、勢い良く後ろに振り返った。 いきなりの事に驚いたらしい彼は身体を抑えきれずに前のめりになって、後もう少しで二人の顔がぶつかりそうになる。 「あ……」 私は一度だけ視線を斜め下に落とすと、今度は思い切り気怠そうな目をして彼を見上げた。 「……私は気にしてないから」 そして再び彼に背中を向ける。 だが彼としてもそのまま行かせるつもりは無いらしい。乱暴に私の手を取ると勢い良く自分の方へと振り向かせた。 「何をする!!」 「どうでもなかったら何でそんな顔するんだよ!!」 彼の普段は見せない怒りに満ちた顔にビクンと身体を震わせる私。 私が酷く怯えている事に気付いたのだろう。彼は慌てて手を離すと「ごめん」と謝ってきた。 こんな時はいつもコイツの事をずるいと思う。 子供のようなすがる目で見られたらそれ以上何も言えないじゃないか……漠然とそんな事を考えながら、怒りの矛先を失った瞳を彼に向けた。 「……何で話してくれない?アドビスで何があったのか。どうして聖騎士をやめたのか。その頬の傷の事も……私じゃ不足か?」 その言葉を聞いた瞬間、はっとした表情を見せた彼はゆっくりと頭を振りながら「違う……そうじゃないんだ」と呟いた。 「男ってさ……妙な所で見栄を張りたがるんだよ。俺の過去……自分の弱さ……お前なら受け止めてくれると思うし、そうすれば随分楽だと思う。だけど……お前だけには知られたくないとも思うんだ。いつもお前を支えられる強い男でいたいと思うから。弱い自分なんて知られたくないから。だから……」 それ以上の言葉を遮るように彼の胸へと顔を埋める。 そしてシャツの胸の辺りを両手でぎゅっと握り締めると「……バカ」と呟いた。 男って何でこうも馬鹿な生き物なのだろう。いい所を見せようと無理して、結局はつぶれて……それなら初めから無理などしなければ良いのに。でもそんなバカな所がたまらなく可愛く思えるのは、やはり私も女であるという証なのだろうか。 「ごめん……」 そう言いながら腰に手を回してくる彼。 彼の温もりを感じながら、互いの顔が見えないのもいいかもしれないと、そんな風に感じていた。彼は今どんな顔をしているのだろう、どんな事を考えているのだろう−−トクン……トクンと打つ心臓の音を聞きながら、そんな風に思いを巡らせる瞬間がたまらなく愛しく思えるから。 「諦めてる……でも、次はもっとうまく隠せよ」 それに応えるように、彼は思い切り私の身体を抱きしめてくれた。 そして空が紅に染まっていく中、二人の影は一つに重なっていた。 |
to be continued...
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