心地よい倦怠感に包まれていた。夢と現実が未だに繋がっているような、そんな奇妙な感覚を抱いている。目を覚ました俺は、現実をたぐり寄せるように、視界の先の天井にじっと目を凝らしていた。 しんと静まりかえった部屋。無造作に開け放たれた窓。そこから差し込んでくる優しい月明かり。全てが幻想的な色彩に彩られる中で、青白い闇の中に響き渡った衣擦れの音が、未だ覚めきっていない鼓膜を微かに震わせた。 「……眠れないのか?」 もしも眠っていたのなら起こさないように、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呼びかけてみる。 「ああ。起こしたか?」 「眠りが浅かったから」 「嘘付け。ぐっすり眠ってたクセに」 「どうして解るんだよ」 「暇つぶしにずっと見てたからな」 「あ、もしかしてみとれてた?」 「さあな」 「へへっ」 「大口開けて間抜けな顔してるのが面白かっただけだ」 「ちぇっ……なんだよ、そんな事か」 「拗ねたのか?」 「そんな事で拗ねたりしないって。それより、今何時ぐらいなんだ?」 「3時をまわったくらいかな」 「もうそんな時間か。それなら、ずっと退屈だっただろ」 「まあな」 「じゃ、俺が寝かしつけてやるよ」 「……解りやすいヤツ」 「そんなんじゃないって。なんか、俺がそんな事ばっか考えてるみたいじゃないか」 「違うのか?」 「当たり前だろ。ほら、頭かして。腕枕してやるよ」 答えを待たずに腕を差し出す俺。もう片方の手で彼女の長い髪をかき上げて、普段の怪力からは想像もつかないほどの華奢な身体を、俺の方へとそっと抱き寄せてやる。 「腕、痺れるぞ?」 「大丈夫だって。これくらい平気だよ」 「ま、いいけどな」 彼女らしい、如何にも関心が無い風な言い方だった。それからゆっくりと身体をこちらに向けて、猫みたいに背中を丸めた彼女は、俺の服をそっと握りしめてみせた。応えるように身体を傾けた俺は、彼女の身体を優しく抱きしめてやる。 「ジェンドの身体って、柔らかくて気持ちいいな」 ここで「女の子の身体」なんて言ったら、彼女の事だ、きっと「さぞかしたくさんの女の身体を触ってきたんだろうな」と返すに決まってる。突き放すような言い方をしながら、その実、そういう事をもの凄く気にしている彼女がいる。彼女が「気にしてない」と言えばそれは「気にしてる」という事だし、「勝手にしろ」と言った時は、実は構って欲しい時だったりする。だから、本当に彼女が気にしている事は、決して口にしたりはしない。からかっている時であっても、絶対に。 「最近肉が付いてきたからな」 「そっか? 俺は全然変わってないと思うけど」 「服を着てるから気づかないだけだ」 「「じゃあ脱いでみろよ」」 暗闇の中で重なる二人の声。俺の声は如何にも嬉しそうで、彼女の声は呆れたような冷めた感じで。冷静に振り返ってみると、我ながら何て馬鹿っぽいんだと、恥ずかしさと後悔が止めどなくわき起こってくる。 「あ……あはは……今のは弁解の余地ないかも」 「だからそう言ってる。お前って本当に解りやすいな」 「そうかぁ?」 「あれしたい、これしたい、ああして欲しいって、いちいち態度に出てるぞ」 「俺ってそんなにだだっ子か? 何かショックかも」 「別に、いつもそうだと言ってるわけじゃない。ただ、良くも悪くも表裏がないって事だ。昔と比べると特にな」 「ん……確かにそうかもな。それだけジェンドに心を許してるっていうか、あの時……三人で旅してた時みたいに、俺が皆を引っ張っていかなきゃって気負いが無くなったから。多分、そういう事だと思う」 「別に嫌なわけじゃない。解りやすい方があれこれ考えなくて済むからな。面倒くさくなくていい」 「ジェンドの『嫌じゃない』ってのは『好き』って事だもんな」 「……さあな。ただ、今まで世話をかけてきた分、少しでも借りを返さないと不公平だから」 きっと、それは彼女の本音だったのだろうと思う。人に依存する事を極端に嫌う彼女の事だ、別に他意は無かったに違いない。それでも、俺が今までしてきた事を「貸し借り」の一言で片づけられた事が何となく寂しくて。気がついたら、彼女を抱きしめる手に力をこめていた。 「別に……貸しを作る為にやったわけじゃないよ。俺はただ……本当にジェンドの事がーー」 その先に用意していた言葉を続ける事が出来なかった。その言葉に、些かの違和感を抱かずにはいられなかったのだ。俺の中に存在するその気持ちと言葉が、少しずつかけ離れたものになっている。言葉なんて入れ物には入らないくらい大きなものに、少しずつ、確実に。 「私はお前みたいに言葉を選んでるわけじゃないから。だからいちいち気にしなくてもいい。お前の言いたい事はちゃんと解ってるから」 とても温かで穏やかな声だった。いつものような感情的な声ではない、感情を抑え込んだような冷たい声でもない。包み込んでくれるような、とても心地よい声だった。 「こうしてるとすごく落ち着くよ。安心するっていうか」 「そんなにくっついたら暑いだろ」 「うわ……人がせっかくいい事言ったのに、何でそんな事言うかなぁ」 「暑いから暑いと言っただけだ」 「ちぇっ。だったら一人で寝ればいいだろ?」 「……わかった」 身体を転がして俺から離れようとする彼女。 「やっぱダメ」 咄嗟に伸ばした手が彼女の肩に触れる。抵抗しようと思えば出来たはずだ。だけど、彼女はそうしなかった。中途半端な姿勢で固まったまま、それ以上動こうとする素振りさえ見せはしない。 「全く……忙しいヤツだな」 「だってヤなんだもん」 「だったら、はじめから言わなきゃいいだろ? 大体、男のクセして女みたいな事を言うんじゃない」 「解ったよ。だから、な?」 「……仕方がないな」 「へへっ、やった!」 「そんなに嬉しいのか?」 「当たり前じゃん」 「どうして?」 「どうしてって……ジェンドは嬉しくないのか?」 「言ってやらない」 「何でだよ?」 「お前の思い通りになってるみたいで……何か癪だ」 「あ、何か認めてるし」 「嬉しそうな顔しやがって。それじゃあ、そういう事にしといてやるよ」 「そうそう。ほら、こっちに来いよ。その体勢じゃ辛いだろ?」 「ん……ああ」 「…………」 「…………」 「…………」 「なあ」 「ん、どうした?」 「眠れない間、ずっと考えてたんだ」 「何を?」 「もしもお前や十六夜が私を止めていなかったら、ここでこうしている事もなかっただろうなって」 「何だよ、いきなり」 「ずっとそう思っていた。今までずっと。だけど……もしかしたら違うかもしれないって」 「違うって、どういう事?」 「とにかく縛られる事が嫌だった。誰かに命令されるのもまっぴらだったし、関わりに捕らわれるのも。自分一人でいるのが一番気楽だと思っていた。いや、気楽とは違うのかもしれない。少なくとも、一人でいて心地よく思うことはなかったし、それはただ私以外の何者にも煩わせられることはないというだけだった。だから、お前達がいくら私を止めようとも、そんな言葉に耳を傾けるつもりなど微塵もなかったし、第一、出て行こうと思えばいつでもそう出来たはずだった」 「でも結局はそうしなかったわけだろ。一緒に旅はしないとか何とか言いながら、結局最後まで一緒にいたもんな」 「出て行くつもりなんてなかったんだ……きっと。口ではあんな事言いながら、本気でそうしようなんて思っていなかった。今までずっと、その理由が解らなかった。だけど……今なら……解るような……気が…………する」 「どうして?」 「きっと……誰か止めてくれるって…………心の奥底では……そう思っていたから…………私にとって…………お前達の傍は…………ここは………………きる場所だから」 「ん……今何て言ったんだ?」 「…………」 応えはなかった。その代わりに穏やかな寝息が聞こえてくる。どうやら、いつの間にやら眠っていたらしい。あれほど眠れないと言っていたはずなのに。 気がついたら口元が緩んでいた。彼女が何と言おうとしていたか、漠然とだけれど、解ったような気がしたから。緩やかなカーブを描いた髪の毛を優しく撫でて、俺の胸に顔を埋めた彼女を、そっと抱きしめてやった。それが今の俺に出来る精一杯の愛情表現だと思うから。
いつからだろう、君に「愛してる」と言わなくなったのは。決してその気持ちが消えてしまったわけじゃない。ただ、俺の中で君を想う気持ちが大きくなりすぎて、それは言葉で言い尽くせないほどに大きくなってしまって。もし君に「愛してる」と言ったら、それは嘘になってしまうから。口に出したその言葉は、俺の中にあるそれとは、随分と形を変えてしまっているから。そんな時、どうしようもなくこの想いを伝えたくなった時に、俺はそっと君を抱きしめる。温もりを通して、この気持ちはきっと君まで届くと信じているから。だから、恥ずかしくたっていい、照れくさくたって、この気持ちを受け止めて欲しいんだ。それは不器用な俺に出来る精一杯の事なんだから。 |
fin
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