何かが弾けるような音が響き渡っている。
鋭い、酷く乾いた音だ。パチ、パチ、パチと、それは意識の中に飛び込んできて、覚醒の刻が迫っている事を告げていた。
まだ眠っていたいという気持ちもある。だけれど、それを許さぬと言わんばかりに、四肢の感覚は少しずつ回復していく。朝だろうか? いや、目蓋越しに感じる光は鋭い朝の日差しとは違う。紅がかった、どこか柔らかい光だ。
ゆっくりと目を開いてみる。
光の粉が空を舞っていた。朱と言うよりは橙に近い光の粒が、次々に闇の中へと飲まれていく。
パチ、パチ、パチ。まるで一瞬の命を与えられた蛍のように、その光はあっと言う間に消え去っていく。
遠くに聞こえるのは梟の声か。天上には蒼白の月が、冷たい光をたたえながら、ぼんやりと浮かんでいた。水面に映っているように、そんな風に見えなくもない。そしてそれは、あたかも冷たい水の中にいるかの如き錯覚をおぼえさせた。
体が微かに震えた。寒いわけでもないのに、そんな風に感じた気がした。それから、どっと安堵感が押し寄せてきたのだ。
朝まではまだ時間がある。あの場所ーーアバスのイビスに行くまで、少しだけ猶予を与えられた気がした。意識がある無いにかかわらず、そこには同じだけの時間が存在するのだというのに。
奥歯をギリッと噛み締め、それから、隣で眠っている筈の彼女に視線を向けた。
顔があるはずの場所には、何やら太い大根のようなものが、薪の明かりに照らし出されていた。
大根?
そう思いながら視線を上げてみる。
見覚えのある服が目に入って、そこに見たのは、ぼんやりと炎を見つめるウリックの姿。いや、もうイリアと呼ぶべきか。解っていながら、それが出来ずにいるのだけれど。という事は、さっきのアレはあいつの太腿か。大根だなんて、ふふっ、そんな事口にしたらあいつの事だ、きっとふて腐れて拗ねるに違いない。これはこれで、健康そうで結構好きなんだが。
「眠れないのか」
そう言おうとして、喉元まででかかった言葉を飲み下した。
彼女が不意に漏らした言葉が、俺を凍り付かせていたのだ。
「兄さん」
まるで金縛りに遭ったかのように体が動かなかった。胸が酷くざわついて、喉がカラカラに乾いていく。
イリアが兄さんと呼んでいる男とは、オッツ・キイムを大いなる厄災から救った勇者ザードの事だ。俺たちを引き合わせて、そして何より、この俺を暗闇から救い出してくれた男。
それなのに、この男の名前を聞く度に、俺は混沌の中へと突き落とされる。喩えようのない負の感情がもくもくと沸き起こってくるのだ。
一体いつからだろう。いつからザードをそんな風に見るようになった? 俺にとっての救世主である彼を。
記憶の糸をたぐり寄せてみると、きっと答えは、彼を見るイリアの視線の内に潜んでいるのだと思う。
どうやっても、俺は彼女の中で一番になる事が出来ない。その事実が俺のプライドを傷つけ、どうしようもない不安の中へと貶めるのだ。彼女と出会って以来ずっと、俺はザードに追いつこうと、出来る事なら追い越そうと躍起になってきた。だけれど、追いつけるどころか、刻が経つ毎にその差はますます大きくなっていくだけだ。彼が如何に大きな男であったか、彼女にとってどれだけ大切な存在であったかーーアドビスで一緒に暮らそうと言った時、それを痛いほど思い知らされた。
「……眠れないのか?」
低く押し殺した声で訊ねてみる。
彼女の躰がビクッと震えた。それから、ゆっくりとこちらに顔を向けてきた。
「うん。ちょっとね」
その顔には柔らかな笑みが浮かんでいたのだ。これから何が起こるのか、異世界が如何に恐ろしい場所であるか、彼女は決して知りはしない。説明したとしても、きっと理解は出来ないだろうし、理解しようともしないだろう。彼女の中にあるのは、唯一の家族を殺した邪心竜<ディアボロス>に対する復讐のみなのだから。
「明日も朝早いんだゾ? 寝不足でフラフラして、すっ転んでも知らないからな」
「んもぅ……僕そんなにドジじゃないよ」
「誰がだよ? 昨日は朝っぱらから溝にはまるわ、小さな村で迷子になるわ、ポヤポヤして木にぶつかるわ、それからーー」
「ふんっだ! どうせ僕はドジですよーだ!」
「だからそう言ってる」
だとしたら、俺は何故彼女と旅を続けている?
ザードに頼まれたからか? それはきっかけではあったけれど、そうすると決めたのは俺自身だ。彼女の写真を見せられた瞬間、胸が酷くざわついて、自分でも自分が解らなくなって、毎日そればかり考えるようになって……そんな時、彼女に逢ったのだ。
ペン子本が好きで、血を見ただけで泣き出すような女の子。大凡知性や優雅さからは程遠い、俺が苦手とするような人間であった筈だ。
だけれど、俺は「彼女を守らなければならない」と思った。彼女の傍にいたいと強く望んだ。いつの間にか、それが自らの存在意義であるように思えてきたのだ。
全ては彼女の為ーーいや、そんな風に言い切る自信など無かったし、そう言ってしまえば、それはただの偽善になるだろう。
その感情の正体は別として、彼女の事は好きだと思う。ずっと傍にいたいと思っている。だけれど、その気持ちは自らの全てを犠牲にしようと思うような崇高なものではない。きっと、そうなのだと思う。
「……拗ねたのかよ?」
「べっつに」
「拗ねてるじゃねぇか」
「だから、違うって言ってるだろ」
「ふ〜ん。まあいいけどな」
「ふんっだ!」
こんな何気ないやりとりがどれだけ支えになっていた事か。俺にとって、明日命を落とすかもしれないこの極限状態の中で、彼女こそが拠り所であったのだ。彼女から離れてしまえば、明日も、明後日も、そのまた次の日も、例え代わり映えがなかったとしても、確実に生きていられるというのに。俺はそうはせずに、彼女の傍にいて、そして彼女に全てを委ねている。彼女は逆だと思っているだろう。だけれど、実際にはこれが正しい。
「なあ」
死ぬなよ、と言いかけて口をつぐんだ。どうしても言えなかった。口にしてしまえば、それが本当に起こってしまうような気がして。
きっと救われているのだと思う。俺は、彼女に救われている。常に傍らにいて彼女を護り、そしてディアボロスを倒す事によって、ウィザードとしての自分が肯定されているような気がしてーーだから彼女の傍にいるのだと思う。
彼女はウィザードとしての俺ではなく、シオンとしての俺を受け入れてくれている。だけれど、それをそのままの形で受け入れられるほど、俺の心は素直に出来てはいない。ウィザードである事に対する劣等感が、未だに俺自身を縛り付けているのだ。
「ディアボロス……絶対に倒すぞ」
一瞬ほど彼女の顔から笑みが消える。それから微かな笑みを浮かべて、「うん」と言うように頷いてみせた。その表情は、まるで女神のように見えていた。
少しずつ空が白んでいく中、俺たちはかけがえのない時間を共有していた。
こうなるような予感はしていた。彼女と出会った刻から、兄の復讐をすると聞いたその刻から、こうなるのではないかと思っていた。いざその刻を迎えてみて、俺の中にはある種の満足感のようなものがあったのだ。それは大切な人を護りきったのだという強い達成感と、初めてウィザードとしての自分を受け入れる事が出来た安堵感でもあった。
心残りがあるとしたら、それは俺の死によって彼女の心に深い傷を負わせてしまうであろう事。それから、彼女とこれ以上一緒にいられないという事。
目を閉じると、今まで一緒に過ごしてきた色んな思い出が蘇ってくる。楽しい思い出ばかりではない。だけれど、全てがかけがえのないもので、それらは今の俺自身を形作っていたのだ。
そうなのだ。ここで俺が息絶えたとしても、俺と過ごした日々は、思い出は、彼女たちの中で生き続ける。記憶の話をしているわけではない。共に過ごしたかけがえのない時間が、俺の、そして彼女たちの血となり肉となり、今いる俺たちの礎<イエソド>となっているのだ。その積み重ねが刻を刻む。オッツ・キイムという大地の上で、俺たちはいつまでも生き続ける。
だから俺は望むのだ。彼女に、そうして欲しいと思う。決して最期の瞬間を共にするのではなく、これからもーー
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fin
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