夢を見ていた。記憶の中の景色を傍観しているような、そんな夢。そう、初めてジェンドを抱いた時の夢だった。 あの日、目を覚ました時、あいつは自分を抱きしめるように体を丸めて、窓際に立ちつくしていた。どうしたんだろう、そう思った俺は、一度だけ小さな声で彼女の名前を呼んだんだ。 でも返事はなかった。はじめは聞こえなかっただけだろうと思っていたけれど、どうも様子がおかしくて。俺は十六夜を起こさないよう静かに起きあがると、未だ背を向けたままの彼女に近づいていった。 すぐそばまで来たところで、彼女は消え入りそうな、それでいて芯のある声で「来るんじゃない」と吐き捨てた。その時に気づいたんだ。あいつの体は小刻みに震えていた。何故かは解らない。だけれど、それは普段のあいつからは想像もできないような姿だった。 「どうしたんだ?」 もう一度だけ訊ねてみる。しかし返事はない。その答えを促すように、ためらいがちに、あいつの肩にそっと触れた。きっと抗うに違いない。俺の手をはねのけて、目をギリっと睨み付けて、口悪く罵るに違いない。そう思っていた。だけれど、俺の手が触れた瞬間、あいつはびくっと震えて、そして、微かにのぞかせた頬に一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。 「お前……」 「……見るんじゃない」 「だけど」 「私に……かまうな」 酷く擦れて、今にもかき消されてしまいそうな声だった。きっと十六夜を起こすまいと思っていたに違いなかった。そしてきっと、声を荒げるだけの力すら残ってはいなかったのだろう。 「放っておけるわけがないだろう。一体どうしたんだ?」 「それが解れば苦労はしない」 「解らないって、自分の事だろう。こんなところで強がってどうする!」 応えは無かった。ただ、大きな紫色の瞳からはポロポロと涙が零れ落ちて。その時だった。こいつは強がっている訳じゃないと解ったのは。きっと、自分自身で何が起こっているのか解らなかったんだ。だから頭の中がぐちゃぐちゃになって、不安になって、ガタガタ震えて。 そんな彼女の肩をぐいとつかんで、少し強引に引き寄せていた。俯いた彼女の額に自分のそれを押し当てて、顔だけを傾けながら、髪の毛を優しくなでてやった。そして徐に唇を重ねる。拒むだけの間を与える為に、それを言い訳とする為に。 他に慰める術を知らなかった、なんて都合の良い言い訳に過ぎなかったのかもしれない。だけれど、この時の俺は、他に何ができるかなど思いつきもしなかったのだ。 鋭く尖った爪が背中に食い込んでくる。重ねた唇と唇が不器用に擦れあう。男勝りで乱暴なこいつに女を感じた事など無かった筈だ。それなのに、抑えきれないほど気持ちが昂ぶってしまって。不謹慎だと、人間として最低だと解っているのに、それでもどうしようもなくて。 身体が密着した状態で、彼女が気づかないわけがなかった。ぐいと腰を押しつけて、耳元で「スケベ野郎」と吐き捨てる彼女。感情のこもっていない、酷く冷たい声だった。 心臓が凍ってしまいそうなほどドキリとした。そうじゃないーーその言葉が喉元まで出かかっていた。しかし、この状態で何を言ったとして、説得力などある筈がなかったのだ。だって、そうに違いなかったのだから。嘘などつきようもなかったのだから。
そう、俺は彼女に欲情していた。
震える唇を離して、ただその場に立ち竦んでいるしか出来なかった。どうしていいか解らなかったんだ。取り繕う言葉もなく、頭の中はただただ真っ白になってしまって。 「抱かせてやる」 ルージュを引いたかのような真っ赤な唇に微笑が浮かぶ。先程のぎこちなさが嘘のような口付けをもう一度。彼女の指は一つ、また一つと俺の服のボタンを外していく。どうしよう、と混乱した頭で考える反面で、どこか期待している自分がいた。そして全てのボタンが外された瞬間、俺は彼女の身体を壁に押しつけていた。
この日、俺たちが及んだ行為に愛情だとか言う感情があったかと訊かれたら、俺はただ項垂れて、答えを保留することしかできない。自分の劣情を認めることもせず、それにわざとらしい意味づけをする図太さもなく、嘘はついてないと自分に言い聞かせるだけで。
誰かに呼ばれているような気がした。耳に心地よい、今の俺が一番欲している声だった。その声に導かれるように、頭の中にかかっていた靄<もや>がすっと引いていく。その先に真っ白な壁が姿を現し、俺の影がサッと横切っていった。 ああ、目が覚めるのだな、と思った。夢と現実が交錯したようなこの奇妙な感覚は、いつの間にか目覚めの合図となっていた。このまま目を開けば夢は終わり、俺は現実へと回帰していく。目を開くのは時間の問題だ。どんなに頑張って夢にしがみついても、結局は目を開いてしまうのだから。それでも、毎日のようにその無駄な努力をしてしまう。 のり付けされたかのような瞼をバリっと開いた。未だ夢から覚めきらない瞳が捉えたのは、ぼんやりとした褐色と紫の塊。その正体を悟った瞬間、思わずハッと息を呑んでしまった。 「一体いつまで寝てるつもりだ」 「いつまでって……もうそんな時間かよ?」 「もう昼前だぞ。さっさと起きろ」 左手で光を遮りながら、窓の外へと顔を向けてみる。降り注ぐ陽の光に照らされて、外の景色が真っ白に見えた。それから少しずつ目が慣れていって、朧気ながら、木や建物の輪郭がはっきりとしだしてくる。 「久しぶりによく寝たな……でもまだ眠いや」 「何言ってる。それより、十六夜のやつ、風邪をひいたみたいだぞ」 「風邪?」 ベッドの上に横たわったまま、顔だけを真横に向けてみた。白い光のカーテンに包まれたベッドの上で、十六夜はぴくりともせずに眠っている。濡れ羽根のように艶やかな髪の毛が風になびいて、そのいくらかは汗ばんだ額に張り付いていた。 「水浴びなんてするからだ。全く……」 「それで、どうだって?」 「頭の中がぐるぐるするだの、胸がドキドキするだの……仕方がないから寝かしつけておいたんだ」 「そうか」 ありがとう、そう言う代わりに微笑みかけてみたけれど、彼女はぶすっとしたまま、俺を見つめているだけだった。そして俺から視線を外して、ただ一言「さっさと服を着ろ」と言い放った。その視線は既に十六夜の方に向いている。お前の裸など見たくないと言わんばかりに。いかにも不機嫌そうな背中に、思わず苦笑を浮かべてしまった。 こいつはどうして俺と寝ているのだろうか。きっと相手は俺でなくてもよかったのだろう。そんな事を漠然と考えながら服を拾って、パパッと着替えてしまう。ひんやりとした服の感触が妙に心地よかった。 「まあさ、ここんトコ野宿が続いてたし、十六夜の具合がよくなるまでゆっくりと休んでいればいいさ」 「暢気な事を……」 「情報も集めておきたいし、丁度良かったって」 「情報だと? どうせ若い女を手当たり次第口説くだけだろうが」 「ひっでえなぁ、俺がそんな事すると思うか?」 「思うから言ってるんだ」 「あ、もしかして妬いてる?」 答えは返ってこない。彼女は俺に背中を向けたまま、ピクリともせずに立っているだけだった。何とも言えない気まずさが漂って、それを打開する術を見いだせずにいて。無理矢理笑顔を作って、明るい声で「とにかく、何か調べてくるさ」と言い放った俺は、そそくさと部屋から出て行った。
宿の受付には誰もいなかった。薄暗い廊下には俺の他に客はいない。古びた建物の中に漂う黴臭い空気が、いつにも増して不気味な雰囲気を際だたせている。 俺は玄関の前で立ち止まると、一度だけ後ろに振り返っみてた。 当然誰もいないし、そうする必要すらなかったはずだ。それでも、何故かそうしなければならないような気がして。 廊下の向こうに広がる暗闇に何かいるのではないかと思った。毛むくじゃらの魔物が奥に潜んでいて、餌が迷い込んでくるのを今か今かと待ちかまえているのではないかと。そのような夢想を唾と一緒に飲み込んで、振り返った俺は、玄関の観音扉を両手で押し開けた。 目映い光とともに現れたのは、黒装束を身にまとった人々の連なり。異様としか思えないその光景に、思わず背筋がゾクリとしてしまう。 「これは……」 ふと漏らした言葉に、傍を歩いていた男が足を止めた。黒い頭巾の中から顔をのぞかせて、俺の目をじっと見つめている。 「また人死にがでたのさ」 「また?」 「これで10人目だ」 「どういう事です?」 「あんた、この街の人間じゃないな」 「ええ、旅の途中に立ち寄って……」 「この街は呪われている。悪いことは言わん。さっさと出て行くことだ」 「呪いって、一体何の呪いです?」 「ふふっ、今に解るさ」 苦虫を噛み潰したような顔をして、男は再び葬列の中へと戻っていった。俺は途切れることのない黒い列を見つめながら、その向こうで成り行きを見守っている一人の男に気づいた。その男は茶色いローブを羽織って、色の付いた丸眼鏡をかけている。周りの人間とは違う、明らかに異質な雰囲気を醸し出していた。口元に嘲るような笑みを浮かべ、仁王立ちになったその姿は、いかにも偉ぶっているように見える。 「……領主の使わした執政官ですよ」 振り返ってみると、そこに立っていたのは、同じく黒装束を身に纏った宿の主だった。 「執政官?」 「領主に代わってこの街を治める者。その程度の理解で宜しいでしょう」 「この葬列は一体……」 「街の外れで死者を焼くんですよ。しばらく経ったら、あちらの方からもくもくと黒い煙が立ち上ってくる」 「この辺りには火葬の習慣が?」 「いや、普段ならば土葬にします」 「ならば何故……」 「さて、私も列に加わらねば。それでは」 有無を言わせぬような口調で言って、主は葬列の中に入っていった。後に残された俺は、ただ呆然と、目の前の奇妙な光景を見つめているだけだった。
結局、今日は何一つ有益な情報を得ることもなく、十六夜の夕食用にシャクティという甘粥を買って、宿に戻ってきた。ジェンドの話によると、夕方あたりから微熱が出だしたらしい。気だるさも相まってか、飯もそこそこに、すぐに眠りについてしまった。残った俺達は夕飯を食うべく、近くの酒場へと向かっていった。
「それでは、ご注文は以上で宜しいですか?」 既に夜の帳が落ち、酒場が活気づいてくる時の頃。俺たちがやって来た店も、その例には漏れていない。席は全て埋まって、少しでも遅れてきたら、きっと食いはぐれていた事だろう 「あと、俺は酒を」 「私も同じものを」 間髪を入れずにジェンドが付け加える。 「おい、お前酒なんて呑んで大丈夫なのか?」 「当たり前だ」 「でもなぁ」 「うるさい」 「はいはい……解ったわかった。それじゃ、酒二つ追加で」 「ふふっ、解りました。すぐにお持ちしますね」 お姉さんの笑顔にデレッとしている俺をジェンドが睨み付けてくる。俺はわざとらしく咳払いをして、それからテーブルクロスへと視線を落とした。 「全く、お前って奴は……」 「別に何もしてないだろ? ただ笑顔があまりに素敵だったからさ」 「勝手に言ってろ」 「まあまあ、そんなにプリプリすんなって。ほら、酒来たぞ」 「ふんっ」 いかにも不機嫌そうに鼻を鳴らして、グラスに並々と注がれた酒に口を付けるジェンド。あっという間に頬が朱に染まって、視線が宙を彷徨い始める。 「にゃははははっ」 「じぇ……ジェンドさん?」 「酒じゃ」 「は?」 「酒を持って来い!」 「ちょ、て……店員さん、間に合ってますから結構ですっ!!」 「ふんっ、この意気地なしが。だったら貴様のよこせにゃ」 「にゃって、おいっ! 俺のを呑むんじゃない!!」 「ケチな男め。そんなんだから、いつもナンパに失敗するんだゾ」 周りから一気に笑い声が沸き起こってくる。恥ずかしいやら情けないやらで、俺は辺りをぐるりと見回しながら、引ったくるようにしてジェンドから酒を取り上げた。 「ジェンド〜〜頼むから正気に戻ってくれ〜〜」
食うものも食えないまま、俺たちは逃げるように酒場を後にしていった。正確に言えば「俺は」というの正しいのだろうけれど。文字通り、ジェンドの首根っこをつかんで連れ出してきたのだから。 「くぉの〜〜離せら〜〜」 「はいはい、解ったわかった。今離してやるから、暴れるんじゃないぞ?」 「ふんっ、だったら暴れてやんないからな」 「よし、ほらっ」 襟首をつかんでいた手をパッと離してやる。足元がおぼつかないのか、バランスをとるように上体をふらつかせるジェンド。しかし、結局は力なく俺の胸に倒れ込んでくる。 普段ならばおいしいシチュエーションだが、今だけは決してそうは思えなかった。何故だろう、と考えてみるが、結局は雰囲気の問題だろう。 「そうだなぁ、嬉しくてたまんないよ」 「そうだろうそうだろう」 背中に回されていた彼女の手がもぞもぞし始める。身体をなぞるようにしておりていく彼女の指先。腰から尻へ、それから太ももへ。そこまでいったところで、不意にその手が股間に触れた。 「何だ、何ともなってないじゃないか。ふんっ、だったら私が元気にさせてやる」 半ば倒れ込むようにして、俺の身体を壁に押しつけてくる。それから強引に唇を重ねて、股間に触れた手をグリグリと動かしてきた。 どくん。 心臓が激しく波打つ。首筋に鳥肌が立って、胸の上に鉛でも乗っているかのような、そのような感覚が沸き起こってくる。 気分が悪い。吐き気がする。自分の中の「何か」が喉元から飛び出してしまうのではないかと思った。まるで拒絶反応を起こしているかのように。そう、俺の身体は拒絶している。嫌悪感を剥き出しにしている。 彼女に対して? いいや、違う。そうじゃない。そんな筈がない。 「よせって!」 力任せに彼女の身体を引き剥がしていた。どうしてもそんな気分にはなれなかったのだ。彼女の虚ろな瞳に、俺は映ってはいなかった。それがたまらなく苦しかった。彼女が求めているのは俺の身体で、決して俺ではない。あの時の俺がそうであったように。それなのに何故、どうしてこんな気持ちになる? 何故俺は彼女を抱き続けた? 彼女も、こんな気持ちになったのだろうか? いいや、違う。彼女がそんな気持ちを抱くわけがない。それが解ったから、だから俺はこんな風になってしまったんだ。 「ふんっ、やれればいいと思っているくせにっ! 格好付けやがって」 俺の胸をドンと叩いて、足元をふらつかせながら、ジェンドは振り返ろうとしたらしかった。しかし、力なくその場に崩れ落ちてしまう。 「ジェンド!」 焦りながら彼女の身体を抱き起こす俺。だが、俺の心配をよそに、彼女はいつの間にか眠ってしまっているらしかった。その唇はパクパクと動いて、今は微かな寝息を漏らしている。 「心配かけやがって……」 吐き捨てるように言って、紫色の髪の毛を優しく撫でてやった。
どのくらいの時間が経っただろう。ジェンドを宿までおぶってきた俺は、彼女をベッドに横たえ、自分は椅子に腰をかけ、彼女をじっと見つめていた。途中、彼女はうわごとで何度となく俺の名を呼んでいた。その姿を見つめながら、一体どんな夢を見ているのだろうと考えてみたり、俺の夢を見てくれて嬉しいなと微かに喜んでみたり。その瞳が開くまでの間が、随分と長いものに感じられた。
「大丈夫か?」 目を覚ました彼女は、天井を見つめたまま、何も答えはしなかった。 幾度か目瞬きをしていたけれど、その瞳に決して俺を映すまいとしているようにすら見えた。氷のように冷たい表情を見ていると、そう思えて仕方がなかったのだ。 「怒ってるのか?」 「何を?」 ゆっくりと開いた唇から、弱々しく擦れた声が産み落とされる。 「さあ」 「思い当たる節がないなら、そういうことだろ」 「かもな」 「…………」 「…………」 「…………」 「なあ……お前はどうして俺に抱かれてるんだ?」 「…………」 「…………」 「…………」 「もう」 そう言ってから、ごくりと唾を飲み込んだ。ゆっくりと目を閉じて、何とか心を落ち着かせようとしてみる。だけれど、どうしても胸のざわつきを静める事が出来なかった。仕方なしに目を開いた俺は、彼女の瞳をじっと見つめ、そしてこう言い放った。 「お前とはしない」
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to be continued...
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