見渡す限りの大空に、一陣の風が舞い上がる。乾いた草の音<ね>が連なり、青臭い匂いが鼻についた。不思議といやな気はしなかった。それどころか、心地よいとすら感じていたのだ。造られた世界<アドビス>の中で決して嗅ぐことの無かった臭い。排他的な世界に漂う黴臭い空気は、心の奥底にある自我を徐々に蝕んでいく。ゆっくりと、嬲るように。だから、青臭かろうが何だろうが、ありのままの姿が心地よいのは、俺にとって当たり前の事なのだ。
この大地に体を横たえ、どこかにあるかもしれない、世界の果てを見上げている。目に映る全てが、まるで淡い水彩で描かれているような、どこか優しい色味を帯びている。そんな中にあって、太陽だけが一際異彩を放っていた。まるで自分が世界の中心だとでも言わんばかりに。
白とも橙色ともつかない曖昧な色。空との境界すら解らない、ぼんやりとした輪郭。そのとらえ所の無さが、逆に俺の心をとらえていたのだろう。気がついたら、天に向かって手を伸ばしていた。逃げられないよう静かに、ゆっくりと。そして掌が太陽を覆った瞬間、握りしめようとした手は下降を始めた。 |
m e l l o w d a y s
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「シオンったら、また難しい顔してる」
視界に飛び込んできたのはイリアだった。口元に微笑を浮かべながら、腰をかがめて、俺を見下ろしている。その表情はどこか得意げにも見えた。粗く切り落とした髪は風に舞って、水色の空に融け込んでいくようだ。
「別に」
不機嫌だったわけではない。喧嘩を売るつもりも毛頭無かった。ただ、何と答えて良いか解らなかったのだ。不器用な自分を繕うものがあったとすれば、それは不器用な科白に違いなかった。
「ふぅーん」
鼻にかかった間延びした声は、如何にも「納得いかない」と言っているように聞こえる。文句の一つも言われるかもしれないと、そう思っていた。だけれど、彼女はニカッと笑ってみせたのだ。
「あ……」
思わず声を漏らしていた。吃驚した、というよりも気恥ずかしかったのだと思う。彼女の笑みにではなく、何もかも見透かされていたことに。
不意に異世界での記憶が頭を過ぎったのだ。夢も希望も、イリアとの繋がりも、あの瞬間に断たれてしまったと思った。何もかもが始まろうとしていた時に全てを失った。少なくともそう思っていた。だけれど、結局失ったのは『クレリックの国に生まれたウィザードの王子』なんて忌まわしい肩書きぐらいのものだった。
三年という月日を経て、目の前の世界<オッツ・キイム>は少しだけ変わった。俺もイリアも、少しだけ大人になった。二人の関係や立ち位置も、あの時とは微妙に違う。何が、と訊かれたら答えに困るが、確かに何かが変わっている。だけれど、俺たちを繋ぎ止めている根っこの部分は何も変わっていないと、たった今確信した。
彼女が髪を掬い上げる。少年のようなあどけなさが顔を見せて、思わずハッとしてしまった。ウリックだった頃の面影を見た気がしたのだ。
スカートの端をそっと押さえた彼女は、女らしい仕草でその場に腰を下ろした。それから、一度だけ大きく背伸びをして、草むらに寝転がってみせた。
透き通ったインディゴ・ブルーの瞳は、大空をとらえたまま微動だにしない。その瞳に何が映っているのだろうと、辿るようにして視線の先を追ってみた。そこに広がっていたのは抜けるような青空だった。これだけ大きな空を目の前にして、人間の悩みなど所詮はちっぽけなものだと、そんな風にさえ思えた。
「あの時……あいつに会ったような気がする」
考えるよりも前に口が動いていた。先を促すように「あいつ?」と繰り返すイリア。空をじっと見つめたまま、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「異世界で全てが終わろうとしていた時」
隣で息を呑む音が聞こえた気がした。決して見ていたわけではない。ただ、張りつめた緊張が全てを物語っていた。彼女の事だ。必要もない罪悪感を抱いていたに違いなかった。
「あいつに、ザードに会った」
「ザード……兄さんに……?」
「最後までお前の事を心配していた。『イリアを頼む』と言って、気がついたら、俺はオッツ・キイムに戻っていた。幻を見たと言われたらそれまでだけどな。だけど、俺はあいつだったと信じている」
応えはなかった。代わりに、鼻をすするような音が聞こえてきた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。だとしたら、彼女はどうして泣いているのだろうか。兄を失ったことに対してか、兄の立派な振る舞いに対してか。それとも、何か別の理由でもあるのだろうか。ともかくも、俺は先を続けた。
「さっき、難しい顔してるって言っただろ? ザードのことを思い出してたんだ。いろいろとな」
「いろいろ?」
「ああ」
そう応えて口をつぐんだ。考えていることを口に出すのに、多少なりとものーー正確に言えばかなりのーー抵抗感があった。だけれど、持って回ったような言い方を、彼女が許そう筈がなかった。
「ねえ、どんなこと?」
それでも、口を開く気にはなれなかった。俺にとっては隠すべき感情であったし、それを崩すつもりもなかった。イリアの関心がザードに向かっているならなおさらだ。彼女の良心に、罪悪感に、俺はつけいるべきではなかった。
「ねえ」
「頭がおかしくなりそうだった」
「え……」
「あいつがお前の話をするたびに、胸の下がもやもやして、自分でもわけが解らなくて、体がガタガタ震えて」
止まらなかったのだ。堰を切ったように、心の中に押しとどめていた何かが溢れ出していた。それはぎこちない言葉の断片となって、唇からぼろぼろとこぼれ落ちていく。
「女に対する嫌悪感とは違う。そんなものじゃない。そうだとしたら、俺はお前を拒絶するだけでよかった。他の者達にそうしていたように。そうされていたように」
「シオン……」
「だって解らないだろ。どうしてこんな気持ちになるのか。こんな気持ちって何なのか。それからずっとお前の事を考えてた。こいつは……何でペン子本ごときで泣くんだって。傷を見るたびに泣いて、泣いたと思ったらすぐに笑って。ワケが解らないじゃないか。そんなこと、俺の常識の中ではあり得るはずが無い。到底理解など出来るはずがない。なのに、考えずにはいられなかった。どうしてだろうって、ずっと考えてたんだ。だけど、今なら解るような気がする。一緒に旅を続けて、何となく解ってきた気がする」
ぎこちなく顔を横に向けた。インディゴ・ブルーの瞳がじっと俺を見つめている。怯えているわけでも、怒りに駆られているわけでもない。ただ、真実を見つめるように、まっすぐ俺を見つめていた。大きな瞳は、まばたき一つせずに先を促していた。
「こんな事はなかったんだ」
少しだけ声のトーンを落として、意識してゆっくりと喋っていた。
「今までに、ありのままの自分でいられた事など一度もなかった。アドビスという牢獄の中で、俺は俺として在ることを否定して、常に偽りの自分を演じなければならなかった。だけどお前は違った。本当の俺を認めて、受け入れてくれた。初めてだったんだ。俺に居場所を与えてくれたのは、お前が」
小麦色の頬を、一筋の涙が伝っていた。
彼女は俺を哀れんでいただろうか。それとも、少しでも嬉しいと思ってくれたのだろうか。色々な思いを巡らせながら、親指の先で涙を拭ってやる。それから、髪の毛を優しく撫でてやった。
「だから、命を賭けてもいいと思ったんだ」
潤んだ瞳が一瞬ほど大きく見開いた。逃げるように視線をそらして、それから、恐る恐るといった風に俺の顔を見つめてきた。真っ白な歯は可哀想なくらい下唇に食い込んでいる。
「……バカ」
今にも消え入りそうな声だった。それは恥ずかしがっているようにも、怒っているようにも聞こえた。きっと、どちらも正解なのだろう。いろんな感情があふれ出して、自分でも何が何だか解らなくなって、一番素直な気持ちが口をついて出たのだ。
「バカってお前なぁ」
「バカだよ……私の為に命を投げ出すような事して」
「だからそれは」
「助かったって、シオンがいなくちゃ意味無いじゃないか!」
吃驚するような大声だった。自分でも驚いたのだろう。目をパチクリさせながら、視線を彷徨わせた彼女はついに俯いてしまった。
どうしようかと迷ったあげく、髪の毛をそっと撫でてやった。その手を背中まで滑らせ、自分の方へと優しく抱き寄せる。だけれど、彼女は動こうとはしなかった。握りしめた両手を胸のあたりに置いて、上目遣いで俺を見つめるだけ。気のせいか、頬はほんのりと上気している。先ほどの興奮が残っているのか、それとも恥ずかしがっているのか。いずれにせよ、こいつが嫌がる事を強いるつもりはなかったし、そうまでして抱きしめたくもなかった。代わりに、青い髪をくしゃっと撫でてやる。怒られるのを覚悟で、余計な二言を付け加えてやった。
「いやだい。お前を死なせでもしたら、死んでも死にきれないだろうが」
唇を固く結んだイリアは、それでも、どこか穏やかそうな顔をしていた。
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fin
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