しばらく窓の外を見つめながら、あの深紅の瞳の女の事を考えていた。 仮想現実シミュレーターは潜在的な願望を擬似的に再現するのだという。閉鎖的な宇宙空間下での欲求不満を解消する為に開発された。だとしたら俺は一体何を求めているというのだ?女か?確かに女は好きだ。地上にいた頃は女と見れば手当たり次第声をかけたりもした。だが、今頭の中にあるのはあの女の事だけ。寝ても覚めても、まるで恋煩いでもしてるかのようにあの女の事が頭にこびりついて離れない。 会った事もない、まして作り物の女だ。それはよくよく理解しているはずなのに、俺はシミュレーターの中であの女に見つめられるその一瞬を心待ちにしている。 古ぼけた写真のように色褪せたあの街に彼女はいる。全てがセピア色に染まったあの街で彼女だけが強烈な色彩を帯びていて、そこでは誰もが忙しそうに動き回っている。彼女はその雑踏に揉まれながら身じろぎもせずに、じっと立ったまま俺を見つめている。その瞳にとらえられると、まるでメデューサに魅入られたかのように体が言う事を聞かなくなる。それでも、俺は満足しているのだ。先に進めなくてもいい。触れる事すらかなわなくてもいい。ただその一瞬が確かに存在するならばそれで良かった。 「……どうかしてる」 ぼそりと呟いて、ゆっくりと目を閉じた。きっと疲れているんだ。寝れば少しはまともな事を考えられるようになるさ。そんな風に言い訳がましく心の中で呟きながら。
ゆっくりと目を開くと、そこに広がっていたのはあのセピア色の景色だった。巨大なビル群、行き交う人々、看板、ネオンサイン−−それら全てが色褪せた写真のようにくすんで見える。その中で人混みを掻き分けながら、俺は必死になって彼女の姿を探していた。 一歩一歩足を進めていくごとに胸がザワつく。口の中がカラカラに乾いて、ただ考えている事と言えば「もしも彼女を見つけられなかったら」という事だけ。壊れたねじ巻き人形のように不器用に体を動かす事でしか不安を和らげる事の出来なかった。そのような自分など本来最も嫌っている筈なのに、醜態をさらす事を厭わずにそれを続けた。 「あ……」 足を止めてその場に立ち止まった。乾ききった口の中でつばを飲み込むようにしてゴクリと喉を鳴らす。そして二度ほどゆっくりと瞬きをして、未だ目の前に彼女がいる事を確認するとホッと息をついた。 「初めてだよね。君に……こうやって話しかけるの」 「…………」 「俺は……その、何て言うか……ずっと君を捜していたんだ。ええと、わかる……かな?」 その瞬間、彼女の唇が微かに動いた。 耳が痛くなるほどの静けさの中。だけど彼女の声が俺の耳に届く事はなかった。それでも……その唇が何を言おうとしていたか、それだけは不思議とよく解った。 その言葉は−−
タ ス ケ テ
『警告、SOS信号を傍受しました。警告、SOS信号を傍受しました』 突然耳元で鳴り響いたサイレンに飛び起きると、反射的に周りをキョロキョロと見回していた。目に入るモニターの全てに『SOS』という赤文字けばけばしく点滅している。 『警告、SOS信号を傍受しました。警告、SOS信号を傍受しました』 「どういう事だ!?」 『1000Km圏内でSOS信号を傍受しました。発信元の船艦の国籍は不明。この距離からでは生体走査は出来ません』 「SOSだと……?」 『はい、自動信号が継続して発信されています。どうされますか?』 「どうするもこうするも見殺しにするわけにはいかないだろう。だが生存者がいるかどうかも解らないんじゃ参ったな。なあ、そこまでどのくらいでいける?」 『概算で二時間です。いかがなさいますか?』 「二時間か。よし、向かってくれ」 『了解しました』
−−二時間後
『当該宙域に到着しました。生体走査開始……有機体の存在を確認。簡易マップを表示しますか?』 「ああ、頼む」 モニターがブラックアウトした後に緑色の線で描かれた船の見取り図が表示された。その中に赤い点が一つほど点滅している。きっとこれがSOS信号の発信者なのだろう。 「なるほど……ね。ドッキングは自動でいけるか?」 『はい、可能です』 「それじゃあ頼む」 『了解しました』 モニターに船外見取り図が表示される。同じく緑色のフレームの中心にある円はドッキングハッチだろう。円に外接する歪な形の赤い四角が表示され、それは少しずつ傾きながら正方形へと近づいていく。そしてその四角が完全な正方形になった時、金属が軋むような音とともに船がぐらりと揺れた。 『ドッキングは正常に終了しました。ハッチ周辺のエアー・サンプルは正常ですが、宇宙服の着用をお勧めします』 「サンキュー。じゃ、留守にしている間よろしく頼むぜ?」 『了解しました。指示があるまでオートパイロットを継続します』
毎度の事ではあるが、どうもこの宇宙服というヤツは好きになれない。薄型とはいえそれなりに動きが制限されるし、自分が吐いた生ぬるい息がヘルメットのガラスにぶつかって戻ってくる感覚は何とも言えず気持ち悪い。それにどこかかゆくなっても掻く事さえ出来ないなんて一種の拷問だと思う。 それでも、中で何かあったら厄介だからな−−そう自分に言い聞かせてヘルメットを被った。シュウーと空気が流れ込んでくる音と共に、目の前のガラスにホログラムの小さなモニターが浮かび上がる。その中を映画のエンドクレジットを早送りしたみたいに小さな文字が次々と流れていって、どうやらスーツの動作チェックをしているようだった。10秒も立たないうちに『ピピッ』という耳障りな機械音が鳴り響いて、モニターに『OK』と表示された。 「可愛い子でもいるといいんだがな」 おどけて呟くと、壁のボタンを押して固く閉ざされたハッチを開けた。
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