〜 Kai 〜
刃が軋めく。鈍い音が、鼓膜を震わせた。
一瞬の間をおいて吹き上がる一陣の風。生臭い、据えた臭いが鼻についた。
何が起こったというのだろう。真っ白になった頭を、何とか動かそうとしてみる。この凄惨な光景を、どう理解すればよい?
全てが、生彩を失っていたのだ。命を感じさせる兆候など何もない。ただあったのは、どろりと濁った、動く事のない無数の瞳。あるものは虚空をとらえ、あるものは定まらない視線を俺に向けていた。
そんな中に、俺は友の姿を見つけてしまった。 |
蒼 い 世 界
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喉がカラカラになっていた。
掻き集めた唾をゴクリと飲み込んで、ゆっくりと上体を起こす。
少しだけ混乱している。珈琲に垂らしたミルクのように、仄かに甘い混乱は、思考の奥底へと静かに融け込んでいく。
全ては夢に過ぎない。だけれど、その言葉は全てを語るほど雄弁ではなく、取るに足らないものでさえもあった。
隣に視線を落としてみる。そこに彼女の姿はない。代わりに、乱雑に脱ぎ捨てた上着があるだけだった。
きっと夜風にでもあたりに行っているのだろう。
人恋しい気持ちはあった。だけれど、もしかしたら邪魔になるかもしれないと、そういう気持ちもあった。アイツにしてみれば、こういう依存の仕方は、最も嫌う所のものだろうから。
一つだけ溜息を吐き捨てる。鬱々とした気持ちが、少しだけ追い払えた気がした。それから、気怠い身体を横に倒す。シーツに頬を押しつけ、ぼんやりと虚空を仰いだ。
波の音が聞こえてきた。
退いては返す波の音が夜の静寂を彩っていく。ゆっくりと、思考は蒼い海の底へと沈んでいく。その中で彼女を見つけた。俺達は、同じ刻を分かち合っていた。
〜 Zyend 〜
「何をしてる」
遠ざかっていく足音を背に、乱暴に言葉を投げかけた。
再び静寂が訪れる。だけれど、私は振り返ろうとはしない。去る者は追わずーーその信条を犯してはいたが、これ以上手を貸してやる気にはなれなかった。
渇いた笑い声をあげて「眠れなくて」と答える彼。嘘は言っていない。恐らく。だけれど、確信をついているわけでもない。
少し迷った後に、「それで」と言葉を繋いだ。助け船を出したつもりはなかった。ただ、それ以上の沈黙に苛立ちを禁じ得なかっただけだ。いや、もしかしたら、私が苛立っていたのはそんな事では無かったのかもしれない。それを認めてやるのは癪だけれど。
「それで?」
鸚鵡のように繰り返してみせた。
「こんな真夜中に、口説きに来たわけでもあるまい?」
呆れ果てたように言ってやる。それから、ゆっくりと立ち上がった。
彼は何も答えようとはしない。ただ、振り返った私の視線を捉えた瞬間、彼は怯えたような表情を滲ませたのだ。
「お前……」
心臓を握りつぶされたかと思った。そんな顔をした彼を、今までに一度として見た事があったろうか。目の前にいるこの男は、いつもの軟派な彼ではなく、ま
しては頼りがいのある彼でもなくて、ただただ衰え果てた一人の人間だったのだ。顔中が疲弊の色に染まって、微かに浮かべた笑みは、明らかに作られたもので
あった。
この男が、私にそのような表情を見せるわけがないのだ。私の保護者を気取っている彼にとって、弱みを見せるというのは、何よりも避けるべき事であろうか
ら。今の彼には、それを避けるだけの余裕も何も無かったに違いないのだ。
もう一度だけ、虚ろな目をした彼が微笑みかけてくる。感情の類を感じさせない、酷く空々しい笑みだった。
歯を噛み締める。きつく噛み締める。彼に手を差し伸べるべきか、否か。問題はそのような単純なものでなく、もっと奥深い処に横たわっている。私の心の奥底の、大凡倫理と呼んで差し支えない、その中に。
私は見開いた目を細め、二三歩足を踏み出しながら、右手で躊躇いがちに彼の頬に触れた。 指先を髪の中に潜り込ませる。それから、ゆっくりと顔を近づけていった。
どうしたらいい、と考えている。こんな目をした彼に、何がしてやれるのだろう。不器用な私に、一体何が出来るというのか。理由はきっと分かっている。だけれど、核心には触れてはいない。何度となくうなされる彼の姿は見たけど、その理由を私は知らない。
重ねようとした唇を横にそらした。頭に添えた手に力を入れて、ゆっくりと胸の方へと引き寄せてやる。
安易な慰めなど与えてやるべきではないのだ。私は、この身体で彼を受け止めたとして、きっと、彼の背負っているものを受け止める事は出来ない。そんなのはただの逃げだ。彼のためにも、自分のためにも、そんな事はすべきではないのだ。
〜 Kai 〜
「夢を見るんだ」
彼女は何も答えなかった。
ただ俺の身体を痛いほどに抱いてーー本人は優しくしているつもりなのだろうけれどーー時々擦るように背中をさすってくれた。ぎこちない動きは、彼女がそ
のような行為になれていないと言う事を如実に表していた。それが凄く嬉しかったのだ。この瞬間だけは、誰かに思って貰えているのだと実感できたから。そし
て、普段は見せない彼女の優しさに触れた事が、きっと嬉しかったのだと思う。
「俺がまだ幼かった頃……戦うという事がどういう事かも解らなかった頃、次々と殺されていく仲間を見つめながら、俺には何も出来なかった」
目を閉じると、今でもその光景がまざまざと蘇ってくる。
あの時、俺はただの若造だった。人を護る事もできず、まして自分を護る事さえも出来ない、一人の弱い子供に過ぎなかった。次々と失われていく命を目の当たりにしながら、何も出来ず、ただ護られているだけで……
〜 Zyend 〜
彼の身体をきつく抱きしめていた。かける言葉を見つける事も出来ず、私はただ彼を抱きしめているだけだった。私は一体何をしているというのだろう。目の
前の彼を、もがき苦しむ彼を、助けてやる義理など何もない。そうしてやる事でさえ、私には出来ようはずがない。だけれど、私は何かをしようとしている。彼
の為になるかもしれない何かを。人を助けるだなんて正気の沙汰じゃない。ダークエルフを忌み嫌う人間を救おうなど……
「一体何様のつもりだ」
彼の身体がぴくりと震えた。だけれど、私は止めようとはしない。
「何かできるとでも思っていたのか? 剣を握る事でさえやっとのお前に、仲間を救えたとでも?」
「…………」
言葉を止める事ができなかった。彼を傷つけると解っていたのに、私の唇は言葉を紡ぎ続けていた。
「何が出来た? 剣を振り回したところで敵に当たるワケがない。お荷物になるのが関の山だ。それなのにーー」
彼は私の手を振り解いていた。それ以上言うなと、そう言わんばかりに私を睨み付けていた。私は為す術もなく、ただ彼を見つめたまま、言葉を失っていただ
けだった。それでも、何も言わないわけにはいかなかったのだ。悲痛な表情を浮かべた彼を、それ以上放っておくわけにはいなかった。
「もういいだろ」
その言葉を口にした瞬間、彼の身体がぐらりと傾いた。糸の切れた操り人形のように、意志を失った身体は私の方へと倒れてくる。それを胸で受け止めた私は、海の果てに視線を向けて、暗闇の中で燃える月を見つめていた。
静かで穏やかなこの世界で、一体誰が想像できるだろう。目の前の彼が、その薄っぺらい身体の内で、抑えきれない程激しい感情を煮えたぎらせ、棘と化した記憶に縛りつけられていると。
「忘れるんだな。何もかも。過去になど、過去になど何の意味もない」
その時の私は、何故言葉を詰まらせたのだろう。かつての自分を、彼の中に見いだしていたというのだろうか。だとしたら、過去に囚われているのは私も同じ。私がしようとしている事は、もしかしたら傷の舐めあいに等しい行為なのかもしれない。
それでも、私にはそうする事しかできなかった。彼を救う事で自分も救われると、そんな打算が働いていたのかもしれない。きっとそうなのだろう。だけれど、もしかしたら……
もしかしたら、彼の中に光明を見いだそうとしていたのかもしれない。 |
fin
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