ラシャの丘は暗闇と静寂に包まれていた。 俺たちの他には誰もいない、二人だけの世界。ゆっくりと目を閉じ、いつもとは違うその時間を、じっくりと噛み締めている。大きな神木の下に腰を下ろして、彼女と肩を並べながら。 俺の中で何が変わったという訳でもない。大喜びするほど気分が昂揚しているわけでもない。ただ、俺の心は、この身を打ち振るわせるような静かな感動に包まれていたのだ。 「ずっと……傍にいてくれたんだな」 少しだけ擦れた彼女の声が響き渡る。女性にしては低い、芯のある声。俺にとってはこの上もなく心地の良い声だった。 「ああ、お前がそう望んでくれたから」 「ありがとう……カイ」 「ありがとう……ジェンド。生きていてくれて。そして、俺の傍にいてくれて」 「記憶を失っていた間も、ずっとお前の事は好きだったよ。今なら解るんだ。記憶を失っていた間も、今も、お前に対する気持ちは何一つ変わってはいない。ずっと自分の事で精一杯で、気付く余裕もなかったけれど」 「そう……か」 「もう少し喜ぶかと思ってた。嬉しく……ないのか?」 「もちろん嬉しいよ。嬉しいけど」 「けど?」 「記憶を失う前のお前も、記憶を失った後のお前も……俺にとってはかわらず大切な人だったから。だから、お前がこれ以上苦しまないで済む事は凄く嬉しいんだ。だけど、お前が元通りになってくれたから嬉しいだなんて、そんな風には思っていない。ここで過ごした二年間も……凄く大切な二年間だったから」 「……馬鹿」 「何だよ、人がせっかく良い事言ったのにさ」 「いいや、お前は絶対に馬鹿だ。大馬鹿者だ。他のヤツなら……こんなお荷物さっさと捨てて、別の女に走るに決まってるのに」 「他のヤツって、お前だったらどうなんだよ?」 「私は…………私ならそうはしないけど……」 「ふふっ、じゃあお前だって同じじゃん」 「……悪いか?」 「ほら、カリカリしないの」 「誰のせいだ」 「俺のせいかよ? ははっ、困ったな。どうしたら許してくれるんだ?」 「……自分で考えろ」 ゆっくりと彼女の方に顔を向けてみる。 暗いせいで表情はよく解らない。それでも、その瞳は月の色に染まって、どんな宝石よりも美しく輝いていた。 俺の瞳に映っているのは彼女だけで、その姿をいつまでも映しておきたくて。それでも、目を離してしまいたくなるほどの気恥ずかしさが俺の中にあって。 身体中が微かに熱を帯びている。握りしめた掌がじっとりと汗ばんでいく。胸の鼓動が少しずつ高まっていって、頭の中にその音だけが鳴り響いていた。これじゃ初心なガキじゃないか、そんな風に心の中で呟きながら、ゆっくりと彼女の方に身体を向けた。その時に肩が触れあって、彼女の唇から擦れた声が漏れた。 「あ……」 まるで先程までの威勢がただの虚勢であったかのようにすら思えた。 彼女は地面を見つめたまま、目瞬き一つしようともしない。暗闇の中に長い睫毛が浮かび上がって、艶めかしい光を帯びたそれは、冷たい月明かりに染まった彼女に大人の色香を添えていた。 「ジェンド」 頬に刻まれた傷跡にそっと触れる。その瞬間、彼女の身体がピクッと震えた。薬指と小指を顎の方に回して、何とかこちらを向かせようと、少しだけ力をいれてみる。しかし、彼女はぎこちなく首を動かしながら、俺から逃げるように顔を背けてしまった。 「嫌か?」 「そうじゃ……ない」 「別に無理しなくていいんだぞ? したくなかったら別に……」 「違うって」 「でもーー」 「恥ずかしいんだよ、馬鹿!!」 上目遣いで俺を睨み付ける彼女。思わず呆気にとられてしまう俺。だけど、彼女の顔を見ていたら何だか可笑しくなって。気がついたら、不機嫌そうな彼女を尻目に、ケラケラと笑ってしまっていた。 「むぅ……笑うなったら笑うな!!」 「あっはっは……ごめんごめん。でもジェンド見てたら、さ」 「何が『さ』だ」 「ふふっ、だからごめんって。でもさ、一つ言っていい?」 「何だよ?」 「大好きだよ、ジェンド」 まるで石になってしまったかのように固まってしまうジェンド。その隙を逃すはずもない俺は、おでこにチュッと口付けをしてやる。反射的に身体を震わせた彼女は、ゆっくりと両手を胸に押し当て、俺の胸にこつんと頭を押しつけてきた。 「お前の顔なんて……見てやらない」 そんなジェンドがたまらなく愛おしかった。 左手で背中を抱きしめながら、右手で髪の毛を優しく撫でてやる。それから髪伝いに首筋に触れて、ピンと尖った耳に触れる程度のキスをした。 「ひゃうっ……」 服の胸元を思い切り握りしめながら、彼女の唇から甘ったるい声が漏れる。その声を聞くだけで背筋がゾクッとして、身体中が再び熱を帯びていくのが手に取るように解った。 尖った耳の先っぽからつけ根まで舌を這わせていく。それから舌で髪の毛を掻き分けながら、首筋をペロッと舐めてやった。 「あっ…………バカッ……」 「ジェンド……俺……」 「ここじゃ……やだ…………」 「ご……ごめん」 「バカ……謝らなくていい」 「あ……うん。でもそんなにバカバカ言わなくてもいいじゃん。俺しょげちゃうよ?」 「…………バカ」 「あ、また言った」 「別に……本気で言ってる訳じゃない」 「ならいいや」 「……単純なヤツ」 「何か言ったか?」 「いいや」 「ちぇっ……まあいいや。それじゃ、そろそろ行くか。立てる?」 「…………」 「ふふっ、解ったよ。ほら、俺の手につかまって」 「……うん」 「よし。じゃあ行こうか」 「ごめん」 「どうしたんだよ、いきなり?」 「素直じゃないな……私。こんな事言うつもりないのに、気がついたら口をついて出てて。昨日までの私ならこんな事ーー」 「ストップ。それ以上言ったらただじゃおかねーぞ」 「カイ……」 「いいか、お前が無理したら、俺まで無理しなくちゃいけなくなるんだぜ? 俺にそうさせたいのか?」 「そんなの……嫌だ」 「だったら、あるがままでいてくれればいい。ありのままのジェンドでさ」 「……うん、解った」 「よし、じゃあ行こ?」 「ああ。なあ……」 「ん? どうかした?」 「暗いから」 「ふふっ、そうだな。俺の大切なお姫様が転ばないようにエスコートさせて頂きますよ」 「……うん」
どれくらいかかったろう。俺たちは手を繋いだまま、何も言葉を交わすこともなく、ゆっくりとした足取りで家に帰ってきた。 手を繋いでいるだけなのに、それがたまらなく恥ずかしくて、物凄く嬉しくて。心の片隅で、家になんてつかなければいいのに、と思っている自分がいた。 そして今、俺たちは真っ暗な部屋の中、ベッドの上にちょこんと座っている。今まで何度も繰り返してきた筈のその行為が、今はとてつもなく遠い世界の事に思えて。まるで初めてする時のように胸がどきどきして、手が震えて、彼女の顔をまともに見る事が出来なかった。 「それじゃ……しよっか」 我ながら何て酷い台詞回しだと思う。それでも、こうとでも言わなければ先に進めない気がして仕方なかったのだ。 「なあ……カイ……」 「どうした?」 「私……久しぶりだから……」 「解ってる。優しくするから」 「……うん」
二年ぶりのキスだった。 どうすればいいか忘れてしまうほどの長い間。認めたくないけど、うまく出来るかどうか物凄く怖かった。だけど、唇を重ねるだけで良かったんだ。テクニックとかそういう事じゃなくて、俺たちが一番気持ちいいと思う事をすれば、それで良かったのだから。 唇だけ繋がったまま、ゆっくりと彼女の服のボタンを外していく。一つ、また一つ、その度に彼女の唇から熱い吐息が漏れる。喉の奥が焼き付くようなその感覚に、俺自身もますます昂ぶっていく。そして最後のボタンに手をかけた瞬間、彼女の身体がピクンと震えた。ゆっくりと唇を離した彼女は、ベッドに視線を落として、両手を胸の前で交差させた。 彼女の呼吸が少しずつ早くなっていく。仄暗い闇を隔てて、張りつめた緊張が手に取るように伝わってくる。 「大丈夫だよ」 ウェーブのかかった髪の毛を右手で優しく撫でて、その手をゆっくりと背中の方に落としていく。それから左手で耳に触れて、彼女の輪郭をなぞりながら、その身体を思い切り抱きしめてやった。 「怖くないからな」 胸の辺りで彼女の手がもぞもぞと動く。抱きしめる力を少しだけ緩めてやると、その手は俺の身体をぎこちなくなぞりながら、背中へと回されていった。 「怖くなんてない。お前を信じているから。だけど……もう少しだけこうしていたい」 「俺も……ずっとジェンドを抱きしめていたい」 「もっときつくして」 「うん。苦しくない?」 「苦しいくらいがいい……このくらいが好きだ」 背中に生暖かい液体がこぼれ落ちてくる。一粒、そしてまた一粒。それが何かくらいすぐに解った。 「お前……泣いてるのか?」 「だめ……離れないで。どうしてだろう……涙がこみ上げてきて。でも、辛い訳じゃないから」 「ああ」 「お前に抱きしめられていると物凄く安心する。心が解けていくような気がするんだ。とても心地よくて……嬉しくて。カイ……お前が傍にいてくれて良かった。心からそう思うよ」 「俺も、お前が傍にいてくれて良かった。もう絶対に離したりしないから。ジェンド、いつまでも一緒にいよう」 「うん……いつまでも一緒に」 この時、ジェンドと一つになれた気がしたんだ。 俺とジェンドーー片翼の天使達は互いの翼を携え、今この刻より無限の大空へと旅立とう。二人なら最後まで行く事が出来る。今ならば、そう確信する事が出来るから。 冴え冴えと輝く月明かりに照らされ、俺たちは永遠の刻を誓い合った。
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fin
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