hazy sphere

 少しだけ開いたブラインドの隙間からはオレンジ色の光が差し込んできていた。
 もうそんな時間か、と思いながら机の隅に置いた時計にちらっと目をやる。ありふれた3D時計。水晶の形をしたモニターの中には“4:30”という数字がヒラヒラと意味もなく漂っている。いつかこれをくれた友人は「飾りにもなるから」などと笑いながら言っていたが、どうも時間がグルグルと回っているようで落ち着かない。それなのにわざわざ飾っている自分はお人好しというか、ある意味では滑稽というか。きっと他の人がくれていたならば即座に捨てていただろう。大切なのは「何を貰ったか」ではなくて「誰に貰ったか」なのだ。
 ともあれ、些かの疲労を吐き出すように一つだけ溜息をつくと、先程までまとめていたファイルを閉じてからパソコンをログオフした。デスクトップからパッパッとアイコンが消えていって、ブルーバックの中央に砂時計が現れる。何となく嫌な絵だ。いつもよりもログオフに時間がかかるのも気に入らない。
 些細な事で神経を尖らせるのは疲れている証拠だ、そんな風に言い聞かせると思い切り背伸びをして椅子にもたれ掛かった。ギギィと耳障りな音を立てながら背もたれが傾いて、そのまま手をだらんとぶら下げた私はゆっくりと目を閉じた。
 仕事をしている時には気にならなかったけれど、こうしていると結構きついたばこの臭いが鼻についた。その臭いと共に嫌な記憶が頭をもたげてくる。女というものは何かを記憶する時に身近にあるモノと結びつけて覚えようとするらしいが、私の場合もご多分に漏れないらしい。何も考えずに記憶をどんどん放り込んでいく男達がよく約束や記念日を忘れるのも頷ける話だ。ともかく、今私の不快な記憶の中で満面の笑みを浮かべているのはレスター・クラレンスという男だった。一時過ぎだったか、新規プロジェクトの打ち合わせ、等と適当な言い訳をつけてやってきたその男は、私の許可も得ずにたばこに火をつけて−−私の部屋に灰皿はないから、わざわざ携帯用の灰皿を持ってきていたのだ−−プロジェクトのプの字も出す事なく延々とつまらない話をし続けた。自分が半年もの間推進してきたプロジェクトが潰された事。どうも社長が娘と自分の仲を疑っているらしいという事。既婚者である自分が社長の娘と不倫関係にあるという無責任な噂が流れたら首にされかねないという事。この男を見ていると管理職とはこんなにも暇な職業であったかと思ってしまう。しかしまあ上司である以上むげに追い返すわけにもいかず、結局満足がいくまで話してお帰りになったというわけだ。私に好意を抱いているのかどうかなど知る由もないが、話を聞いて貰いたければそういう店にでも行けと言いたくなってくる。

 五分位ぐったりと椅子にもたれ掛かっていて、このままでは本当に寝てしまうと思ったのでゆっくりと起きあがった。仕事も片づいたし、しばらくそうしていた気もしたけれど、どうせ休むなら家の方が良いだろうと思った。私にはそれなりの地位と権限もある。だから仕事さえきちんとこなしていれば、問題を起こさない限り何をしても文句は言われない。それでも、周りで部下が四苦八苦しながら働いている事を思うと何となく罪悪感を抱かずにはいられなかった。
 取り敢えずソフィアに帰る事を告げておこう、そう思って隣の秘書室に内線を繋げた。
「リフィアです」
「私よ。今日はこれであがるから後は頼むわね」
「解りました。お疲れ様です」
「お疲れ様」と返して電話を切った。それからゆっくりと背伸びをして、椅子にかけていた紺色のブレザーを手に取った。ずっと背中にあたっていたせいで少しだけ形が崩れている。クローゼットにしまっておけばよい話なのだが、どうも面倒くさくて椅子にかけてしまうのだ。取り敢えず二三度叩いておけば大丈夫だろう。少ししわの残ったスーツを羽織ると、ショルダーバッグを肩にかけて部屋を後にした。

 私のオフィスは六階の一番端にある。そこを出たすぐ左側に秘書室があって、あと20メートル近くある廊下の左右を埋めているのはワークステーションだ。このエリアでは特に情報管理を徹底しているのでセキュリティーも半端ではない。メタリックカラーの分厚い扉の先に進む為には幾つもの認証を必要とする。IDカード、静脈パターンや光彩などの生体データのチェックだ。それらを全て完了させてようやく部屋の中に入る事が出来るわけだが、その部屋というのも窓一つ無いコンピュータに管理されたものに違いないのだ。私の部屋には窓もどきがあるが、それも一種のホログラムに過ぎない。詰まる所、この空間自体が無機質な人工物の固まりなのである。目の前に広がる大理石造りの床も、壁も、天井も、それらは美しいものに違いないが、一様に酷く冷たい印象をも与える。
 私は未だかつてこの廊下を誰かが歩いているのを見た事がない。ただこうやって一人で歩いていると、壁に反響する靴の音や床に映し出された照明の光が酷く白々しく感じられた。
 長い廊下の突き当たりまで来るとエレベーターのスイッチを押した。階数表示が1、3、4、5、6と次々に切り替わっていって、音もなくすぅっと扉が開く。中には小さいパネルが一つあるだけで他に装飾らしい装飾もない。
 私はパネル横のカードリーダーにIDカードを入れると、赤く点灯した"R"というボタンを思い切り押した。少しだけ間をおいてエレベーターが上昇をはじめ、僅かばかりのGが身体にのし掛かってきた。
 それから一分くらい経っただろうか。階数表示が"R"に切り替わった直後に扉はすぅっと開いた。

 目の前の長い廊下を照らしていたのは薄暗い照明だけだった。所々電球が切れかかっているらしく、耳障りな高周波の音を立てながら点滅しているものもあった。
 6階とは打って変わった貧相な造りの廊下。ただどこか親しみを感じてしまうのだから、人間の心というものは不思議なものだ。世の中に古物収集家などという人種がいるのも頷ける話なのかもしれない。いや、私もそうなのかもしれないと、突き当たりまで来た所でそう思った。
 目の前にはこのビルに似つかわしくない古びた扉があった。
 動力で開くわけでもない、旧時代の遺物とでも言うべきそれは安っぽい鉄板を貼り付けただけのお粗末な造りであり、至る所に錆がまわっていた。左中央には茶色く変色したドアノブがついている。
 胸が高まっていた。幼い頃冒険ごっこをしていた時に抱いていたのと同じような感覚。遠い記憶をたぐり寄せてみると、私はその先にある何かに期待していて、その反面で恐れを抱いていた。その感覚にどこか酔いしれていた。
 過去と現在が入り交じったような奇妙な感覚を抱きながら、ごくりと唾を飲み込んだ私はゆっくりとノブをひねった。
 ギギギィと鉄が悲鳴を上げるような音と共に、暗い廊下に一筋の光が差し込んでくる。その光に乗って、久しく感じた事の無かった冷たい風の感触が優しく肌を撫でた。
 まばらに雲の混じったオレンジ色の空、遙か地平線の彼方に沈みゆく夕日、陽の光を受けてキラキラと光る無数のビルの群れ−−そこには私の望む全てがあった。ビルの下から見る切り取られた空ではない、無限に広がるこの空という空間が。如何に人間が進化しようとも決して侵す事の出来ないこの広大な大空が。手を伸ばせばこの空と一つになれるのではないかと、そんな錯覚すら抱いてしまう。
「シェリル?珍しいな、お前がここに来るなんて」
 不意に呼びかけられてハッと我に返った。
 屋上への進入は原則禁止されているから、ここに誰かがいるとは思いもしなかったのだ。実を言ってしまえばこの私も立派に規則違反をしているわけだが。立場上それでお咎めがあるというわけでもないので、こうしてたまに時間が出来たら来ているわけだ。ともかくも、訝しく思いながら声のした方に視線を向けて見ると良く見知った男が一人、灰色のコンクリートの上に寝そべっていた。
「ログ、こんな所で何をしているの?」
 彼は気だるそうに上体を起こすと、私の顔をじっと見つめた。今まで彼が寝そべっていたコンクリートは微かに色が濃くなっている。
「それはこっちの台詞。屋上に上がるのは規則違反だぜ? いいのかよ、エリートさんがそんなことして」
「エリートだからいいのよ。規則というのは無能な社員を切り捨てる口実に過ぎないわ」
 それは普段部下に対して使うような淡々とした冷たい口調だった。私にそんな言葉を使わせた原因が自分であるにも関わらず、そんな態度が気にくわないのか、彼は口を尖らせてぷいと私から顔を背けてしまった。
「悪かったな。無能社員で」
 彼は時々子供のように拗ねる事があった。まあ外見からして童顔だというのもあるのだけれど、それとは対照的に普段は案外男気のある奴なのだ。だからたまに見せるそういう姿は可愛らしいと言えばそう言えない事もない。もっとも、そんな風に思われている事など露も知らない当人はわざとらしい溜息をつくと再びごろんと寝転がってしまった。
 こうしているといつまでも拗ねたままなので、しかたなしに私から話題を振る事にした。もっとも、内容からしてみれば「話題を振る」などとは随分と穏やかな言い方であったが。
「そうだ、貴方に話があったのよ。ここで会えて良かったわ」
「話?」
「これ、何だか解る?」
 鞄から取り出したミニディスクをヒラヒラさせながら口元に微笑を浮かべてみせた。
「ん…」と腹の底から絞り出したような声を漏らしながら顔だけこちらにむける彼。「んなもん解るわけねぇだろう」と言い出さんばかりに口をへの字に曲げている。
 勿体ぶるようにディスクの表裏をじっと見つめてから彼の方に投げてやった。透明なプラスティックに覆われたディスクは夕日を浴びてキラキラ輝きながら腹の上に着地した。それから私がしたように表裏を確認して、何もラベルも無い事を確認した彼はズボンのポケットから取り出した携帯端末にディスクを挿入した。
 端末がディスクを読み取る音が騒音のように響き渡る。無表情のまま画面にかじりつく彼を見ながら、ここに機械は似つかわしくないな、とぼんやり考えていた。
「お前が見つけたのか?」
 しばらくして端末をおろした彼はばつが悪そうに口を開いた。それはそうだろう。彼ならばデータを見た瞬間にその意味を悟った筈なのだから。
「私はセキュリティの責任者よ。忘れた?」
「別に……言い訳はしないさ」
 開き直ったにしては随分重いトーンの声でぼそぼそと呟いて、その後逃げるようにして顔を横に向けてしまった。肌にはじっとりと汗が浮かび上がって、髪の毛は濡れ烏のように鈍い光沢を放ちながら、額にべっとりとはりついていた。
「今年の初めころからレベル4区画への不正アクセスが頻繁に行われていた。ただしトレースに必要な情報はほんの僅かな断片でさえも残されてはいなかった」
「…………」
「しかし今回は違った。私は残されたデータを一つ一つ丁寧に集め、慎重に組み立てていった。そしてそこに一つのサインを見つけた。その瞬間強い好奇心にとらわれたのよ。何故? 貴方なら完璧に痕跡を消す事が出来た。確かに並の人間なら見落としていたでしょう。そしてそれは十分にあり得た。でも敢えてそのようなリスクを冒す理由などどこにあるの? 私にはあなたがそれを欲していたようにすら思えるのよ」
「報告しろよ。それで終わりだろ?」
「そのつもりはないわ」
「ふふっ……自分で何を言っているか解っているのか? 俺の方こそ訊きたもんだ。何故俺を庇う? 会社にとってもかなりの損害になるはずだぜ?」
「質問に質問で答えるつもり? まあいいわ。まず第一に私の利害は必ずしも会社のそれとは一致しない。これで会社が潰れてしまうのならば考えものだけれども、盗まれたデータを見る限りではそこまで被害は大きくないでしょ。それに表のルートに流すとは考えられないし。という事は私以外の誰もその事実を知る事は無い」
「もう一つは?」
「フフッ……いなくなったら目覚めが悪いからね」
「そりゃありがたい事で」
 彼はそう言うと微かに笑ってみせた。私の意図を正確に汲んだかどうかは疑問だけれど、それはさして重要ではなかったのだ。
 ゆっくりと起きあがった彼は私に背を向けて屋上の端へと歩いていった。その様子を見守りながら、私の心の中にはある種の期待と恐怖が芽生えつつあった。それはずっと欲しかったものを手に入れられる期待と、その期待を二度と感じる事は出来ないのではないかという恐怖だったのではないだろうか。
「誰かに知って貰いたかった。多分そうなんだと思う。俺が存在していたという事をきちんと形に残したかったんだ」
「……どういうこと?」
「ネットワークだよ。やがてこの世界は広大なネットワークの海の底へと沈んでいく。いや、今までだってネットワークは存在していた。俺達人間がこの地球に生を受けたその瞬間からな。ただそれは今よりも生々しくて、そしてリアルだった」
「…………」
「だが……見てみろ、全てが0と1に置き換えられていくんだ。そして今まで俺達が行使してきたネットワークに使役されるようになる。ネットワークに飲み込まれていくんだ。それがたまらなく怖かった。自分自身の存在をネットワークの中に残しておきたかった……自分という輪郭が無くなってしまう前に」
「あなた……一体何を言っているの?」
 その時、一際強い風が下から舞い上がってきた。彼の着ていた服も、髪も、まるで弄ばれているかのように空へと向かって靡いていく。彼はそれを押さえつけようともせずに、ただゆっくりと私の方に向き返って、そして唇の端に微かな笑みを浮かべた。
 私はそれを見て酷い不安を感じずにはいられなかった。そして先程抱いていた恐怖の正体を知ったのだ。あの時の私は常とは違う何かを感じ取っていた。その正体までは解らなかったけれど、確かにそれを知覚していた。
「ログ……駄目よ」
 彼を、というよりも自分をなだめるようにそう言うと、ぎこちない足取りで彼の方に近づいていった。それに応えていたのかどうかは解らない。彼は唇を微かに動かして、そして次の瞬間、再び笑みを浮かべながらゆっくりと身体を後ろに倒していった。
「ログ!!!!!!!!!」
 時間にしてみればほんの数秒ほどの間だったはずだ。私は空に飲み込まれていく彼に向かって必死に走っていった。全てがスローモーションをかけたようにゆっくりと動いていて、いつまで経っても彼の傍にたどり着く事など出来ないのではないかと思った。そして目の前に不気味なオレンジ色に染まった空しか見えなくなった瞬間、私は彼がさっきまで立っていた場所にいた。何が何だか解らないまま、すぐさまビルの下をのぞき込んで、そこで私は見てしまったのだ。ゆっくりと下降していく彼を。その身体を覆っていた服も、肌も、髪さえも砂埃のように風に飲み込まれていって、残されたマネキン人形のようなそれはあっという間にビルの谷間へと飲み込まれていってしまった。
『自分という輪郭が無くなってしまう前に』という彼の言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される中、私はじっとその場に立ち竦んでいる事しかできなかった。




「参ったね……仮想現実とはいえ何度も自分が自殺するのを見るのは気持ちいいもんじゃないな。これで何度目だ?」
「ええと、6回目ね。パーフェクトよ。記録更新だわ」
「それはどうも。プログラムが自殺するとは驚きだな」
「プログラムと言っても、彼らには私達の記憶と人格がコピーされているのよ。ネットワーク上という制約こそあれ、私達と同じように思考して行動するわ。もしかして原因は貴方にあるんじゃないの?」
「よしてくれよ。俺を自殺志願者にでも仕立て上げたいのか? 生憎、そういう趣味は持ちあわせてはいないものでね」
「まあ確かに……メディカルチェックでも危険因子は見つからなかったし。という事はネット上の一種のアポトーシス作用のようなものがあるのかしら?」
「考えられない話じゃないが……最後以外は特に規範を逸していたようには見えない」
「一体何が言いたかったのかしら? この世界は広大なネットワークの海の底へと沈んでいく……まるで自分が作り物だと知っていたような口ぶりだったわ」
「それこそナンセンスだよ。記憶層の管理は徹底されている。それに電脳は仮想現実と現実を区別する術を持たない。仮想現実こそが彼らにとっての現実なんだ」
「そうだけれど。でも全体的におかしい所は結構あったわよ。またクラレンスも現れていたしね」
「奴は削除したんじゃなかったのか?」
「ええ、その筈だけど。もう一度ソースコードを見直した方がいいかもね」
「そうだな。面倒だがしか……」
「ん? どうかした?」
「あ……いや、ちょっと目眩が……目の前に砂嵐みたいなのが一瞬見えた気がするんだが……気のせいだよ」
「そう? ならいいんだけど……きっと疲れてるんだわ。少し休みましょうか」
「それはどうも」
「いいのよ」
「……プログラムが自殺するとは驚きだな」
「仕事の話は後にしましょ? 少し休みなさい。じゃないと貴方までどうにかなってしまうかもよ?」

fin


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