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            | Kai 〜 i don't know how to treat her
 
 部屋から飛び出していった俺はまっすぐ酒場へと向かっていった。
 胸の奥底には釈然としない苛立ちがあったが、それでも彼女がさっき見せた泣き出しそうな顔が頭を過って、その度に罪悪感に似た感情が胸を縛り付けた。
 酒に逃げるのは良くないとは解っているが、飲まずにはいられなかったのだ。
 
 「おやっさん、いつもの」
 温和な笑みを浮かべたマスターが「ああ」と返してくる。少し擦れた低い声が耳に心地よい。
 俺はカウンターに両肘をつくと、マスターが酒を注ぐ様をじっと見つめていた。
 背の低いグラスが琥珀色の液体で満たされていく。底に沈んでいた氷が浮かびあがって、カランという涼しげな音が耳に響いた。
 「どうぞ」
 差し出されたグラスを手にとって目の前で揺らしてみる。
 氷の周りからはモヤモヤした透明な液体が染み出て、底に向かって流れていた。
 それを見ながら、まるで誰かさん達みたいだな、なんて感傷的な思いが浮かんでくる。不透明なモヤモヤした関係……一体俺達の間にある氷って何なのだろう。
 「……なあ、おやっさん」
 未だグラスを見つめたままマスターに話しかける。
 「ん?」
 少し擦れた、それでいて深みのある低い声が返ってくる。だがマスターは決して「どうした?」とは続けない。いくら親しくなろうとも自分と客の距離だけは弁えているのだ。だから客が話したければ親身になって聞いてくれるし、そうでないなら深追いはしない。
 そういう人だから、俺達もつい色々な事を話してしまう。
 「またジェンドと喧嘩しちゃってサ」
 マスターに視線を向けると、苦笑いを浮かべながらそう切り出した。
 それに合わせるように同じく苦笑いを浮かべたマスターはジェンドがしたように鼻で笑ってみせた。
 「またか。懲りないやつだな」
 「アイツに言ってくれよ。今日なんてさ『明日は何の日か覚えてるか?』だって、俺が覚えてないって言うといきなりキレるんだぜ?」
 「『思い出の日』とかいうヤツだろ。女ってのは案外そういう事を大切にするからな」
 「だろうな。よく解ってるじゃん」
 「そりゃお前の二倍以上生きてるとな」
 「ごもっとも。でも一体明日って何の日なんだか」
 「お前達の記念日なんて俺が知るわけ無いだろうが。だけどな」
 「知ってるの?」
 「だからお前達の記念日なんて知らないと言っているだろう」
 「じゃあ何だよ?」
 「明日は精霊節だ」
 「精霊節?何だっけ?」
 「ん……知らないのか?ああ、そう言えば三年前にはここにいなかったな。まあ三年に一度起こる自然現象みたいなもんだ。夜になるとリルハルト山の麓からたくさん蒼白い光が天に昇っていくんだ。それを天に昇る精霊にかこつけて精霊節なんて呼んでるのさ」
 「ふーん……何かジェドの木みたいだな」
 「ジェドの木?ああ、そうだな。あれと同じようなもんだ。でも珍しい事知ってるんだな」
 「だってジェンドと一緒に見たから……あれ?」
 「どうした、飲みすぎて気分でも悪いのか」
 「いや、そうじゃない。おやっさん、今さっき何て言った?」
 「ジェドの木か?」
 「そうじゃない。その前」
 「精霊節の事か?」
 その言葉を聞いた瞬間、体中から一気に酒が引いていったような気がした。
 
 『次の精霊節、一緒に見ような』
 
 この街に来た時に俺がそう言ったから、だから彼女は--
 「おやっさん、悪いけどこれで勘定してくれる?」
 俺は財布から100アル取り出すとカウンターに置いて、そして後ろに向きかえった。
 「あ……おい、カイ!」
 「それじゃあ足らない?」
 「馬鹿、多すぎだ。10アルだけでいい」
 「ふふっ、マスターにはいつも世話になってるからさ。取っといてよ」
 「後で返せって言っても知らないぞ?」
 「言わないって」
 そう言うと足早に出口へと向かっていった。
 
 もう既に行き交う人もいない路地を走りながら、つくづく自分の馬鹿さ加減に呆れ返っていた。
 彼女は二年間ずっとあの一言を大切に抱き続けてきたというのに、俺ときたらそんな彼女の気持ちを踏み躙ってしまったのだ。怒るなと言う方が無理だろう。
 ぜいぜいと息を切らせながら、頭の中には今にも泣き出しそうなジェンドの顔があった。もう二度と傷つけない、悲しい思いはさせないと誓ったのに、俺はまたしても彼女にあんな顔をさせてしまった。そんな自分が不甲斐なくて、情けなくて仕方が無かった。
 
 部屋の前まで帰ってきた俺は見慣れたドアの前で立ち止まると唾をゴクリと飲み込んだ。
 二年間毎日見てきた筈のそれは鋼鉄の壁のように行く手を阻んでいた。
 このドアを開ければジェンドがいる。でも彼女に何と声をかければいい?どうやって詫びればいい?そのような思いがぐるぐると頭の中を駆け巡って、中に入る事を躊躇させていた。
 同時に、きっと恐れていたのだと思う。ドアを開けたその先に彼女がいなかったら、と。
 
 意を決してドアを開けた俺を出迎えてくれたのは窓から差し込んでくる優しい月明かりだった。
 その光を頼りにして部屋中をぐるりと見回してみる。
 「……ジェンド」
 部屋を出る前と同じ場所に彼女は眠っていた。
 ベッドのすぐ脇で、布団もかけない彼女はただ枕に顔を埋めて眠っていたのだ。
 その光景を目にした瞬間に彼女が何をしていたか理解できた。誰もいない部屋の中で、彼女は枕に顔を埋め、必死に声を殺して泣いていたに違いなかった。
 誰かに傍にいて欲しかっただろうに、背中をさすって慰めて欲しかっただろうに−−彼女がそうする事を許しているのは俺の他にいないというのに。
 俺は床に落ちていた布団を彼女の身体にかけると、やわらかなウェーブのかかった髪をそっと撫で、優しく口付けをした。
 「ごめんな、ジェンド」
 そして静かに立ち上がると開け放たれた窓の方に向かって行った。
 
 蒼白の光に彩られた町並みを見ていると、不意にあの時の事が頭を過った。
 あの時−−どす黒い欲望に任せて彼女を抱いてしまった忌まわしい過去の事を。
 冴え冴えと輝く月に彩られた物言わぬ世界の中で彼女と俺しかいなかった。俺は彼女の事しか頭に無くて、そして力ずくで奪う為に彼女の心と身体に消えない傷をつけた。そうする事でしか彼女の視線を自分に向ける事は出来ないと思って、そうすれば彼女の心を奪う事が出来るのではないかと本気で思って。
 いつも自分の視点でしか物を見る事が出来なかった。そして彼女と一つになりたいという願いが叶った今、その先の事など考えられもせず、ただあるのは彼女はずっと傍にいてくれるのだという根拠も無い安心と、そして自分に対する慢心だけ。彼女と再会して結ばれた時はただ嬉しくて、でもそれまでの旅の目的を果たした後に何をしていいのか全く解らずに、その答えをいつも先延ばしにしていた。ただ毎日一緒にいるだけで、もう進む先も無い閉塞感を抱きながら、どうしてよいか解らなかった。そしてその答えを求める事すら止めてしまったその瞬間、俺はあの時と同じように彼女の心を酷く傷つけてしまった。ずっと二人の間の距離が広がってきたと思っていたけれど、その距離を作ってしまったのはほかならぬ俺自身だった。彼女と一つになったことで安心して、そこから自分を高めていく事を忘れてしまった。
 だけどもう逃げる事は出来ない。
 自分はどうしたいのか、彼女とどう関わっていくのか、自分をどう変えていくのか−−今の俺には彼女の傍にいる資格など無いのだから。
 
 
 Zyend 
〜 darkest night, holy 
night
 
 窓から差し込んでくる陽の光に目を覚ました私は、知らぬ間に布団がかけられていた事に気付いた。
 どうやら私が眠った後に彼が帰ってきたらしい。
 未だ胸の内に残るわだかまりを感じながら、ぐるりと部屋を見回してみた。
 しかし彼の姿は見当たらない。
 「いない……か」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いて起き上がる。そしてベッドの方に視線を向けた瞬間、その向こうに眠る彼の姿が飛び込んできた。
 昨晩私がそうしたように、彼は床に枕一つ置いて布団もかけずに眠っていた。
 今まで二人で一つの布団を使っていたのだ。当然といえば当然か。
 無邪気な顔をして眠る彼を可愛らしく思う反面、今の彼を捉えきれずにいる自分自身がいる事も確かだった。彼の瞳に私は映っているのか……もはやそれすら解らなかった。
 「誰が看病すると思ってるんだ……か」
 ぼそっと呟くと、先ほどまで私に掛けられたいた布団を手に取り、彼の身体に掛けてやる。
 その瞬間、目蓋をピクッと震わせた彼はゆっくりと目を開いた。
 「あ……ジェンド」
 私はその呼びかけに応える術を持っていなかった。
 反射的に視線を逸らして、そのまま彼に背を向ける。
 「ジェンド……あの……昨日は悪かったよ、本当に。俺全然覚えてなくて……」
 「…………」
 「次の精霊節……一緒に見に行こうって約束したんだったよな。それなのにお前の気持ちも考えないで酷い事言っちまって……」
 「お前はどういうつもりで言ったんだ?私がどんな気持ちで聞いていたと思ったんだ?」
 「俺は−−」
 「−−聞きたくない」
 「…………」
 「食事は昨日の残りがあるから、暖めて勝手に食べればいい」
 「ジェンド」
 「…………」
 「俺待ってるから。あの場所で待ってるから、だから……」
 私は視線を床に落とすと、その言葉に答える事無く部屋を後にして行った。
 
 
 Kai 
〜 the moment i escaped from being a boy, the moment i began to be a 
man
 
 ラインハルトのはずれにあるラシャの丘には大勢の人間が集まっていた。
 この丘からはラインハルト山が一望出来る。だから精霊節になると町中の人々がここに集まってくるのだ。
 果たして彼女は来てくれるのだろうか−−朝からずっと抱き続けていた不安は少しずつ胸を縛り付けて、息をする事すら苦しく感じられた。
 彼女がここに来ないというなら、それは仕方の無い事だ。今回の事は切欠に過ぎなかったし、ここまで二人の間の溝が広がった原因は至る所にあった。だから今までの俺達でいるならこれから先の事など考えられはしないし、別々の道を歩いた方が互いの為にもなるのだろう。惰性で傍にいるだけの先の無い関係など彼女は望んではいないし、それに甘んじてきた俺でさえも間違いだと思う。だからやり直せるものならばやり直したいし、そうしなければ俺自身どんどん駄目な人間に成り下がっていくだけだろう。
 その時、ラシャの丘がそれまでににない熱気と喧騒に包まれた。
 人々の視線の先を追ってみる。ラインハルト山の麓から無数の蒼白い光が生まれ、それは瞬きながら空を駆け上っていた。まるで無垢な魂のように、美しい蒼白の光は空高くに光り輝く月明かりと混ざり合っていく。その幻想的な光景に目を奪われながらも、俺の胸の内は酷くザラついていた。
 ここにジェンドがいない−−ただそれだけの事なのに心がカラカラに渇いて、一人だけ取り残されたような気がして、酷く寂しくて……それ以上何を求めるわけではない、ただ彼女に会いたかった。一緒に時間を共有したかった。繋がっていたかった。そして気がついたら人ごみの間をぬうようにして走り抜けながら必死になって彼女の姿を探していた。
 
 あれほどまでに賑わっていたラシャの丘も今はひっそりと静まり返っていた。
 行き交う人の姿も疎らで、地面に座り込んだ俺はただ呆然と暗がりと化したラインハルト山を見つめているだけだった。
 結局彼女は来てくれなかった。それが答えだったのだ。
 俺は限りない喪失感と空しさに抱かれながらもずっと彼女の事を考えていた。
 彼女と出逢った時の事、岩を投げつけられた事、何度も喧嘩した事……そして初めて二人の心が繋がったと思えたあの瞬間。
 どうしてだろう。今なら全てが新鮮に蘇ってくる。その時の生々しい感情まで一緒に。 その一つ一つがまるで宝物のように輝いていて、俺はそれを掴もうとするのだけれど、ただただその手は空を切るだけで。
 結局、俺は色褪せる事の無い写真の中で微笑んでいるだけだった。
 
 
 Kai 
〜 i dance a walz with my heart 
vacant
 
 明かりも無い部屋の中で彼女は立ち竦んでいた。
 窓の外に浮かぶ蒼白い月を見つめながら、その背中はいつになく寂しげで、細い身体は抱きしめたら壊れてしまうのではないかと思うほど華奢に見えた。
 そんな彼女に近寄りがたい何かを感じてその場に立ち止まる。
 しんと静まり返った部屋の中で、鋭い刃物のような沈黙が暗闇を支配していた。
 「……どうすればいいか、ずっと迷っていた」
 その言葉に何も応えられなかった。
 この小さな部屋の中で二人を分け隔てる距離などほんの僅かなものでしかないのに、その距離があまりに遠く感じられたからだ。
 手を伸ばせば触れる事も出来る。抱きしめる事だって出来る。でも本当の彼女はそこにいなくて。
 いつの間にか……俺は彼女の事を見失っていた。すぐ傍にいる彼女の事を見ようともせずに手放してしまった。そして気がついたら全然知らない彼女がそこにいて、俺はどうして良いか戸惑っている。その資格すらないというのに。
 「何も言わないんだな。このままどんどん離れていって、それでいいのか?」
 「……ごめん」
 「私が聞きたいのはそんな言葉じゃない!!」
 「俺……」
 「……もういい」
 そう言うと彼女はゆっくりとこちらに振り返った。
 月明かりを背に受けてその表情はよく見えない。それでも、彼女の感じている苦しみだけは痛いほどに伝わってきた。
 「少しでも期待した私が馬鹿だった」
 そう吐き捨てるように言って歩き出す彼女。少しずつ輪郭がはっきりとしていく中、眦に溜まった涙がキラリと光る。
 薄紅色の唇は微かに震え、絡まりあった視線を逸らすように俯いた彼女を気がついたら抱きしめていた。
 「馬鹿……止めろ……」
 それでも彼女は抵抗しなかった。ただ俺の腕の中で微かに震えながら涙を押し殺しているようだった。
 そんな彼女を抱きしめながら、こんなにも小さな身体に多くの苦しみを背負わせてしまった自分に激しく後悔した。そして無防備な姿を曝け出した彼女を見て、心を許して唯一支えになる事が出来るのは俺だけなのだという理由も無い確信と、何があっても彼女の支えになりたいという思いが胸の内にあった。
 「止めない。俺解ったんだ、一番大切なのはお前だって。お前が傍で笑っていてくれる事が一番嬉しいって。今までそれが当たり前に思えて……知らないうちに甘えてたんだ。何の努力もせずにお前に求めてばっかりで、すぐ傍にいるのに、お前の事を見ようともせずに……本当に馬鹿だった。ごめんな……ジェンド」
 「本当……だ…………」
 「一人でいて思い知ったんだ。お前じゃなきゃ駄目だって、お前がいないと駄目だって……だから…………もう一度だけチャンスをくれないか。俺、お前にふさわしい男になるから。精一杯頑張るから。お前が認めてくれるような男になったら、次の精霊節、一緒に行ってくれないか?」
 その言葉に彼女は応えはしなかった。
 代わりに俺の身体をギュッと抱きしめて、何度も何度も頷いてくれた。
 俺はそんな彼女の耳元にそっとキスをすると、長い間口にした事の無かったその言葉を囁いた。
 「ジェンド……愛してるよ」
 
 |  
            | fin
 
 
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