necrosis vol.3
sion side///

 闇が広がっている。どろりとしたペンキを垂らしたような、じっとりと肌に絡まりついてくる闇が。夜のヴェールは、思ったよりも重くて暗い。
 ごくりと唾を飲み込む。
 その音が闇に蠢く『何か』に聞こえてしまうのではないかと思った。思わず口に手を当て、それから、ハッと我に返った。そんな音が聞こえるわけがないじゃないか。しかも、口を押さえた所で、何がどうなるわけでもないだろうに。
 行き場を失った掌で唇を拭う。言い訳がましいな、と思いながら、音のした方に歩き始めた。
 つまり、こういう事だ。先程の行為が、自分の動揺を隠そうとしているようで、何となく悔しかったのだ。そして、そんな自分に気づく事で、自ら隠蔽しようとした動揺に気付いてしまった。急に高鳴りだした鼓動が何よりの証拠だった。
 ドクドクドク。
 高鳴る心音に床が軋む音が重なる。耳に突き刺さるような嫌な音だ。摺り足をしても、その音は消えようとはしない。焦っては駄目だ、焦っては駄目だと自分に言い聞かせるが、その度に焦ってしまう。全てが悪循環だ。
 不意に、胸ぐらを掴まれたような、鈍い衝撃が体中を走った。
 少し遅れて、頭の中が真っ白になっていく。
 そこで俺が見たものとは、壁に激突した魔物の遺骸。パックリと割れた頭からは、ザクロのように朱い肉塊がのぞいている。命を奪うには十分すぎる衝撃だったのだろう。目の前に横たわる『それ』はぴくりとも動かない。
「イリア……」
 思うよりも先に唇が動いていた。胸がざわつき始めて、喉がカラカラに乾いていく。
 魔物がこれだけである保証はどこにもないのだ。俺の帰りを待ちわび、迎えに行こうと外に出た彼女が万が一襲われていたなら?
 不安に突き動かされるがままに振り返る。まさにその瞬間、肩に鋭い痛みが走っていた。
 足下がもつれ、背筋がすぅっと冷たくなる。抗う機会すら与えられはしなかった。何が起こったのかも解らぬまま、俺は地面に叩きつけられていたのだ。
「なっ!?」
 ヤツは俺を睨み付けていた。口の端からは涎を垂らし、狼のような風貌には似つかわしくない酷く発達した筋肉は、目の前でみるみるうちに隆起していく。動物なんてかわいらしいものではない。俺を喰らおうとしているこいつは、まさに魔物以外の何者でもなかったのだ。
 頭の中に「どうする!?」という言葉が現れては消えていく。
 ここで魔法を使うわけにはいかない。こんな近い距離で、どうして巻き込まれないなんて事があるだろうか。しかし、このままの体勢を維持するなんて不可能だし、気を抜いた瞬間、俺はヤツの餌食になってしまうだろう。
 奥歯をギリッと噛み締める。不意に、イリアの顔が脳裏を掠めた気がした。
「シオン!!」
 聞き覚えのある声に、ドスッという鈍い音が重なる。
 反射的に目を瞑っていた。その間に全てが終わっていたのだ。
 床が大きく波打ち、人間のものではないであろう、悲痛な叫び声が響き渡っていた。床を打つ音が何度か続いて、その度に俺はビクッと震えていた。そして不意に静寂が訪れたと思った瞬間、俺は彼女の声を聞いたのだ。
「シオン! 大丈夫!?」
 紛れも無く彼女の声だった。
 呆気にとられながら、恐る恐る目を開いてみる。目の前の世界は酷くぼやけて見えた。
「イリ……ア?」
 彼女の姿は見えない。だけれど、心のどこかでそう確信していた。
 目瞬きをする度、世界は少しずつ輪郭を取り戻していく。彼女の輪郭も、ゆっくりとあるがままの姿を取り戻していく。
「イリア……どうして……」
「だって! シオンの事が心配だったんだもん!」
 彼女の頬を涙が伝っていく。
 大きな滴が零れ落ちてくるのが見えた。俺の頬に触れたとき、それは微かな水音と共に弾け飛んだ。
 肌に刺す冷たい感覚だけがいつまでも残っていた。
 この時、俺は涙の零れ落ちる音を初めて聞いた。

to be continued...

n o t e
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。未だに全体から見ればプロローグに過ぎない章ですが、ゆっくりのんびり更新していきたいと思います。夜麻先生作品の事をいつまでも覚えていて貰えるよう、微力過ぎますが、更新という形でお手伝いが出来ればと思います。

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