全てが終わる日に vol.2

 霧が引いていくように白い光のヴェールが消え去った時、私達の前には見覚えのない景色が広がっていた。
 冷たくて黴臭い空気、壁に彫られた無数の神像――そして異様な存在感を放つ巨大な扉。
 一目見ただけでそれが神門だと解った。
 石作りの柱はびっしりと古代文字で埋め尽くされ、それらは蒼白い光を放っていた。
 そして何より、微かに開いた扉から溢れ出る目に見えない大きな力が、これが神門であるという確固とした証だった。
 私はダイクをその場に寝かせると、振り返って結界の上に手を差し出した。
「我シェザードの名の許に命じる。力を封じよ」
 結界が白く光り輝いたのと同時に、緩やかな風が天に向かって舞い上がる。それにつられるように私の髪も舞い上がり、印から発せられた光は眩い閃光と共に弾け、風もそのまま静かにやんでいった。
「う……うん……」
 宮内に響き渡る低くくぐもった声。私は印を一瞥すると再びダイクの方へと視線を向けた。
「ここは…………一体……」
 目を覚ましたダイクは地面に横たわったまま私の顔を凝視していた。
 しかしそれも一瞬だった。顔色がさっと変わり、右手を突いて起き上がった彼は辺りをキョロキョロと見回す。
「ルシア……ルシアは……」
 記憶が混同しているらしかった。
 必死になって亡き妹を捜す彼の姿を見ながら、事実を告げる事を一瞬戸惑ってしまう。しかしこのまま黙り続けている事は出来ないのだ。私がそうする事で彼女の死がなかった事になるわけでもないし、彼も答えがないままで納得はしないだろうから。
「……ダイク、ルシアは死んだ。嘉月宮で、イルスに殺された」
 噛み潰すようにして発した言葉の一つ一つが酷く冷たい響きを持っていた。私の中にはありとあらゆる感情がごちゃ混ぜになっているというのに、この口から出てくる言葉が如何に冷たく、味気ないものか……それは私自身が何も感じていないようで、言葉にならない不安が胸の中に渦巻いていた。
「あ……う……あ…………わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
 彼の拳が地面に叩きつけられる。
 何度も何度も。
 その度に薄灰色の地面が赤黒い血で染まっていき、それは先程のグロテスクな光景を思い起こさせた。胸の底から沸き起こってくる酷い吐き気と嫌悪感を殴り捨てるように、気がついたら彼の手首を握りしめて叫んでいた。
「ダイク!!」
「煩いっ!!」
 叫び声と共に私の手は振り解かれる。目に大粒の涙を溜めたダイクは私の目を凝視したまま血に染まった拳を握り締めた。
「お前に何が解る!!助けようともしないで……俺の邪魔をして……」
 今の彼は正気を失っているに違いない。だって私には何も出来なかったんだから。私達にはどうする事も出来なかったのだから。
 そのような言い訳を並び立てて、必死になって彼の言葉をふりほどこうとしていた自分がいた。しかしそれでどうにか出来るほど器用な人間でもないし、彼の言葉が真実である事など誰よりも私が理解していたのだ。私はその重圧を一身に受けながら、両手をぶらりとたらして、虚ろな眼差しで地面を見つめている事しかできなかった。
「済ま……ない…………」
 恐る恐る視線を挙げる。先程までが嘘のように、そこにいた彼は怯えた子犬のような目をして私を見つめていた。顔の筋肉が強張って、唇を震わせながら擦れた声を絞り出していた。何か言葉を返さなければ、と思うのに、探そうとすればするほど、私の頭の中は混乱するのだった。ただこの沈黙が彼を追い詰めているのだと知っていながら。
「俺は……俺はなんて事を…………シリア……済まない…………」
 私が見ている前で彼は頭を垂れて地面に肘をついた。まるで一人ぼっちの子供のようにわなわなと身体を震わせながら。震える声が痛々しくて仕方なかった。何か言わないと、私がどうにかしないと、そう自分を追いつめながら何とかして言葉を吐き出した。
「……いいんだ」
 必死になって紡ぎ出したのはたったそれっぽっちの言葉だった。
 心がざらついている。
 何て言うのだろう……それはざわざわしていて、少しずつ前進へと広がっていき、好みを蝕んでいく。私はそれに抗う術を持たないのだ。
 瞬時、物凄い爆音と共に神門宮がぐらりと揺れた。
 同時に私の虚ろな瞳は宮内に侵入してくるイルスの姿を捉えていた。
 何かしなければいけない、頭の中では解っていながらも身体は動かなかった。
「あ……ああ…………貴様らがルシアを……畜生ォォォォォォォォォ!!!!!!!」
 わなわなと震えながら起きあがった彼は、怒りと憎しみに満ちた瞳でイルスを睨み付けると、獣の咆吼のような叫び声を上げながらイルスめがけて勢いよく走り出した。
 ぼんやりと見つめる瞳の中で、彼が死に向かって突き走っていく姿はまるで絵の中の出来事のように映し出されていた。
「クリエ ヴィリラル リィオリ  クリエ ヴィラル リィオリ……ヴューテント!!!」
 ダイクが術を詠唱する度に空気がピリピリと張り詰めていくのを身をもって感じていた。
 同時に、彼は指を器用に動かしながら空に複雑な印を結んでいく。
「相手はただのガキだ!さっさと片付けてしまえ!!!」
 イルスのリーダーと思しき男が吐き捨てるように言ったその時、私は我に返った。私達の周りに強力な磁場の出現を知覚したのだ。
「マズい……仕掛けられた!?」
 そう吐き捨てた瞬間に蒼白い閃光が宮内を走った。空間が一瞬にして張り詰め、イルス側の術者はジリジリという耳障りな音をたてながら輝く鋭い光の帯を一気に解き放った。
「其は光の盾!我らを護り給う!!」
 反射的に障壁の印を結ぶ。そして右手を前に突き出すとすぐさま術を発動させた。
 印の中心から蒼白い光の帯が幾重にも重なって発せられ、それは枝分かれしながら宮内に広がっていく。
「ヴァーレス スウィスドゥア――――」
「クリエ クリエ ストヴィア ヴィリラル ヴェトヴェル リィオリ ヴァイス!!!力の意志よ、我に従え!!!!!」
 瞬時、ダイクの刻んだ印が赤く輝く。そしてイルスが放った光の帯は空中で止まり、赤い光を放ちながら爆散した。飛び散った光の破片は、まるで意思を持ったかのようにイルス目掛けて飛んで行く。
「リィオリ ストヴィア ヴィラル ヴァイス―――裁きの炎よ、全てを飲み込め!!」
 ダイクの叫び声に重なって結ばれた印から赤黒い炎が噴出してくる。それは生々しい動きをしながら地面を這って、物凄いスピードでイルスに向かって走っていった。
「馬鹿な!?我々の術が……!!」
「炎よ、我が意に従え!神を侵す愚かなる者に死の制裁を!!!」
 イルスの兵士達は恐怖に顔を歪めながら統制を崩していった。
 皆先を争って外に出ようとするがそれが叶う筈が無かった。ダイクの放った炎はあっという間にイルスを飲み込んでいったのだ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 断末魔の叫び声が宮中に響き渡る。
「ヴァーレス スウィスドゥア ヴェトヴェル リィオリ!!」
 同時に、私は展開しつつあった障壁の術を完成させた。幾重にも重なった蒼白い光は天井に達すると拡散して私とダイクのもとに降り注ぐ。
「急げ!!」
 降り注いだ光は頭上で再び拡散し、私達の周りに強力な障壁を作り出していく。
「来るぞ、ダイク!!!」
 術反動によって起こった強力な爆風に私の声は掻き消されていた。同時に、防ぎきれなかった爆風の衝撃波が一気に飛び込んできた。
「うぐっ!!」
 低い唸り声を上げながらその場に倒れこむ。もはやまともに立っている事すら叶わなかった。
 どうやら私の精一杯の力で展開させたこの障壁よりもダイクの展開させた術の方が強力だったらしい。爆風に混じって飛んでくる土砂のせいで前は見えなかったけれど、私はただがむしゃらになってかれの姿を探し求めていた。
「ダイク!!」
 かき消されてしまう事すら厭わずに思い切り叫んだ。
 しかし返事は返ってこない。
「ダイク!!!!」
 半ば自棄になって彼の名を叫ぶ。その瞬間、突き出した手に何かが触れた。
「シ……リア……」
 それは紛れも無くダイクの手だった。傷だらけのそれは痛々しく朱色に染まっている。私はもう片方の手を前に突き出すと、ダイクの身体をぐっと引き寄せた。この場に留まる事すら困難であったけれど、このまま手を離してしまえばダイクがどこかに行ってしまいそうで怖かったのだ。
「ダイク……しっかりしろ………後少しだ…………少しで終わる………」
 握り締めた手に力を入れて叫ぶ。
 ダイクは答える代わりにぎゅっと手を握り返してきた。
「頑張るんだ……」
 その言葉を紡いだ瞬間、風は嘘の様にふっと止んだ。

 安堵の溜息を漏らしながら、ふと視線を横に向けるとぼんやりと天井を見上げるダイクの姿があった。
「大丈夫か……ダイク?」
 出来る限り優しい声でそう呼びかける。それに反応するかのようにゆっくりと瞬きしたダイクは、未だ天井を見つめたまま重々しく口を開いた。
「……済まない」
 虚ろな瞳のダイクは、どこか遠くにいるかのような錯覚をも抱かせた。
 実際、この時のダイクはどこかに行ってしまっていたのかもしれない。それだけに彼が失ったものは大きかったのだから。
「謝ってばかりだな、今日のお前は」
「俺の所為で……何度もおまえに迷惑をかけた。それに……傷つけちまった」
 私は緩慢な動作で起き上がるとダイクの視線の先に無理やり割って入った。
「そうだな。私の小鳥のような心は酷く傷ついたぞ」
 私は口元を緩めると芝居がかった口調で言った。それが気に入らないのか、ダイクは眉間に皺を寄せて不快感を顕にしている。
「……本気で言ってるんだぞ」
「らしくないな。私は気にしていないんだから、お前も気にしなくていいんだよ」
「けじめの問題なんだよ。男としてけじめをつけなきゃならない時だってある」
「女の私には関係のない事だ」
「だから――」
「私に気を使わせたいのか?」
 私は真顔に戻るとそう問いかけた。少し卑怯な戦術だとは思ったが、このまま押し問答を続けるわけにもいかなかった。
「……解ったよ」
 渋々ながら了承したダイクは地面に両手をついて起き上がった。
「それでいいよ」
 私も軽く微笑んで立ちあがる。
 これでいいのだ。私達の間に気兼ねなど必要ない――少なくとも、私はその様な関係でありたいと望むのだから。
「さあ、最後の仕事だ。義務を果たそう」
「ああ、そうだな」
 ズボンをパンパンと叩きながらダイクが答える。
「お前は入り口に不入印を結んでくれ。後続が来ると厄介な事になるからな」
 私は出来うる限りの笑みを浮かべてそう言うと、ダイクの返事を待たずに身を翻した。
 神門に向かって歩き出したと同時に彼の返事が聞こえてくる。その声を愛しむように心の中で抱きしめながら、私は一歩一歩確実に歩みを進めていった。
「……犠牲は私一人でいい」
 指先で空を切り強力な障壁印を結びながら、ダイクに聞こえぬように小さな声で呟いた。
 風を切って歩いていく私の背後では先程結んだ印が仄かに蒼白く光っていく。
「さよなら……ダイク」
 その別れの言葉を合図に術を発動させた。
 蒼白く光る印からは幾重もの光の帯が放たれ、まるで水面のような障壁を形作っていった。
「おい、何をしている!?」
 強力な磁場の発生に気付いたのだろう。明らかにそれと解る動揺を声に乗せながらダイクはこちらに向かって走ってくる。
 しかし私は歩みを止めなかった。
 正確に言えば、止まるわけにはいかなかった、と言うのが正しい所だろう。私は、自分自身に託した想いを叶えなければならなかった 
 自分勝手な我侭に過ぎない事は承知している。
 解っていても譲るわけにはいかないのだ。
「シリア、結界を解け!今すぐに、だ。馬鹿な事は止めろ!!!」
 ダイクが障壁を叩く度に水面のようなそれはぐらりと揺れた。
 しかしながら彼が二度三度叩いた所でどうにかなる代物でない事もまた事実だ。
「お願いだ、俺の話を聞いてくれ!!一度でいい。頼むから、シリア!!」
 懇願するような呼びかけに思わず足を止めてしまう。そして意を決して振り向くと、ダイクの黒い瞳をじっと見つめた。
「神門の封印は私一人でやる。お前はそこにある転移結界を使って逃げろ。封印を解けば何とかなる筈だ」
 ダイクが応じるとは到底思えなかった。しかし、少しでも彼に生き残る機会を与えられればそれでよかったのだ。
 彼は障壁に手を乗せたまま、依然私を睨み付けている。
 その目は硝子の様に透き通っていた。
「いいから、俺を中に入れるんだ!お前を見捨てて逃げるような男だと思ってるのか!?」
 私は頬の筋肉を緩めるとゆっくりと目を閉じた。涙を飲み込むようにぎゅっと瞼に力を入れる。
 そして再び、ゆっくりと目を開いた。
「お前を死なせたら……私はルシアに顔向けできないよ、ダイク」
 そして身を翻す。その瞬間、頬を伝って一筋の涙が零れ落ちた。
「シリア、馬鹿な事を言うな!!俺を中に入れろ、いいから、早く!!」
 ダイクの呼びかけを無視して神門のほうへと歩いていく。
「ヴァーレス スヴィドゥア ヴェトヴェル…………ヴァーレス スヴィスドゥア ヴェトヴェル……混沌を統べる神ロディウスよ。我が盟約神よ。刻は来れり。我が命、汝に還そう」
 神門に刻まれた古代文字が赤く輝く。それは少しずつ宮内に広がり、壁に刻まれた古代文字全てが赤い光を放つようになった。
「我はシェザードの民なり。この魂に刻まれた汝の言葉、今この時より――――」
 その瞬間、神門宮中が眩い光に包まれた。
 私はその意味を理解していた。私の張った結界を打ち消す事の出来る者、それは即ち――
「私は……逃げろと言ったぞ」
 拳をぎゅっと握り締める。
 静かに閉じた目は例えようの無い喜びと、そして確かに苦しみを捉えていた。
「お前一人を死なせるわけにはいかない」
 握り締めた拳にぎゅっと力を入れる。身体はぶるぶると震え、自然と涙が零れ落ちてきた。
「馬鹿野郎……お前はいつだってそうだ………私の気持ちなんて知らずに……一人で…………」
 静寂を切り裂くのは唯一靴の音だけだった。
 それは徐々に近づいてくる。その度に私の身体は微かに震えるのだ。
「……知ってる。シリアの気持ち」
 ふわっと暖かい感触が体を包んだ。
 私を抱きしめるダイクの手はとても大きくて暖かくて――
「嘘だ!お前はいつも……」
「本当だよ。俺もそうだから。ずっと、ずっとそうだったから」
 刻が止まってしまえばいいと思った。
 私達だけのこの刻が永遠に続けばいいと思った。だがそれは決して許されない想い。
「……馬鹿……野郎…………」
「……知ってる。どうしようもない馬鹿だから、ずっと自分の気持ちに嘘ついて、お前に迷惑かけて、傷つけて。それしかできなくて――――」
「――そんな事無い!!……そんな事無いから……だから……」
「ありがとう……シリア」
 ダイクに抱かれる温もりを感じながら私はゆっくりと目を閉じた。
 これは神聖な儀式なのだ、そう思った。
――互いの魂を結びつける永久の契りだと
「もう……残された時間は幾許も無い。終わらせよう――――すべてを」
 抱きしめるダイクの手に一際力がこもる。それを合図に、私達は詠唱を始めた。
「「ヴァーレス スヴィドゥア ヴェトヴェル…………ヴァーレス スヴィスドゥア ヴェトヴェル……混沌を統べる神ロディウスよ。我が盟約神よ。刻は来れり。我が命、汝に還そう。我はシェザードの民なり。この魂に刻まれた汝の言葉、今この時より解き放とうぞ。――リベラ!!!!!!」」
 神門が赤い光に包まれたかと思うと宮全体がぐらりと揺れ出した。
 壁に彫られた神像は大きな音を立てながらぼろぼろと崩れ落ち、天井に向かって大きな皹が走っていく。
「始まった……な」
 抑揚の無い声で呟く。
 答える代わりに、ダイクはぎゅっと身体を抱きしめてくれた。
 私は目を閉じ、頭の中を空っぽにする。このかけがえのない刻にあらゆる雑念は邪魔でしかないから。この魂の結びつきさえ感じていられたなら、他には何もいらないから。
「……ありがとう。ダイク」
 神門宮が大きな音と共に崩壊を始めた瞬間、私はそう囁いた。

to be continued...


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