un coeur

「少し寒くなってきたな。そろそろ帰るか?」
 振りかえりざまにそう尋ねると、彼はこくりと頷きながら「ああ」と答えた。両手を床について立ち上がろうとする彼の姿は見ていてどこか危なっかしい。どこが、と訊かれれば答えに窮するが、身体を庇うようにした動きは不自然に見えるのだ。案の定、私の胸の辺りまで立ち上がった彼はバランスを崩して転びそうになった。
 咄嗟に手を出した私は彼の身体を抱きとめてそのまま引き上げてやる。
「……ごめん」
 私の顔を見るなり、彼は申し訳なさそうな顔をして謝ってきた。
 彼にしてみれば思わず口をついた言葉だったのかもしれない。しかし私にとっては、それが二人の間に出来てしまった決定的な溝のように思えて仕方が無かったのだ。
 気がついたら彼の身体を思いきり抱きしめていた。そして耳元に唇を寄せると、こう呟いた。
「そんなこと……気にしなくていい」

 静寂に包まれた廊下に二人分の足音が木霊していた。
 規則正しい私の足音に続いて彼のぎこちない足音が聞こえてくる。
「ほら、肩使えよ」
 そう言いながら彼の脇腹に手を回すと身体を引き寄せてやった。不意をつかれて驚いたらしい彼は「あ……」と声を漏らしながら身体にしがみついてくる。その体をしっかりと支えながら、彼の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
「その方が楽だろ?」
 微かな笑い声を漏らしながら悪戯っぽく言ってやる。彼は露骨に恥ずかしそうな顔をしていたけれど、内心では私も同じだった。身体が接している所から彼の心音が聞こえてくるようで、胸が高まるのを抑えられずにいた。
「いや……大丈夫だって。俺一人でも帰れるからさ。だからジェンドは――」
「ダ・メ・だ。こんな所に放っておいたら心配で眠れないからな」
 彼の言葉をさえぎると、無愛想にそう言い放った。
「俺は飼い犬かよ?」
「フフッ、じゃあノドでも撫でてやろうか?」
「はは……は……遠慮しとくよ。本当にやりそうだから」
「何だよ、それ」
「さあ?」
「解んないヤツだな。まあいい、部屋に着いたぞ」
 空いた方の手でドアを開け、彼を抱いたまま部屋の中へと入っていく。そしてベッドの上に座らせると箪笥の中から着替えの服を出してやった。
「寝巻きは洗濯に出してるんだ。だから取りあえずはこれでも着てろ」
「ああ、解った」
「…………」
「…………」
「…………」
「あの……ジェンドさん?」
「何だ、どうかしたのか?」
「いや、着替えるから後ろ向いてて欲しいんですけど」
「ば…馬鹿!それを早く言え!!」
 苦し紛れの言い訳をしながら身体を翻す。後ろからゴソゴソと音が聞こえてくる一方で身体中が熱を帯びていくのを抑えられなかった。
 彼が動けない時には身体を拭いたりしていたが、それでも男を意識する事は無かった。動けなければ私がやるしかないという義務感しかなかったのだ。それが一体どうしたというのだろうか。
「もういいよ、着替え終わったから」
 その声を聞いて恐る恐る後ろに向きかえる。寝巻きに着替えた彼はもう既に布団の中に入っていた。
 布団の裾からのぞかせるその顔はどこと無く恥ずかしげで、髪を解いているせいもあってか普段よりも幼く見える。私は彼の体の線にあわせて布団を軽く叩くと「これでいい」と呟いた。
「それじゃあ私は行くけど、何か欲しい物でもあるか?」
 私は『のどが乾いているなら水でも持ってきてやろうか』程度の意味合いで訊いたつもりだった。しかし何を勘違いしたのか、悪戯っぽい瞳で私を見つめた彼は「じゃあ、添い寝」と何の前触れも無く呟いた。
 全く予想外の返答に言葉を失ってしまう。そんな私の態度をどう受け取ったのか、引きつった笑みを浮かべた彼は慌てて取り消しにかかった。
「あ……いや、冗談だって。冗談」
 慌てふためく彼の姿を見ながらほっと胸をなでおろす自分がいた。それは、彼は別れる前と変わっていないんだ、と確信した瞬間でもあったのだ。
 再会してからというもの、どちらもが気を遣いあって互いに他人行儀な所があった。だから彼に対してどう接すれば良いのか解りかねていたし、それは彼にとっても同じだったと思う。だけれど、彼の人間くさい部分に再び接して、別れる前の時が返ってきたような気がしたのだ。もちろん……昔と全く同じであるという事などありえないけれど。
「……別に私は構わない」
 そう呟きながら羽織っていたカーディガンを近くの椅子にかける。そして髪をかきあげると彼の方に振り返った。
「え……ホントに?」
 想像していた答えと余程違っていたのか、彼はポカンと口を開けながら私をじっと見つめていた。
 面白い程動揺している彼を尻目に布団に潜り込むと、悪戯っぽい表情を浮かべながらこう言ってやった。
「そんな身体じゃ何も出来ないだろ?」
 一瞬にして呆気に取られた表情に変わる彼。全く……歩くのすらままならないというのに、この男は何を考えているのだろう――そう心の中で呟きながらも、そんな彼が何となく微笑ましく思える。
「チェッ……そんな理由かよ」
「そうだよ」
 そして身体を横に向けると、彼に背を向けてゆっくりと目を閉じた。

「なあ……二人っきりで寝るのって初めてだよな」
「そうだったか?」
「そうだよ。いつも俺かお前が十六夜と一緒に寝てただろ」
「かもな」
「あれからずっと一人だったから……こういうのもいいなって。久しぶりにそう思ったんだ」
「嘘つけ。どうせお前の事だから手当たり次第口説きまくってたんだろ?」
「あ……いや……そんな事は……」
「ほら見ろ」
「確かに……そういうのが無かったとは言わないけどさ。だけど本気になった事なんて一度も無かった。いや……違う。そんな事してる自分が空しくなってどうしようもなかったんだ。だからそれ以来やめた。本当だ」
「……私にはどうでもいい事だ」
「何だよ……それ」
「過去の事をうじうじ言っても仕方がない。ただそれだけだ」
「ジェンド……」
 彼のごつごつした指が腰に触れる。その指は私の身体の線をたどるようにして肩まであがり、そして首筋を優しくなぞった。
「したいなら……お前の好きにしていい」
 それは私に言える精一杯の言葉だった。しかし彼は首筋に触れたまま何も答えようとはしない。ただ私の背中に顔を押し付け、じっと押し黙っているだけだった。
 そして数分とも数時間とも解らない沈黙の後、彼は思い出したかのように口を開いた。
「……嫌だったらそう言っていいんだぞ。今回の事でお前が責任を感じてるのはよく解ってる。だけどそれにつけ込んで無理させたくないんだ。お前がほんの少しでも俺に好意を持ってくれているなら嬉しいさ。だけどもしそうでないなら……はっきり言ってくれていい」

――ごめん
 あの時、彼が不意に漏らした言葉
 その言葉に隠されていた本当の意味を今確信した
 私が彼に対して抱いている罪悪感と義務感、そして極めて曖昧な感情
 彼が私に抱いている罪悪感、そして直情的で明確な感情
 それらが混ざり合った時……最後に残るのは何なのだろうか

「私の所為でお前には酷い怪我をさせてしまった。私の何気ない一言がお前を酷く傷つけていた。出会ってからずっと……私はお前を傷つける事しか出来なかった。そんな自分がたまらなく嫌だし、償いが出来るのなら何でもしたいと思う」
「…………」
「だけど……私が今ここにいるのはそれだけの理由じゃない」
 ゆっくりと彼の方に身体を向ける。子供のように純情な表情<カオ>をした彼は私をじっと見詰めたまま微動だにしない。そんな彼の額に自分のそれを触れさせると、じっと彼の瞳を見詰めた。綺麗な翡翠色の瞳は微かな月明かりを帯び、闇の中で宝石のように輝いていた。
「カイ……」
 自分を鼓舞するように彼の名を呟く。そして少しだけ顔を傾けると優しく口付けした。
 天使の羽根に触れているような、そんな口付けだった。その感触を惜しみながらゆっくりと唇を離す。熱を帯びた視線が交差し、その瞬間、私は長い間言う事の出来なかったその言葉を口にした。


お前の側にいたいから……だからここにいるんだ

fin

n o t e
 最後まで読んで頂き有難う御座いました。この小説は"kokoro""brutish children"の続編であり、"kokoro"と対になる作品として書きました。"un coeur"はフランス語で"心"の意、アン・クールと読みます。英語では"a heart"となりますが、雰囲気があわなかったのでフランス語にしてみました。読み方が間違ってたりしたらコソッと教えてください(汗)"kokoro"では互いに衝突する心を、"un coeur"では互いに受容し、交わり合う心を描いたつもりですが如何だったでしょうか?
 この作品のプロットを作った際にはもう少しサバサバした恋愛物にするつもりでしたが、甘甘がいいというリクエストを受けたので私なりに消化してみました。内容がそれに伴っているかと言われれば甚だ疑問な点がありますけれど。それに台詞やストーリーが物凄くクサくなってしまいましたね(^^;数年前の作風に戻ってしまって滅茶苦茶恥ずかしいです…でもこれを書いていて「喧嘩してないカイとジェンドを書いたのは初めてだな」と思いました(^^;そしてジェンドの精神年齢が異様に高くなったような気がします……取りあえず3年の間で色々成長したという事にしておいてくださいv


……本文抜粋にだまされた方、胸に手を当ててみてください(爆)
&ご要望に応えて(?)"un coeur"の続編を用意しました。ちょい危なめのヤツを。このページにあるので探してみてくださいv

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