「なあ……ジェンド。今すぐにってワケじゃないんだけどさ」
「ん……?」
「無理にっていうんじゃなくて、別にお前が嫌ならそれで――」
「……だから何だ?」
「あのさ……どこかいい場所見つけて一緒に暮らさないか?このまま旅を続けるってのも悪くはないけど、落ち着いた生活をするのもいいと思うんだ」
「長い間旅ばかりして私も疲れたし、一つの場所に落ち着くのもいいかもしれない。でも……」
「でも?」
「その前に行きたい場所があるんだ。お前と一緒に」
「十六夜のトコ?」
「そうじゃない。私がずっと眠っていた……今の私が生まれたあの場所に」

s a c r e d   t e a r s

 私が旅の目的地に掲げたのはジェンドの森だった。
 十六夜と出会う前の私はこの森の奥深くで抱かれるようにして眠っていたのだ。その前に何をしていたのか、何故ダークエルフである私が生き残ったのか――目覚めた私は何一つ解らないまま十六夜と旅を始めた。
 だけれど未だ記憶だけがこの森の奥深くに眠っているような気がして、そして新しい時を共に刻む彼と一緒に、全てが始まったこの場所を訪れたかったのだ。

 ジェンドの森は異様な静寂に包まれていた。嵐の前の静けさと言おうか、木々のざわめく音もしなければ小鳥のさえずりや蠢動<しゅんどう>の音さえも聞こえてはこない。ただ地面を踏みしめる度に起こる小枝の折れる音と、時たま交わされる僅かな言の葉だけが森の中に響き渡っていた。
 二人分の足音を聞きながら、私は目の前に広がる色鮮やかな緑に目を奪われていた。原色の絵の具を混ぜ合わせたような複雑な色彩が鬱蒼と生い茂った森を覆い尽くして、その一つ一つの色はまるで宝石であるかのように光り輝いていた。私自身は宝石になど興味はないが、この色彩には心を惹きつける何かがあった。
「十六夜が見つけるまで……私はこの森の奥深くで眠っていた」
「ああ」
「ここにいると何故か心が落ち着く。この白い石を手にしている時のように、大切な何かを取り戻したような気がして……だからお前にも見て欲しかったんだ。ここは私の全てが始まった場所だから。十六夜が私を見つけなかったら、今こうしてお前と一緒にいる事もなかっただろうから」
「ジェンド……」

 まるで森自体がそこに鎮座しているようだった。木々に宿る小さな命の息吹に包まれた酷く優しい場所であるように思えたのだ。そして私達の行く手を阻むように立ち尽くしていた大樹を目にした瞬間、私は思わず息を呑んでしまった。
「この木は……」
 胸の内には懐旧に満ちたある確信があった。私はこの木に護られるようにして眠っていたのだ。
 懐から取り出した白い石を懐かしむように胸へと押し当てる。そしてこの思いを伝えようと後ろに振り返った瞬間、私ははっと息を呑んだ。

「え……」
 しばらく呆然と立ち竦んでいた私は思い出したかのように口を開いた。今までそこに鎮座していたジェンドの森は跡形もなく消え去り、まるで見た事のない煌びやかな夜の町が広がっていたのだ。
 夜だというのに街中が妖艶な光に彩られ、甘ったるい香の匂いが漂っている。大路を行き交う女達は胸元の大きく開いた服を身に纏い、男達の好色な視線を誘っていた。
「カイ……カイ!」
 辺りを見回しながら縋るような思いで彼の名を叫んでみる。
 しかし応えはない。ただ獣と化した男と女の歓喜の声が返ってくるだけだ。
 私は目の前で繰り広げられている饗宴を呆然と見つめながら、フラフラと人ごみの中へと入っていった。このまま突っ立っていても埒があかないのは明白だったし、早くカイを見つけたかったのだ。
 足を進めていくごとに香の匂いは強くなり、人の波に揉まれながら、頭の中ではぐるぐると嬌声が回っていた。
 自分が何処にいるのかさえ解らない、この狂気としか思えない世界の中で、胸をザワつかせる不安に蝕まれてしまうのではないかと思った。
 しかし次の瞬間、人ごみの中に見覚えのある顔を見つけてほっと胸を撫で下ろした。
「カイ! ……カ」
 彼の視線の先が目に入って、私は口を開けたままその場に立ち竦んでしまった。目の前の彼は見知らぬ女に体中を弄られながら、楽しげに話をしていたのだ。
「……代は貴方持ちで一晩500アル。どう、悪くはないでしょ?」
「いいよ、それで」
 見知らぬ女相手にヘラヘラと笑っている彼を目の前にして怒りを禁じえなかった。
私がこんなにも不安に駆られていたというのに、あの男ときたら呑気に他の女を口説いてるときた。
 私は歯をギリッと噛み締めると、拳を硬く握り締めて彼の方へと足早に向かっていった。
「カイ、貴様!!」
 胸倉を思い切り掴んでやろうと手を伸ばす。しかしその手は彼の体をすり抜けて空を切っていた。
「嘘……だ」
 そして顔を上げると、彼と女は既に近くの宿の中へと入る所だった。
 私は何度か自分の拳と彼を交互に見返した後、未だ何が起こったのか解らないまま二人の後を追っていった。

 宿の中に入った私は辺りをぐるりと見回してみた。
 丁度吹き抜きになった所から二階の奥の部屋へと入っていく二人の姿が見える。全身から嫌な汗が噴出してくるのを感じながらゴクリと唾を飲み込んだ。そして2人が消えていったその部屋を再び見上げると、恐る恐る階段を上っていった。
 あいつが他の女を抱いていると考えるだけで胸が悪くなる。しかし今の私が感じていたのはその様な嫌悪ではなかった。もっと抽象的な……動物の本能に刻み込まれた不安のようなもの――私をと惑わせていたのはその類の感情に他ならなかった。
「……」
 二人の入っていった部屋の前で一つだけ大きな息をつく。そして意を決すると静かにドアを開けた。


fin


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