[flow moon]
対ネットワーク侵入者用迎撃プログラムの俗称。侵入者の神経系統に過剰なトラフィックをかける事によってサージ状態を作り出し、神経信号の伝達を阻害す
る。視覚データの受信にも遅延が生じる為に脳がそれと知覚する"光"は全て残像としてしか認識されない。それがまるで暗闇に浮かぶ月が流れているかのよう
に見える事から"flow
moon"と名づけられた。
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薄暗い部屋の中で、唯一目の前のモニタだけが蒼白い光を放っていた。
安モーテルのネオンのようなそれを見つめながらキーボードに指を滑らせる。カチャカチャという無機質な音が空気を震わせ、モニタの中央に現れた小さなボックスはアステリスクで埋められていく。
機密性を表すプロテクトレヴェルは7段階中の4。従ってセキュリティはそこまで高くない筈だ。そのように高をくくった私は背もたれに身体を委ねると軽くエンターキーを叩いた。
『――接続中…………エラー発生。要求されたタスクは実行できませんでした。』
耳障りなビープ音と共にエラーメッセージが表示される。どうやら想像以上に手の込んだプロテクトが施されていたらしい。このご時世に暇なIPM<情報保護責任者>がいたものだ、そう心の中で吐き捨てながら舌打ちをした。いや……あるいは余程仕事熱心か心配性な人間か?
兎も角も、その様な物はある程度のキャリアを積んだハッカーにとっては付け焼き刃でしかない。そもそも、レヴェル4を受け持つ技術者など所詮その程度でしかないのだから。
「……ご苦労な事ね」
私は溜息混じりにそう呟くと、後ろ髪を掻き揚げて首筋のインプラント端子にネットワークケーブルを接続した。
ネットワーク接続用のプログラムを走らせるのと同時に視界にノイズが混ざり、物理的視覚が切断される。脳をDN(デジタルネットワーク)に接続した事に
よって、視覚中枢がVR(仮想現実)を現実と認識した為だ。そしてVRの骨組みである緑色のワイヤーフレームが暗闇の中を縦横無尽に広がっていったかと思
うと、後を追うようにして次々とテクスチャが貼り付けられていった。
見渡す限り漆黒のモノリスが連なっていた。
至る所でイエローやブルーのライトが点燈し、辛うじて世界の輪郭を浮かび上がらせている。そして地を這うケーブルは蒼白く光り輝き、まるでこの世界に張り巡らされた血管のように見えた。
「……既視感<デジャ・ヴ>」
ふと頭をよぎった言葉を口にする。
VRに潜る度に抱く奇妙な感覚――不安に似たそれはじりじりと身体中を蝕んで行く。しかし他方で、この世界を心地よく感じる自分がいるのもまた事実だった。
遥か昔に……仄暗いこの世界に抱かれていたような気がする。
「ボイスコマンドオン。ノウボット100基を広域展開。シャミッド10基を対象dn-5589の周囲に展開。16ビットのマスクを同対象に適用。」
眼下に広がる人工世界を眺めながら抑揚の無い声で呟く。その瞬間、腕に装着していたP-PDA(Para-PDA)からノウボットとシャミッドが放出された。
ノウボットはなだらかな曲線を描きながら四方に広がっていき、一方のシャミッドは私の周りを取り囲むようにしてグルグルと回っている。両者ともテニス
ボール大の球体で、前者は情報収集に、後者は私の個人データの偽装――つまりハッキングされる側に正常なデータだと認識させる事――に従事する。
『要求されたタスクは正常に実行されました。』
AIの無機質な声を聞きながら視線だけ下に向けた。
眼下には飲みこまれてしまいそうな深い闇が広がっている。その中で薄らと光り輝くライトは幻想的にも異様にも見えた。
私は一つだけ深呼吸をすると、両手を肩の高さにまで上げて爪先立ちになった。そして体の力を抜いてゆっくりと前に倒れていく。
次の瞬間、私の身体は宙を舞っていた。いや、正確には滑空していたと言う方が適当かもしれない。心地よい風を感じながら、ただ回りの景色だけが勢いよく流れて行くように見えた。
その間、頭の中には絶えずノウボットが収集してきたデータが流れ込んでくる。脳にストックされたデータはAIによってマーキングされ、対象――ここではハッキングするデータ――の座標が特定されるのだ。
『発見しました。対象となるデータはX698,Y547,Z68座標軸上に存在します。』
座標の位置を確認すると、私は思いきり右肩を竦めて旋回をはじめた。建物と建物の隙間を通り抜けながら対象となる座標軸に向かって行く。
この瞬間、私は深遠なデジタルの海原を行く魚にでもなったかのような錯覚に襲われる。一瞬でもあらゆる制約から解き放たれたような、そんな気になれるのだ。
『目的座標に到達、これより対象のダウンロードを開始します。』
ダウンロードが開始された事を確認すると、後ろに向きかえって周囲を見回してみた。
ぼんやりと浮かぶ無数の光、地面を這う蒼白いケーブル、データベースの表象としてのモノリス――デジャ・ヴだ、そう呟いた瞬間、AIの冷たい声がダウンロードの終了を告げた。
現実世界に戻ってきた私を待ち構えていたのは酷い倦怠感だった。
ここ数日仕事が詰まっていた所為か、久々のVRは正直かなり身体に堪えていた。
椅子の背もたれに身体を委ねて一つだけ小さな溜息を漏らす。そして頭だけ前に倒して首筋のケーブルを引っこ抜くと、そのまま床に放り投げた。
「よしっ……終わらせましょう」
言い聞かせるように呟きながら緩慢な動作で身体を起こすと、再びモニタに向かった。
まずはハッキングツールを動かしていたCUIモードを終了させて通常のGUIに復帰させる。そして先程のデータを呼び出し、一部の領域を残して最高位のセキュリティを施す。後はライティングツールに丸投げしてDD<デジタルディスク>へ書きこませればいい。
『書きこみ処理中......13%.............49%.........65%.....................
80%.........100%。ログデータの作成を開始。1%......62%......100%。DDへの書きこみは正常に終了しました。』
ビープ音と共にDDドライブが開く。私は中からディスクを取り出すと金属製のケースにしまい、そのまま脇のダストシュートの中に放りこんだ。
このダストシュートは直接外と繋がっている。つまりは外にいる依頼人がシュートから落ちてきたディスクを受け取るという寸法だ。モニタの右下についているボタンを押せば外の映像と音声が拾えるようにもなっている。
「終わったわ。一部のセクタを開放しているから中身を確認して、それから送金して頂戴。入金が確認されたら残りのセクタにアクセスするパスコードを渡す。」
突然聞こえてきた声に驚いたのか、男はビクッと肩を震わせると、おどおどしながらディスクを拾い上げ、携帯端末に読みこませた。そして暫くの間端末を覗き込んでいたかと思うと、突然カメラに顔を向けてニヤリと気味の悪い笑みを浮かべてみせた。
「確認した。今から送金する。」
直後、机の上に置いていたPDAのモニタがボウッと光って、1万5000ドルの入金を知らせるメッセージが表示される。
「オーケー。入金を確認したわ。パスコードはksjhf54624よ。」
「へへっ……助かった。いや、ホントあんたには感謝するよ。お陰で貴重なデータが手に入ったからな。」
顔を綻ばせた男は依然カメラに向かって気味の悪い笑顔を振りまいている。
素人か――そう心の中で呟いた。
妙におどおどした挙動が目立つし、パスコードを手に入れたらすぐに立ち去って行くのが常だ。
犯罪現場にいつまでも留まっているメリットなどどこにも無い。
「いえ、いいのよ。これが私の仕事だからね。」
溜息混じりにそう返すとモニタの画面を切り替えた。そして身体の力を抜いてゆっくりと目を閉じる。
あの男、この世界では生きていけないだろう。あまりに詰めが甘すぎる。
私達情報屋の仕事はデスクワークのそれに近いのかもしれないが、危険が伴うと言う点でそれとは一線を画する。それ故にここで言う「生きていけない」とは文字通り死を意味するのだ。
私は情報の中身には干渉しないし、あの男がどのようにしてそれを使うかにも興味は無い。
だがきっとろくな死に方はしないだろうと、確信めいた何かを感じていた。
何時の間にかうとうとしていたらしい。
来客を知らせるブザーに目を覚ますと、モニタの画像は監視カメラに切り替わっていた。やや青みがかった解像度の低い画面の中にはよく見知った男が映っている。
ラウ・ユンファ――この男の名前だ。
私と同じく22歳。やたらと童顔で、ソフトモヒカンの金髪にラフなジャケットを羽織った姿はまるでゲームか何かにでてくるキャラクターのようだ。もしかしたら実際に真似をしているのかもしれないが。
本人曰く中国系アメリカ人だそうで、それが幼く見える一因かもしれなかった。
「誰?」
まずは声紋を確認する。ハッカーという職業上セキュリティに抜かりは無い。
「ラウ・ユンファ。見りゃ解るだろ?」
スピーカーから不機嫌そうな声が返ってくる。
だが私にとっては命に関わる問題だ。おいそれと扉を開けるわけにはいかない。
声紋が彼の物である事を確認すると、次はスキャニングシステムを稼働させた。モニタ上にワイヤーフレーム化された建物の図面が表示され、それに熱センサー・動体センサー・ウェポンセンサーが拾ってきたデータを重ね合わせる。熱放射体、動体は共に一体。武器反応は無し。
「そこの機械に顎を乗せて。」
次はアイスキャンだ。虹彩のパターンを解析して以前のそれと重ね合わせる。
ピピッ、という鋭い音が響いたかと思うと、モニタの中央に『ラウ・ユンファの虹彩データと一致』と表示された。
「オーケー、入っていいわよ。」
玄関のロックを解除して明かりをつけると同時に、勢いよくドアが開け放たれる。
肩を使いながらずかずかと部屋の中に乗り込んできたラウは、あからさまに不満を顔に出しながら私を睨み付けてきた。
「お前な、シリア、俺の顔忘れたわけ?あんな面倒臭ぇセキュリティかけやがって!」
再びドアをロックした私は、少し微笑みながら彼の胸を小突いてやった。
やたらとぶ厚い胸板に拳がぶつかる。実際に見た事は無いが、結構鍛えているのかもしれない。
「勘弁してよ。ドア開けたら殺されました、なんて洒落にならないわ。それにいつもの事でしょうに。……ヤケにつっかかってくるわね、今日は。」
「あのモニターで見てたんだろ?だったら俺だって解るじゃねえか!」
彼が指差した先には、モデリングされた建物と防犯カメラの映像が映し出されたモニタがあった。
確かに彼が言っている事も一理ある。だが、人間の外面を偽装する事など容易だし、職業上用心してしすぎるという事は無い。
「そうかしら?ジェイドクラスのアンドロイドなら貴方の容姿を真似するくらい簡単よ。」
ジェイドとは最近開発された汎用アンドロイドの一種だ。筋肉と表皮の一部に可変性ポリマーを採用しているので自由に外見を変える事が出来る。どちらかというとイリーガルなカスタマイズをされてアンダーグラウンドに流される場合が多いようだ。
自分の顔貌をしたアンドロイドを想像したのだろうか、彼は眉を顰めて気味の悪そうな顔をしている。
「チッ……解った、わかりましたよ」
そう言いながら大げさに肩を竦めてみせる。そして未だ腑に落ちないといった面持ちのまま、近くのソファーにどすんと腰掛けた。
「……それで?」
「それで?」
「何か用があって来たんでしょ。何なの?」
半ば呆れ気味にそう訊ねると、彼は肩を大きく上下させながら深く溜息を吐いてみせた。
「用が無かったら来ちゃいけねぇのかよ?」
拗ねた子供のような顔をするラウ。こういう時の彼は妙に可愛らしく見える。
尤も、本人の前では口が裂けても言えないが。
「そんな事言ってないでしょ?最近顔を見せなかったからどうしたのかなって思っただけよ。」
溜息混じりにそう答える。
彼は一瞬だけ私から視線を外すと、ソファに深く身体を沈めてみせた。
「それはこっちのセリフ。どうせお前の事だから一日中パソコンと睨めっこして終いにゃ倒れてるんじゃないかって、心配してわざわざ様子を見に来てやったんじゃねぇか。それを『何か用?』なんて随分だよな。」
「へぇ……私の事、心配してくれたワケ?」
「ふんっ、どうせ信じてないクセに。」
そう言うと彼は露骨に頬を膨らませてみせた。どうやら私の言葉が気に障ったらしい。別に他意は無かったのだが、こちらが折れた方が得策だろうと、そう思った。
拗ねた彼は子供よりもタチが悪い。
「悪かったわよ。心配してくれてたなんて思いもしなかったから。」
「じゃ、デート一回。」
「何?」
「悪かったと思ってるんだろ?だったらお詫びに付き合ってくれたっていいじゃねぇか。」
何だかうまい具合にはめられたような気がするが……まあ仕方がない。このままグチグチと文句を言われ続けるよりかはマシだろう。
「……はいはい、解ったわよ。わかりました。」
「へへっ、そうこなくっちゃな!!」
まるで先程までの膨れっ面が嘘のように、彼は顔中に満面の笑みを浮かべると指をパチンと鳴らしてみせた。
正直を言うと、あまり街に出るのは気乗りしなかった。
強引に誘われたから、というわけではない。この街の持つ独特の雰囲気が肌にあわないのだ。
空気中を漂う塵の所為で太陽の光は遮られ、モノトーンの色彩に染まった街は酷く冷たい印象を与えた。
加えて、経済破綻に端を発した事実上の無政府状態によって荒廃は一気に加速し、社会は統制を失った暴走電車のような状態だった。ドラッグ、酒、暴力の横行――
一昔前の映画に描かれていたような未来像が現実の物となったわけだ。
しかしそのようなものは取って付けた理由でしかない。
私が真に目を覆いたくなるものとは……
「ほら、あんまり近寄ってくるなって。何にもねぇんだから。」
人通りの少ない裏路地に入った瞬間、私達は4人の子供達に囲まれていた。
ボロボロの服を身にまとい、長い間風呂に入っていないのだろう、酷く肌の黒ずんだ彼らは私達の服を引っ張りながら異口同音に「金をくれ」と呟いている。その目からは生気が失われ、声も酷く擦れていた。
「ああもうっ!離せって言ってんだろうが!!」
私が口を開こうとした瞬間、ラウは思いきり右手を振ると彼にしがみついていた子供を突き飛ばした。
酷くやせ細った身体が勢いよく地面に叩きつけられる。
「ラウッ!!!」
私は無意識のうちに叫んでいた。
シニカルではあるが普段温厚な私が声を荒げた事に余程驚いたのだろう。彼はビクッと身体を震わせると、振り落とした拳を所在なさげにぶらつかせていた。
私はそんな彼の横を無言で通り過ぎて行くと、地面に倒れていた子供を抱き起こして、服についた泥を払ってやった。
「ごめんなさいね。大丈夫?」
頬に優しく触れながらそう訊ねる。その子は一瞬戸惑いの表情を見せたが、やがてか細い声で「うん」と答えてくれた。
「これで食べ物でも買いなさい。」
そう言いながら財布から10ドル札を4枚取り出すと、そのまま地面に置いた。
子供達は微動だにせず、ただ私を凝視している。きっと下手に動くとあの怖いお兄ちゃんに殴られると、そう思っているのだろう。
「ラウ、行くわよ。」
私は後ろに振りかえると、抑揚の無い声でそう言った。
「あ……ああ、そうだな」
彼は未だに戸惑いの色を隠せずにいるようだった。チラチラとこちらを見ながら私の顔色を窺っている。
私は微かに口元を緩ませると、そのまま身体を翻して歩きだした。
背後からは金に飛びついていく子供達の足音が聞こえて来る。
その音を聞きながら、ここまで感情的な自分を他人に見せたのは久しぶりだな、等と考えていた。
暫く歩いて行った後、私達が辿りついたのは一軒の古びたバーだった。
褪せた鶯色の看板には何か書かれているようだったが、酷く擦れている為に読む事はできない。
看板と同様に年季の入った扉を開くと、涼しげなベルの音が私達を迎えてくれた。内装のモチーフは『古き良き時代のアメリカ』といった所か。質素な木造の装いがノスタルジーを感じさせた。
一方、私とは対照的なラウは周囲に一切目をくれる事無くカウンターに向かって歩いていく。
そしてマスターに向かって手をひらひらと振ると、ズボンのポケットから札を何枚か取り出してカウンターの上に置いた。
「親父っさん、いつものヤツね。」
そう言うと、マスターは後ろの棚から白い箱のような物を取り出してラウに手渡した。
「毎度」
抑揚のないマスターの声が響き渡る。
ラウは受け取った箱をポケットに忍び込ませると、そのままカウンターに背を向けて歩き出した。
「さあ、行くぞ。」
酒場に来て酒も飲まずに帰るのは変な話だ、と思いながらも彼に従う。
そしてバーを後にした彼は、来た道とは別の薄暗い路地に入っていった。
ずんずんと前を進んでいくラウのジャケットを掴んで強引に引き止める。
「さっきのは何?」
暫く黙り込んでいた彼だったが、不意に振り返ったかと思うと、先程の白い箱を取り出してみせた。
側面を押すとマッチ箱のように内箱が姿をあらわす。暗くてよく見えなかったが、どうやら中に入っていたのは青い液体で満たされた小さなエアーインジェクターだった。
「……ブルーダイア」
無意識のうちにその単語が口をついて出ていた。
ブルーダイアモンド――通称ブルーダイア。メタンフェタミンを主成分に向神経薬や数種の薬物がブレンドされた新種の覚醒剤だ。常習性は高いが、幻覚等の症状が現れにくいので爆発的に広まっているらしい。
「よく解ったな。」
妙に涼しげな顔をした彼が口を開く。
「ドラッグに手を出していたの?」
「誰もがやってる。ほら、そんなに怖い顔するなって。せっかくの美人が台無しだぜ?」
薄っぺらい言葉を聞きながら、心の中に言い知れない苛立ちが募って行くのを感じていた。ドラッグに対する嫌悪ではない、恐らく彼自身に対する幻滅、失望……そして軽蔑――その全てが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「そうだ、お前もやってみろよ。あんな辛気臭ぇ部屋に閉じこもってパソコンばっかいじってないでさ、コレでもやって一緒に――」
「――見損なわないで!!」
気がつくと差し出された手を叩いていた。
その反動でインジェクターが地面に転がり落ちる。
彼の視線がそれに移った瞬間、私は身体を翻して逃げ出そうとした。
「何が違うってんだよ?お前だってVRに……」
彼の手が私を捕らえる。しかしそれも一瞬だった。
反射的に手を上げてしまったのだ。打ち所が悪かったのか、短い唸り声をあげた彼は大きな音と共にその場へと倒れこんでいく。
私は地面で身悶える彼を一瞥すると、歯を噛み締めながら身体を翻した。
家に帰って来た私は、机の引出しの中からEXILEと書かれたディスクを取り出すとそれをDDドライブに挿入した。
大手ソフトウェアメーカー、エグザイル社――その強固なセキュリティ故に今まで躊躇していた案件だ。
基礎、多角解析は共に終了。プロテクトレベルは7+。未知のセキュリティ・ホールは2つ。対象は同社の最高機密である"FC300"。
成功すれば破格の報酬が、失敗すれば限りなく死に近付く事になる。
「………………」
認めたくはないが、どうやら私はラウに対して友人以上の感情を抱いていたらしい。
それを最も凄惨な方法でぶち壊された今、取るべき道は一つしか無いように思えた。
私はパソコンをCUIモードで起動させると、ディスクから予め書いておいた接続プログラムを読みこんだ。
直接エグザイル社のネットワークに繋ぐと痕跡が残るので、マスクをかけた上で複数のネットワークのセキュリティホールを経由して行く。その際に出来得る
限り多くのシャミッドを投入、時間稼ぎに使う。同時にノウボットでFC300のデータを収集、詳細な座標を割り出す。データのダウンロードが終了したら少
々のシャミッドを隠蔽用に残して、セキュリティホール経由でDNから抜ける。それが私のプランだ。
「――還りましょう、あの場所へ」
そう呟くと、床に転がっていたケーブルをインプラントに接続した。
目の前に広がっていたのは文字通りエグザイルのネットワークだった。
中央には巨大な主幹システム――ダイダロス――が鎮座し、その頂きから末端システムに向かって蒼白く光るネットワークケーブルが数限りなく連なっている。
空には監視用ノウボットが無数に浮かびあがり、仄暗い闇の中で妖しく光り輝いていた。
まるで陽炎のようだ――ダイダロスの頂きから眼下に広がる世界を見つめながら、ふとそのような事を思った。
『ノウボット配置完了。現在生存しているシャミッドは8基です。』
抑揚の無いAIの声が頭の中に響き渡る。
酷く冷たいその声を聞きながら、私は深遠なるデジタルの海へとダイブしていった。
周りの景色が、まるでスローモーションでもかけられたかのようにゆっくりと流れて行く。
闇の中に数え切れない程のノウボットが現れては消えて行き、私の瞳はいつまでもその残像を映し出していた。
飛魄<ひはく>だ。ぼんやりと浮かぶ光を眺めながら、ふとそのような単語が頭をよぎる。
人の手によって作られた世界の中で、行き場を無くした魂はどこに行くのだろう?
そして私は、どこに向かっているのだろう?
いつも先送りしていた疑問を頭の中で反芻する。その度に不安に似た何かが膨らんでいくような気がした。
私がVRに求めている物。
ラウがブルーダイアに求めている物。
もしかしたら、その間に隔たりなど無いのかもしれない。
ただあるのは……現実から逃避しようとする心の弱さ。
背中の辺りにピリピリと冷たい痛みが走る。そして目の前で監視用のノウボットがシャミッドに接触したかと思うと、次の瞬間には眩い光を放ちながら両者とも炸裂していた。
『エマージェンシー。セキュリティガーディアン及び対侵入者用ノウボットの起動を感知。3分以内にシャミッドは消滅する公算です。』
けたたましい警報と共にAIのエマージェンシーコールが頭の中に響き渡る。
気がつくと大量のノウボットに取り囲まれ、一瞬のうちに大量のアクセスを受けたシャミッドは過負荷の影響で放電を始めていた。
同時に、情報収集用のノウボットからはリクエスト拒否のエラーメッセージが矢継ぎ早に返ってくる。
どうやらセキュリティシステムへの侵入がバレたらしかった。
舌打ちをしながらP-PDAに手を伸ばす。その瞬間、錘でもつけられたかのような妙な違和感が身体中を駆け巡っていった。
思考と動作の間にタイムラグが生じている事は明らかだった。
「……フロウムーン」
現れては消えていく無数の光を見つめながらその名を呟いていた。
flow moon――侵入者の神経ネットワークに過剰なトラフィックをかけて動作を封じるトラップの名を。
――パシュッ
次いで、私の周りを飛んでいたシャミッドの一つが炸裂する。
『シャミッドが破壊されました。残りのシャミッドは6つ。すべて破壊された時点で――』
「煩い!NIRを使ってガーディアンのコアシステムに接続して、早く!!」
『接続中……リクエストは拒否されました。』
――パシュッ
「チッ……このままじゃ持たないわ。仕方ない。近い方のゲートを開放して。ネットワークから離脱するのよ!」
『了解しました。ドグマを発動、座標689.113.58に接続します。』
――パシュッ
『セキュリティガーディアンに接触。パーソナルデータへのアクセスが試行されています。個体ルールへのクラッキングを確認。データ損壊率0.1%……0.3%……』
身体中に鋭い痛みが走る。
四肢の統制は既に失われ、私はただ朦朧と犯されていく自分を見ている事しか出来なかった。
――パシュッ
『残存しているシャミッドは4基。データ損壊率は0.63%。1分以内に何らかのアクションが取られなかった場合、神経系統に致命的な障害が発生します。』
――パシュッ
『警……告……何者か……に……侵入を…………』
――パシュッ
その瞬間、思考は完全に闇へと飲み込まれていった。
意識を取り戻した瞬間、大量の空気が肺に流れ込んできた。
喉の奥で空気が詰まって、うまい具合に息を吐き出す事が出来ない。胸の辺りが痙攣をはじめて上半身がガタガタと震えていく。そして一瞬だけ意識が遠のいたかと思うと、私の身体は床に叩きつけられていた。
「あ……ぐ……うぐ…………」
朦朧とした意識の中でただ我武者羅に手を振り回していた。
塵箱に当たったのだろうか、鈍い音と共に紙くずが散乱する。その中に薄茶色の紙袋を見つけた私はひったくるようにして掴み取ると、それを口に押し当てた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ…………はぁっ……」
少しずつ肺が空気に満たされていく。そしてぼんやりと宙を見つめながら、先程までの記憶を手繰り寄せていた。
ダイダロス、ガーディアン、シャミッド……頭の中ではVR内での記憶が錯綜していた。
「私は……」
その瞬間、背後から聞こえてきた物音に言葉を切る。そして引出しの下に張りつけておいた銃を引き剥がして音の主に向けた。
「ま……待てっ、俺だ!撃つな!!」
声の主は紛れもなくラウだった。
両手を上げた彼は険しい顔つきで私を睨み付けている。
「セ……セキュリティ……セキュリティシステムは?」
何とか絞り出した声は酷く擦れ、自分でもそれが私の物であるかさえ疑わしく思えるものだった。
「知るかよ。でもドアのロックは開いてたぜ?」
「ロックが?」
「ああ、開いてた。」
あの時の私はそれ程までに取り乱していたという事だろう。セキュリティをかけ忘れるなんて普段ではあり得ない事だった。
「何?」
ふと視線を上げると、彼は未だに私の顔をじっと見つめていた。
恨み言の一つでも言いたいのかと思って、先手を取るように冷たく言い放った。
「鼻血が出てる。」
彼は呆れかえったような口調で呟くと、溜息を漏らしながら私から視線を外した。
訝しく思いながら右手で鼻をこすると、べっとりとした赤黒い液体が指についていた。
「洗面所に行って来るわ。」
緩慢な動作で起き上がると、彼の返事を待たずに洗面所に向かって歩き出す。
「……無茶しやがって」
部屋を出ようとした瞬間、背後から冷たい声が聞こえてきた。
逃げるようにして洗面所に入っていった私は、ただ一心不乱に顔を洗っていた。
バシャバシャと音をたてながら顔に冷たい水を浴びせ掛ける。
酷く呼吸が乱れていた。
冬の水は冷たく、真っ赤になった手は熱を持っているかのようにじんじんと痛んだ。
「くそっ……」
洗面台についた右手で体を支え、両肩を激しく上下させながら悪態をつく。そして顔を上げて鏡を見た瞬間、私はハッと息を呑んだ。
目の下にはくっきりと隈が浮かび上がり、青白く疲れ果てた顔をした私がそこには映っていた。
水に濡れたシルバーのショートヘアーはまるで白髪のように額にはりつき、ブルーの瞳は完全に生気を失っている。
胸の中には、ただ限りない絶望と焦燥だけがあった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、パソコンのモニタを凝視していたラウは反射的に私の方へ顔を向けてきた。
怒りと非難に染まったその目は、私を凝視したまま微動だにしない。
「エグザイル…………何やってんだ、お前は」
抑揚のない低い声が空気を震わせる。
緊張を孕んだその声を聞いた瞬間、背筋に冷たい何かが走っていったような気がした。
「仕事に決まってるでしょ。他に何があるの?」
私は彼から視線を逸らすと、あからさまにそれと解る虚勢をはってみせる。
「いい加減気付いたらどうだよ。お前だって俺と同じさ。所詮は現実から逃げているだけだ。それとも何か?善人ぶって俺を糾弾するのか?」
「ハッ……私は情報によって現実を操る術を得た。貴方みたいに現実に支配されている弱い人間とは違うわ。」
「んだとっ?!」
「解らないの?貴方は決して醒める事の無い夢を見ているだけ。終焉の刻<とき>が訪れる事など信じもしない……ただの愚か者だわ。どうせ最後は錯乱しながら野垂れ死んでいくだけでしょ!!」
その瞬間、歯を剥き出したラウは獣のような形相で私を睨み付けてきた。そして太い指で私の喉を鷲掴みする。
「……このまま握りつぶしてもいいんだぞ。俺よりも先に終焉の刻とやらを拝んでみるか?」
彼の指にいっそう力が入る。まるでそこに心臓でもあるかのように、圧迫された喉はドクドクと勢いよく脈打っていた。
朦朧とした意識を何とか呼び止めながら、大きく目を見開いて彼を睨み付ける。そして声が擦れる事さえ厭わずに思いきり叫んでやった。
「好きにしなさい。死ぬのが怖いなら一緒に付き合ってやるわよ!!」
彼の指からフッと力が抜けたかと思うと、勢いよく地面に叩きつけられる。
「クソッ……勝手にしろっ!!」
身体中を襲う鈍い痛みを感じながら顔だけあげると、そこにはドアに向かって歩いていく彼の姿があった。
そしてノブに触れた瞬間、彼はゆっくりと後ろに向きかえった。
「……お前も逃げられないぞ」
獣の咆哮のような彼の声が、いつまでも耳について離れなかった。
何時の間にか降り出した雪は地面を薄らと白く染めていた。
穢れた町を浄化するように真っ白な雪はしんしんと降り積もっていく。
悴んだ手でコートの襟を口元まで引き上げると、ゆっくりと息を吐出した。
目の前が一瞬だけ白く染まる。そして霞が晴れた瞬間、私は視線の先にある者の姿を認めた。
両手をだらしなくぶら下げた彼は、薄汚れた壁を背にして地面に座り込んでいた。身体には薄らと雪が積もり、地面は微かに青く染まっている。そしてその肌はまるで薄化粧でもしたかのように白く透き通って見えた。
私は口元に当てていた両手を下げると、ゆっくりと彼に向かって歩いていった。
他に誰もいない裏路地の中に私の足音だけがただ冷たく木魂する。
「……ラウ」
空しい呼びかけは、ただ吐出した白い息の如く空気に飲み込まれていく。
私はその場に片膝をつくと、ゆっくりと彼の頬に手を触れた。氷のような鋭い冷たさが肌ごしに伝わってくる。
彼は逝ってしまったのだな――頭の中では妙に冷静な自分がそう呟いていた。
もしかしたらこの寒さに心すら凍りついていたのかもしれない。
微かに残っていた感情を仕舞い込むかのように目を閉じると、一人旅立っていった彼と唇を重ねた。 |
fin
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