陽の光を失った世界は闇に包まれ、ゆっくりと雪の中へと沈んでいく。
いつの間にか吹雪は止んでしまっていたらしい。空を舞い降りる雪はただ、微かに湿り気のある音をたてながら、しんしんと降り積もっていく。冴え冴えとした月明かりをその身に抱き、オッツ・キイムは、辛うじてその輪郭を保っているように思えた。
「どうかした?」
少し遅れて、窓ガラスにイリアの姿が映り込んできた。
「別に」
いつも通り淡泊に返す。それから、一度だけゆっくりと目瞬きをした。
相変わらず雪は降り続いていた。
ゆっくりと、静かに、それは全てを飲み込んでいく。美しさとは裏腹に、その身に抱いた凍える刃は、徐々に命の灯火を削っていく。ゆっくりと、静かに、生者の世界を侵していく。
「わぁ……綺麗だね」
彼女がうっとりしたような声で呟く。俺の両肩にそっと触れて、それから、隣の椅子に腰を下ろした。今にもとろけてしまいそうな瞳をして外を見つめている。女にとって雪はロマンチックなものらしいがーー如何せん、男の俺には理解しかねる概念だ。だが、ここで「そうか?」等と言って喧嘩をするほど、彼女の事を理解していない訳ではない。
「そうだな」
そのような答えが返って来るとは思わなかったのだろうか。彼女は少しだけ驚いた顔をして見せて、くすりと笑いながら、口の端を緩めてみせた。
ランプの炎がゆらりと揺れて、彼女の顔にやわらかな陰影を映し出した。その時の彼女はとても穏やかな表情<カオ>をしていたのだ。普段は見せることのない、女性的な、どこか神秘的な美しさをたたえていた。
一片の言葉すら出ては来なかった。まるで言葉というものを忘れてしまったように、彼女の顔をじっと見つめているだけだった。
首筋がチリチリしている。体中があり得ないほど熱気を帯びている。胸の辺りがひっきりなしにざわついている。どうしてだろう。今目の前にいる彼女は、俺が苦手としている女そのものなのに、彼女を女たらしめている全てが俺の心を惹きつけている。
「あ……」
気まずさと気恥ずかしさを打ち消そうと口を開いた瞬間、ランプの明かりがフッと消えた。
「ランプの油、入れ忘れてただろ?」
意地悪っぽい口調でまくしたててみる。彼女は少しだけ困った顔をして、それから、いつも通り無邪気に笑って見せた。
「あはは……買ってくるの忘れちゃった」
「全く、お前らしいぜ」
「ごめんね。怒ってる?」
「別に」
髪の毛をかきあげるようにして、彼女の耳にそっと触れた。ぷっくりした可愛らしい唇から声が漏れる。驚いたような、それでいてどこか艶を帯びた声が。
「怒ってねぇよ」
それが合図だった。
彼女の顔を引き寄せて、少しだけ強引に唇を重ねた。優しい口づけが出来るほど冷静ではなかったのだ。
熱い吐息が喉を灼きつけてくる。彼女に触れている肌越しに、早鐘のように打つ鼓動を感じることが出来た。このままでは心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど早く、強く。その鼓動が自分のそれと重なり、互いの躯が一つに解け合っていくような錯覚すら抱いていた。そして不意に目を開いた瞬間、目の前には可哀想なほど堅く目を閉じ、躯を強ばらせている彼女の姿があった。
「わ…悪い」
唇を引き剥がしていた。心臓が痛くなるほどドクドク鳴って、指先が微かに震えていた。頭の芯がじんわりと痺れて、何も考えることが出来なかった。
「え……?」
イリアのヤツが間の抜けた声を漏らした。未だ頬を赤らめながら、どこか不思議そうな、呆気にとられたような顔をしている。
「あ、いや……だから、その、あれだ、む……無理矢理して悪かったって」
彼女は「どう答えて良いか解らない」と言わんばかりに目を泳がせていた。それから、逃げるように俯いて、膝の上でギュッと拳を握りしめてみせた。
「……シオンの馬鹿」
「ごめん」
「だ、だから、謝らないでよ、もう! 私、その、嬉しかったんだから。私の事、女として見てくれてるんだなって思って」
「だって、目瞑って梅干し食べたみたいに顔しわくちゃにしてたじゃーー」
しまった、と思った時にはもう時既に遅し。
「もう知らない!」と言いながら立ち上がった彼女は、逃げるようにベッドの中に潜り込んでしまった。全く、我ながら一言どころか二言も三言も多いじゃないか。これだからいつもデリカシーが無いとか言われるんだよな。
小さくため息を吐き捨て、冷静さを取り戻した頭を軽く振った。
さて、これからどうしたらよいだろうか。少し時間をおいた方がいいか、それとも、すぐに謝った方がいいか。
散々考え抜いた挙げ句、俺は無言でベッドの中に潜り込んでいった。
彼女は俺に背を向けたまま微動だにしない。それだけ怒っているという事を示したいのだろう。せっかくいい雰囲気になっていたというのに、俺ってヤツはーーそう心の中で呟きながら、彼女の髪の毛にそっと触れた。なだめすかすように優しく撫でて、それから、柔らかな喉元にその手を回した。
「悪かったよ」
応えはない。ただ、掌越しに、彼女が唾を飲み込んだのが解った。
「ごめんな」
「……恥ずかしかったんだから」
今度は俺が黙りこくる番だった。言い訳するのはみっともないし、これ以上言葉を重ねたとして、虚しいだけだと思ったのだ。
彼女の肩が微かに動く。狭いベッドの中で、彼女は動き辛そうにして、身体をこちらに傾けてきた。唇をへの字に曲げて、いかにも拗ねたような瞳で俺を睨み付けている。
「目、閉じるの」
左手を伸ばして俺の両目を覆い隠す彼女。大人しく従う俺。生暖かい吐息を感じた瞬間、俺たちは口づけを交わしていた。
先ほどの口づけとは違う、ただ唇を重ねるだけの淡い口づけ。情愛の類を感じさせない、それでいて、とても心地よい口づけだった。
ゆっくりと唇を離す。イリアは穏やかな顔をして俺の顔を見つめていた。
「シオンも」
「ん?」
「酷い顔してた」
口許をつり上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる。いつもの無邪気な笑みとは違う、どことなく女らしい、含みのあるような笑みだ。
「まったく……お前には敵わねぇぜ」
諦めたような笑みを浮かべて、俺たちはもう一度だけ口づけを交わした。 |
fin
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