sion side///
汐の音が聞こえる。
満ちては引いていく汐の音が、夜の静寂<しじま>を静かに彩っている。
昼間の喧噪が嘘のように、穏やかでゆっくりとした刻が俺たちを抱いていた。
長い間、二人の間に会話らしい会話などありはしなかった。
彼女は「静かだね」とか、「空が綺麗だね」とか時たま呟き、俺は「そうだな」と気のない返事をする。会話と呼ぶにはあまりに拙いものーーそれでいて、そ
の要件を十二分に果たしているもの。時として、言葉というものは思いを伝える枷となる事がある。言葉を重ねるたび、積み重なったそれは、まさに『何もので
もなくなって』しまう。今の俺たちは、それが解らない程子供ではないし、それを十二分に味わえるほど大人でもない。だから、時に別の何かを必要とする。空
気のような形のないものではなく、もっと実体のある何かを。
やめよう。こんな風に分析的になってしまうのはいつもの悪い癖だ。いや、もしかしたらただの言い訳に過ぎないのかもしれない。これからしようとしている事に対しての。
あれこれ考えてしまう自分が馬鹿らしくなって、込み上げてくる苦笑を口許に逃がしてやった。それから、隣に座る彼女へと視線を落とした。
二人には大きすぎる、でも三人では窮屈そうな長椅子の上。彼女は眠たそうに目をこすりながら、俺の肩にちょこんと頭を乗せている。長い睫毛は目の動きにあわせて微かに震えていた。
「眠いのか?」
囁きかけた声が擦れてしまう。
我ながら雰囲気の欠片もないなーー心の中で苦笑しながら、一度だけ唾を飲み込んだ。知らない内に口の中がカラカラになっている。なるほど。体が正直だってのも頷ける話かもしれない。
そんな事など知る由もないだろう。彼女はぎこちなく顔を上げると、「ううん」と微笑みかけてきた。彼女らしい屈託のない笑みだ。こんな間近で見ると、思わずどきりとしてしまう。
「ホントか?」
からかうような口調で言ってやる。子供扱いされたとでも思ったのだろう。頬をふくらませた彼女は「そうですよーだ」と拗ねた風に返してきた。
認めたくないけど、こんなイリアの事が好きでたまらない。考えにしても振る舞いにしても自分とは正反対の筈のコイツが可愛くて仕方ない。自分でもどうかしてると思う。この俺が、こんなにも他人に固執するなんて。
「ふーん」
何の前触れもなく、彼女の髪の毛にそっと触れた。風呂から上がって間もないせいだろう。湿り気を帯びた髪からは微かに甘い香りが漂ってくる。
「あっ」
彼女の体がびくっと震えた。反射的に目を細めて、俺から視線を逸らそうと必死になっているようだった。いつの間にか頬は薄紅色に染まり、眉間には深い皺が刻まれている。「ええと……」
それから、困ったように口を結んでしまった。ぷっくりと膨らんだ唇は、月光を浴びて、まるで瑞々しい果実のように輝いていた。食べてしまいたいなんてベタな事は言わないが、内心そう思っていたりするのは秘密だ。
「嫌か?」
躊躇いがちに俺の顔を睨み付けてくる彼女。唇をへの字に曲げて、如何にも不満そうに「もう」と声を漏らした。
「そんな事女の子に訊かないの! 嫌だったら……嫌だったらシオンなんて突き飛ばして逃げてるんだから」
「……頼むからそんな物騒な事すんなよ?」
今度は両手で耳に触れて、ゆっくりと顔を近づけていった。反論を許したなら、せっかくの雰囲気がーーといっても俺が壊しかけたんだけどーー台無しになってしまうような気がしたのだ。
彼女は顔をしわくちゃにしていたけれど、決して拒みはしなかった。お世辞にも可愛いとはいえない表情<カオ>だけれど、正直、俺の男心はグッと掴まれて
いた。こういう初心な所が何とも言えず可愛いじゃないか。こんなコト言ったら、あいつの事だ、きっと怒ってしまうのだろうけど。
初めは啄むような口づけを。繰り返していく度に、カチコチに固まった彼女の体が少しずつほぐれていく。そして頃合いを見計らって、今度は舌を差し込んでいった。
「んっ……んんっ……」
喉の奥に熱い吐息が流れ込んでくる。理性がとろとろに溶けていって、そして彼女を椅子に押し倒そうとした瞬間だった。
『ドンッ!!』
何かが壁にぶつかったような音が響き渡る。
それを知覚した瞬間、俺の体は何故か宙を舞っていた。
何が起こったか解らないまま床に叩きつけられる俺様。恐る恐る目を開いてみると、椅子の上にはイリアのヤツが、キョトンとしながら俺を見下ろしていた。
「へ……?」
「っ痛……いきなり何しやがる……」
自分なりに状況が飲み込めてきたのだろうか。彼女は口許に引きつった笑いを浮かべながら、ポリポリと頭を掻いてみせた。
「あは……ははは……いや、その……いきなり音がするから、誰か来たのかと思って突き飛ばしちゃった」
「突き飛ばしちゃったって、お前」
「はは……ごめんね?」
「全く、お前ってヤツは……」
少し呆れながら、それでも怒る気にはなれなかった。自分のしようとしていた事を考えると、何となく気まずさがあったのだ。両手を床について、ため息を吐きながら起きあがってみる。体中が痛むような気がするが、まあ気のせいという事にしておこう。
「それよりも、だ」
「だ、だから謝ってるじゃ……」
「そうじゃなくて、さっきの音だ」
「あ、そうか」
「何があったか見てくるから、お前はそこで待ってろ」
「え……シオン一人で!?」
「ああ」
「でも、何かあったら危ないじゃないか!」
「お前だって同じだろうが」
「だ、駄目だよ! 私が見てくるから、シオンはここにいて!」
「あのなぁ……」
俺の事を思ってくれているのはよく解るし、それは泣ける程嬉しいんだが……何だか男としての立場を無視されてるようで悲しくなってくる。いずれにしろ、イリアにはここに残るように言い含めて、俺が外を見てきた方が得策だろう。
「俺は大丈夫だから、お前はここで待ってろ。俺が帰ってくるまで動くんじゃないぞ。いいな?」
「でも……」
「でもじゃない。いいな?」
「……うん。解った」
「良い子だ」と言いながら頭を撫でてやる。
普段の彼女であれば「子供扱いして!」とか言って来ただろう。だけれど、今の彼女といえば、ただしゅんとして俯いているだけだった。
「それじゃ、行ってくるからな」
彼女の返事を待たずにドアの方へと向かっていく。それから、「うん」という返事を合図にノブを回した。 |
to be continued...
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