あれから一時間くらい経っただろうか。もしかしたら数分だったかもしれないし、数時間だったのかもしれない。片腕で彼女を支え、痛む足をかばいながら、雪嵐の中を彷徨ってきた俺達は、やっとの事で山小屋まで辿り着く事が出来た。
「思ったより凄いな……」
それが素直な感想だった。壁板は所々剥がれてしまっていて、暖炉はあるものの、一瞥したところ、他に役に立ちそうなものなど殆ど見あたらない。薪があれば何とかなるのかもしれないが、このままでは時間の問題である事は明らかだった。
ジェンドはどうしてるだろう? 不意にそれが気になって、冷静を装いながら、すぐ隣にいる彼女に顔を向けてみる。
そこにはいつもと変わる事のないジェンドがいた。長い睫毛は微動だにせず、血色を失ってしまった褐色の肌は凍り付いているようにすら見える。表情の類など殆どなく、冷徹な瞳はあるがままを捉えていた。それが彼女の強さなのか、それとも全てを諦めているのか、それは俺には解らない。ただ、その時の彼女に何かしら冷たい印象を受けていたというのが正直な所だった。下手に騒ぎ立てたり、絶望を口にされない分だけましだと思うけれど。
「取りあえず座ってろよ。疲れただろう?」
その問いかけに「別に」と素っ気なく言葉を返す彼女。肩に回していた手をすっと引き抜いて、足をかばうようにして床に腰を下ろした。
一方の俺は彼女に背を向け、ドアの方へと向かっていく。
「どこへ行く!?」
叫びに近い声が背中に飛び込んでくる。先ほどの彼女からは想像もつかない、様々な感情の入り交じった声だった。不安や恐れ……そんな今まで俺に向けた事のなかった感情も。おおよそ彼女の中にそのような感情が存在していようなど、俺自身考えた事もなかったわけで。こうやっていざ目の前に突きつけられると、どう反応すればよいか困ってしまう。
「大丈夫。薪を取ってくるだけだから、心配しなくていい」
彼女は何も応えはしなかった。ただ頭を垂れて、地面をじっと見つめているだけだった。きっと「何で私が心配しなければならない?」なんて返してくると思っていたのに。それだけ消耗していたという事だろうか。ともかく、それは心だけじゃなくて体だって同じ事だ。早く暖めてやらないとどんどん体力が奪われていく事だろう。俺は些かの罪悪感を胸に抱きながら、乱暴にドアのノブを引っ張って外に出て行った。
ドアを開けたその先には、凍て付く氷の世界が広がっていた。延々と降り積もっていく雪は、この身を貫く刃のようにすら思えてしまう。
「うぐ……」
そして俺の中にも刃が一つ。再び激痛が右足を襲う。痛みに耐えかねた俺は、ドアに背中を押しつけたまま、荒々しい息を噛みしめるようにして何度か吐き捨てた。それで痛みも吐きだしてしまえるよう、心の中で切に祈りながら。
「今暖炉に火つけたから、すぐに暖かくなるからな」
「……ああ」
「足の具合は?」
「悪くない」
「ならよかった。そうだ、これ掛けてろよ」
そう言いながら薄汚れた毛布を差し出してやる。毛布とは言っても、薄っぺらい上にあちこち破れた代物だけれど、無いよりかあった方がマシだろう。
「どうしたんだ?」
「棚の中にあったんだ。お世辞にも綺麗とは言えないけど、背に腹は代えられないしな。文句言うんじゃないぞ」
「お前のは?」
「俺はいいよ。お前が使ってろ」
「私はいい。お前が使ってろ」
「ふっ、レディを凍えさせるなんて罪な事をーー」
「何がレディだ、気持ち悪い」
「とにかく、使ってろよ。俺なら大丈夫だから。そんなにヤワじゃないって」
「だったら…………ばいいだろ」
「ん、何?」
「だから二人で使えばいいだろって言ってるんだ」
「あ……俺は構わないけど、お前はいいのか?」
「悪かったらわざわざ言うか。それに、こんな所で死なれたら目覚めが悪いからな」
「ははっ……そんな理由ですか」
「当たり前だ」
頭をポリポリ掻きながら、ジェンドの隣に腰を下ろした。彼女は呆れた風に俺を一瞥すると、一つだけため息をついて、ゆっくりと目を閉じた。
「寝るんじゃないぞ?」
「解ってる。そんな事言われなくてもな」
「余計なお世話か?」
「……そうだ。余計なお世話だ」
その言葉に苛っとこなかったと言えば嘘になる。だけれど、さっきみたいな激情は沸き起こってはこなかった。諦めているというのもあるけれど、俺の中にある彼女の像に些かの修正を加える必要があると、そう思いだしているのも確かだった。十六夜じゃないけど、こいつが言う事を言葉通りに受け取るべきではないのかもしれない。
「ま、いいけどな」
「随分と素直になったもんだな」
「別に恩の押し売りをしたいワケじゃないさ。お前がいいと思うならそれでいい。一人がいいならそれでもな」
「そりゃありがたい」
「でも本当にそうしたいのか? 本当に一人になって……!?」
「どうした?」
「な……何でもない。大丈夫だ」
「何でもないわけないだろうが! 真っ青な顔しやがって……一体どうしたんだ!?」
「だから何でもないって……」
「カイッ!!」
「……足がちょっと……でも大丈夫だから」
血相を変えたジェンドが毛布をひったくる。薄暗い部屋の中でもはっきり解るほど、ズボンの裾は赤黒く染まっていた。錆びた鉄の臭いが広がって、胸の底から吐き気が込み上げてくる。
「あの時……転んだ時のか? どうして黙っていた!? この大馬鹿野郎が!!」
「ははっ……怪我人相手に酷いな。それに、言ったってどうなるもんでもねぇだろ。俺がへたっちまったら誰がお前を連れて……くっ……」
「くそっ、何か薬とか持ってないのか!? いつも余計なものばっか持ち歩いてるだろうが!!」
「そんなもの持ってないって……大丈夫だ、布か何かで傷口を押さえつけてればすぐに止まる……それでもダメなら……」
「それでも駄目なら? どうするんだ! 早く言え!!」
「股の付け根を押さえて……」
「馬鹿っ! こんな時にふざけるんじゃない!!」
「ふざけてないって……動脈を圧迫したら……出血が……止まって……」
唇を動かすのが酷く億劫だった。このまま眠ってしまいたい。そうすればどれだけ楽だろう。そんな事を考えながら、俺の意識はすぅっと闇の奥底へと溶けこんでいった。
「……ーイー……ねえ、……てよ! ……だよ!」
どこか遠くから声が聞こえてくる。聞き覚えがある声が。一体誰だったか? そう思い出そうとするのだけれど、その度に頭の中にもやがかかって、なかなか思い出す事は出来ない。
「……夜。もう少……寝かせといて…………は怪我してるんだから」
「怪…………酷いの?」
「大丈夫だ。心配しなくていい。すぐに良くなる。こいつはゴキブリ並の生命力だからな」
ゴキブリ並みって、ジェンドの奴、言ってくれるじゃないかーーそう心の中で呟いて、それから、声の主の一人がジェンドである事にハッと気付いた。だとしたら、さっき聞こえていた声は十六夜のものか? 俺は町まで帰ってきている? 頭の中に疑問符だけが次々と浮かび上がってきて、その答えを求めるように、俺はゆっくりと瞳を開けた。
「ははっ……ゴキブリはないだろ、ジェンド」
視界の中に、水に溶かしたような黒と紫色が浮かび上がってくる。それは随分懐かしい色彩で、とても、とても恋しく思えるものでもあった。
「わ、カイ目が覚めたんだ?」
「ああ、十六夜。心配かけたな」
「良かった〜ジェンドももの凄く心配してたんだよ?」
「バ……私は心配など……」
不意にジェンドの眉間に皺が寄る。彼女らしいな、と思いながらくすりと笑う俺。こんな当たり前の光景を、ともすれば煩わしくさえ感じるものを、こんなにも暖かく感じるなんて。何よりも、ジェンドがそこにいてくれた事が嬉しかった。ほんの僅かばかりでも、俺の言葉が伝わっていたのだろうから。
「へえ、心配してくれたんだ?」
口の端を緩めながら、からかうように言ってやる。きっと彼女は認めはしないだろう。それでも、どのように返してくるのか、それが何だか楽しみだった。
「ふんっ、お前がいなくなったら誰が食事の準備をするのかと思っただけだ。道案内に、十六夜の世話に、情報収集に……ああ、これはどうせナンパばっかやって役に立たないだろうが……」
「あのなぁ……それより、誰が俺をここに?」
「ジェンドだよ!」
元気よく答える十六夜。それを聞いたジェンドは、焦ったように十六夜の服をむんずと掴んだ。
「こらっ、それは言うなと……」
「だってホントの事だも〜ん」
「ジェンド……」
「ふんっ、お前をソリがわりにして降りてきただけだ」
「ふふっ、そうだよな」
「当たり前だ! お前がどうなろうと知ったこっちゃないが、十六夜がビービー泣きわめくと思ってーー」
「ジェンド」
「な……何だよ!?」
「ありがとな」
彼女の瞳をじっと見つめる。透き通った硝子のような瞳を。これが彼女なのだと、心の奥底でそっと呟きながら。とても穏やかな気分だった。口の端は自然と緩んで、胸のあたりがほわぁっと暖かくなる感じがして。一方のジェンドといえば、バツが悪そうに顔を背けてしまったけれど、その表情にいつもの険しさなど微塵も感じられなかった。
「もう少し……」
「ん?」
「もう少し一緒に旅を続けてやる」
不意に彼女の口から漏れた言葉は、何の画策もない、彼女自身の気持ちであったに違いなかった。一瞬ほど照れくさそうにして、それからいつもの仏頂面に戻った彼女は、返事を待っているかのように俺の顔をじっと見つめる。
「お前ってさ」
「何だ」
「ほんっと、素直じゃないよな」
「うるさい!!」
鼓膜が破けそうなくらいの怒号と共に、次々と我が身に降りかかってくる岩の洗礼。こいつにも慣れたといえば慣れたし、懐かしいと言えば懐かしいのだが……
怪我人にそりゃねぇだろ(涙)
ともあれ、俺達の旅はまだまだ続きそうだ。 |
fin
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