序章
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ベイグランドシティ――国籍を持たないこの都市はかつての国際色豊かな色彩を失い、今は暗闇とネオンの光のみがその存在を主張する不夜城と化していた。
二十七世紀後半の情報技術革新とそれに伴う多量の資源投入により、地球は完全に環境復元能力を失い、自然の崩壊はもはや避けられぬ所まで進行してしまった。大気中に舞う塵は太陽光を遮り、シティは完全に闇に包まれる事となる。
人の手により造られた光が闇を切り裂く中で、シティは徐々にその姿を変えていった。都市運営は企業の手に委ねられ、確固とした政府機構が不在のまま秩序は瞬く間に乱れ、地球一の犯罪多発都市へと変貌していた。
光と闇――その曖昧な輪郭の中で全てが混沌とした秩序と無秩序の中へと溶け込んでいく。競合する筈の対立概念は渾然一体となり、私達を捕らえていた現実と言う頚木も徐々にその輪郭を失いつつあった。
まさに現実と言う定義が揺らぎだしたその時、フォレア・コーポレーションは一つのネットワーク概念を提唱した。MATRIX SYSTEM<神経接触型仮想現実ネットワーク>――即ち、ネットワーク上に構築されたもう一つの現実である。 |
第一章 ERROR
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『マトリクス・システム、オールグリーン。MaSCoN<マトリクス・システム管理ネットワーク>正常に動作しています。』
MaSCC<マトリクスシステム管理センター>内に設置された監視モニターには緑色の枠で囲まれた"ALL GREEN"という文字が点滅していた。
この施設ではMATRIXと呼ばれる仮想現実世界の制御全般を行っている。薄暗い部屋の中には無数のモニターが配置され、そこから発せられる淡い光や、剥き出しになった幾つものケーブルはある種異様な雰囲気を醸し出していた。おおよそ最先端の設備が結集しているとは見えないその背景には、実験段階の頃から少しずつ改良を加えたシステムをそのまま流用しているという背景があった。私も当時の実情を知る一員として、目の前に広がる景色にある種生々しい過去を感じずにはいられなかった。
そのような事をチラリと考えながらTHORME<ネットワークOS/ゾーム>の自己診断プログラムを立ち上げる。
――マトリクスシステムは正常に作動しています
数秒ほど経ってから、アンチエイリアスもかかっていない無機質な文字がパッと表示された。
「いいわ。監視を続けて。保守点検プログラムを走らせるのを忘れないでね」
「はい」と威勢良く返事をするのはこの前入ってきたばかりの新米の男の子だ。若いというのはいいもので、私の年になると−−といってもまだ20代ではあるが−−もうそのような元気を演じるほどの力すら残ってはいない。今だってそう、だらりと手をぶら下げて背もたれにもたれ掛かっている。ここ数日の夜勤が堪えたのだと自分に言い聞かせてみるが、如如何せん彼程の年頃にその様な言い訳をしていたかどうかは極めて疑問が残る所だ。
「また残業か?エイダ」
気だるそうに顔を上げると、このご時世には珍しい黒い短髪の男が私をじっと見つめていた。いかにもといった感じのベビーフェイスに筋肉質の身体。不釣り合いを絵に描いたようなこの男は社内でもプレイボーイで有名だが、如何せんつきあいの長い私には何故コイツがもてるのか全くもって解らない。だてにつきあいが長いと悪い所ばかり見えてしまうせいかもしれないが。
「ええ。この前のトラフィックサージの件、早く報告書出せって上がうるさいのよ」
溜息混じりに返すと、彼は大げさに肩をすくめて口元を歪めてみせた。こんな風に時々見せる大人の表情にどこか違和感をおぼえてしまうのは、やはり幼げな顔からだろう。案外もてるというメリット以上に損の方が多いのではないかと、そんな風に思った。
「やれやれ、MaSCA<マトリクスシステム管理者>様は大変ですな」
「あなたこそ目の下に隈が出来てるわよ。夜遊びが過ぎたのかしら、ダグ。ほら、何て言った?あのセクシーな彼女の名前。ええと……」
前に一度だけ見たいかにもバカっぽい女の顔を思い浮かべながら、子供をあやすような口調で言ってやった。思い当たる所があるのか、苦虫を噛み潰したような顔をした彼は荒々しく溜息を吐いて隣の席に腰掛けた。
「チェッ……お袋みたいだぜ、その口調」
「同年代の子供がいた記憶は無いけど?」
「はいはい。じゃ、私は仕事でも始めましょうかね」
そう吐き捨ててモニターに向かう彼。それに倣って私もモニターに視線を移す。
『トータルアクセス : 195238, トラフィックサージ : 無し 前システムは正常に作動しています』
ベイグランドシティの人口はおおよそ三十万人だ。その三分の二にあたる二十万人もの人間がマトリクスシステムを利用している。彼らの殆どは食事等生命維持に関わる事以外の全てを仮想現実内で行う。個別に与えられた領域を自分の好きなようにカスタマイズしたり、仮想都市ミッドガルドを散策したり、それぞれが現実世界と同じ生活を仮想現実で行っているのだ。現実世界には目を覆わなければならない物が多すぎる――きっとそう言う事なのだろう。
『――警告します!トラフィックサージを確認しました!警告します――』
耳を劈くようなサイレンに思わず身体が震えた。すぐさま全モニターに警告メッセージが表示されて、その場にどよめきが沸き起こる。身体中をじわりじわりと侵していく焦りを何とか振り払おうと、一瞬ほどかたく目を閉じると拳をギュッと握りしめた。何の為の責任者だ!私が焦ってしまえば全てが駄目になるのだぞ!その台詞を頭の中で何度も繰り返しながら乱暴にキーを叩いた。モニターにはマトリクスシステムが、次いでMasCos<マトリクス保守システム>が表示される。画面全体に映し出された"FATAL ERROR"という赤文字を見た瞬間、私は背筋が凍るような思いがした。
「システム管理班、状況報告を!」
「ネットワーク上の転送速度が極度に低下しています。現在、上り・下りそれぞれ15万bps。このままの状況で稼動すればシステム自体が停止する恐れがあります!」
その返事を聞くや否や、急いで自己診断プログラムを立ち上げる。ほんの一瞬画面に原色の砂嵐が走ったかと思うと、次の瞬間に表示された診断結果を見て私は目を疑ってしまった。
――マトリクスシステムは正常に作動中です
そんなはずはない。15万bpsまで転送速度が低下しているこの状態が正常などナンセンスも甚だしいし、そんなものトラフィックサージで説明がつく範疇を遙かに逸脱している。という事は可能性は万に一つ、THORMEの欠陥以外に説明はつかない。そしてそれは言うまでもなく最悪の事態を示していた。
「セキュリティ班、ウイルスの兆候は?」
「AVS<アンチ・ウイルス・システム>は異常を感知していません」
報告を聞きながらフォレア・コーポレーションのセキュリティエリアにアクセスしていた。システム・機器関連のログは全てフォレアのサーバに上げられているので、マトリクス関連で何か不具合があればここにあげられるはずだ。
――申し訳ありません。要求されたコンテンツは見つかりませんでした。マトリクスシステムの不具合に関する情報はありません。.
マトリクス内の不具合は一切報告されてはいない。そして自己診断の結果は正常。そうなるとウイルスか大量のデータ投入の線が濃厚になってくる。しかし厳重な管理下に置いてある日突然巨大なデータがぶち込まれる事など考えられない。
「もう一度確認して。機構に不具合は見つかっていない。内部の問題の可能性が極めて高いわ」
「はい。…………え!?」
「何があったの?」
「システムが固まって……アクセスできません!」
「何て事……とにかくあなた達はAVSの復旧を。それから全MaSCoNに通達。新規アクセスを停止。単体のワクチンプログラムを潜らせて感染者がいれば検疫、ウイルスを失活させる事。ウイルスの非感染が確認された者は強制ライズ<離脱>。それから顧客データの演算はマトリクス・システムからサブ・システムへ移行。マトリクス・システムをフル稼働してワクチンプログラムを動かして」
「転送速度10万bpsを切りました。ネットワーク上に大量の浮遊データを確認。発生元は不明」
「チッ……仕方が無いわね…………」
悪態の一つでもつかないと気が済まなかった。歯をギリッと噛みしめ、口元を歪めながらスーパーコンピュータに向かう。そして胸ポケットからIDカードを取り出すと、たたきつけるようにカードリーダーに通し、急いでパスワードを入力した。
『エラー パスワードが違います 再度入力して下さい』
「くそっ!」
コンピュータの酷く無機質な音声が酷く癇に障った。喉の奥から唸り声を絞り出しながら、再度リーダーにカードを通してパスワードを入力する。
『パスワードを確認しました。あなたの名前とIDナンバーを宣誓して下さい』
「30548856 エイダ・ウォーレン」
『…….チェックしています……認証は正常に終了しました。ご協力ありがとうございます』
「MaSCA権限によりシステム改変を行う。テクスチャを非表示、フレーム数を最低レヴェルまで落としてストリーミングを8bitまで落としなさい。これで速度を計算して」
MaSCC無いには異様に張りつめた空気が立ち込めていた。コンピュータから発せられるビープ音、キーボードを弾く音、無数の足音、それらを刺々しく感じずにはいられなかった。
「システム改変しました。現在転送速度は50万bpsまで回復」
『アラート ウイルスを検出しました』
『アラート トラフィックサージが発生しました』
『アラート NAIは破損しました』
『アラート NCAは致命的な状態にあります』
矢継ぎ早に発せられる警告メッセージは私を戦慄させるに足る物だった。
ウイルスの検知、セキュリティシステムの破損――起こってはならない最悪の事態が一度に起こってしまったのだ。私のような専門家でなくてもゾッとするに違いない。
「エイダ、MaSCoNからの報告だ。ネットワーク上にJadeが発見されたぞ!」
一瞬意識が遠のいたような気がした。頭の芯がしびれるような感覚に襲われながらゆっくりと顔を横に向けると、常には見せた事もない険しい顔をしたダグが私をじっと見つめていた。コードネームJade−−それはネットワーク上のデータを喰らって増殖していく極めて凶悪なウイルス。
「……解った。駆除プログラムを走らせなさい。定義はNo.58963。それからデータ研に報告を。検疫したパーソナルデータの復元を急がせて」
「了解」
私は再びモニターに視線を移すと机の下から非神経接触型スコープ<NoNCS>を取り出して装着した。
小さなモニター上にはグリーンの無数の線が映し出されている。これらは全てマトリクスシステムがネットワーク上で演算している固体データのワイヤーフレームだ。
フレームは複雑な軌跡を描きながらうねり、そして次々と拡散していく。拡散したフレーム――それは即ちJadeによって破壊されたデータを示していた。
「ウォーレンさん、フォレアのサムソン会長から通信です」
「NoNCSに繋いで。認証は0538よ」
「了解。繋ぎました」
「代わりました。MaSCAのウォーレンです」
「一体何があった!?ユーザホットラインはパンク寸前だぞ!!」
パケットにノイズを絡ませているのだろうか、耳元で雑音だらけの声がやかましく響いた。
「27時31分、トラフィックサージが確認されました。その後セキュリティの大半が壊滅状態に陥り、単体のワクチンプログラムを走らせて対処にあたらせました。MaSCoNからの報告によりマトリクス・システム上にJadeの存在を確認。現在感染者を検疫してデータ研に復元させています。非感染者については強制ライズを実行。現在0.3%のライズが完了しています。またネットワーク上に大量の浮遊データが確認されましたが人員不足により現在は放置しています」
機械的な受け答えをしながら手元のスティックを操作してネットワークを探索していく。しかし現状はどこも同じだった。感染と同時にデータは崩壊を開始し、データが消える前に検疫された人間はほんの僅かだ。
「Jadeだと!?何故こうなる前に解らなかったんだ!?」
「……AVSが停止したことにより発見が遅れました。恐らくウイルスによりシステム自体が破壊された事に起因するかと」
「何と言う事だ……それで、君らで対処しきれるのか?」
「非感染者のライズはシステムが行いますがトラフィックサージの原因と考えられる浮遊データについては手が回らない状態です。フォレアのテクニカルワーカーを回していただければありがたいのですが」
「解った、各MaSCoNに派遣しよう。その他は?」
「いえ」
「善処を期待するぞ」
「……はい」
一瞬ノイズが入ったかと思うと右側の映像は消えて、全面ネットワークの映像に切り替わった。
「ダグ、各MaSCoNに通達。フォレアのテクニカルワーカーを派遣するので浮遊データの削除とサンプリングをするように。いい?」
「了解」
非感染者のライズが完了したのはそれから三日後の事だった。
正常ライズは全体の約三割、58563人。
死亡者は全体の六割、114135人
データ研の復元によりライズは出来たものの脳に損傷を受けた者は全体の約一割、22540人。
前代未聞の凄惨な事故を受けて、フォレア・コーポレーションはマトリクス・システムの運営を無期限停止。
サムソン会長は辞任。
副会長であるシェーナ・ジェニングスが繰上げ就任、事故調査委員会を発足させた。
同時に、私はMaSCAとして事故調査委員会統括に就任。
フォレア上層部の下で事故調査を開始した。 |
to be continued...
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