MATRICE

第二章 過去

 薄暗い部屋の中で雨音だけが唯一存在しているような、そんな錯覚をおぼえる。
 私は電気もつけずに台所の椅子に座り、机に肘をついてぼんやりと壁を見つめていた。
 何をしているのだろう、気がつけばいつもその言葉を吐き捨てている。
 自分が如何に無力であるかという事を噛み締め、それでも何か出来ないか模索している自分を、知らぬ間に嘲るような目で見ていた。
 仕事が終わったらいつも、私はこの部屋で彼を待ち続ける。
――いつ戻るか解らない、日に日に病んで行く彼を。
 自分までもが病んで行くのを知覚しながら、私はそこから抜け出せずにいる。
 彼を愛しているから――何度もその言葉を反芻し、自分に言い聞かせてきた。
 多分本当に愛しているのだと思う。
 しかし彼は、私の事をどう思っているのだろう。
 そもそも、あんな風になってしまった彼の目に私は映っているのだろうか。
 そしていつも、私は自嘲的な笑みで結論を先送りするのだ。
――ガチャ
 単調な雨音に雑音が混じる。
 私は一つだけ溜息を吐くと、緩慢な動作で立ち上がって玄関へと向かっていった。
「……お帰りなさい、スライ」
 私の言葉に応える事無く、彼は真直ぐ部屋の奥へと進んでいく。
「駄目じゃないか!!カーテンはいつも閉めておけと言っているだろう!!見られてるんだよ! そうだ、見られてるんだ!!」
 まただ、心の中でそう呟く。
窓の外を覗いても誰かが覗き見ている気配すら感じられないというのに、一体誰に見られていると言うのだろう。
「一体誰が……見ているというの?」
 私は無駄と知りながらこの問いかけをする。
 返ってくる答えは解っているというのに。
「目だよ! 奴らは見ているんだ、俺の事を!!」
「あなたをつけ狙ってTHORME<ゾーム>の情報を盗もうとしていると?」
「何……!? そうじゃない。THORMEはいいんだ。あれは……あれは完成させなくてはいけない。マトリスを……」
「マトリス? マトリクスシステムの事?」
「や……止めろ!! 見るな!!!!」
 そう言い放つと、彼は私を突き飛ばしてベッドの中に潜りこんだ。
 テーブルにぶつけた腰が鈍く痛んだが、それ以上にこの様な彼の姿を見る事の方が辛かった。
「スライ……誰もいないわよ。誰もあなたの事など見てはいない。あなた疲れてるのよ。少し……休んだほうがいいわ」
 きっと、私はその言葉を自分に向けて呟いていたのだと思う。
 私の視線の先には毛布に蹲るスライの姿があったが、決して彼を見ていたわけではなかった。
ただ、私の視線はその先にある空虚を捉えていた。

 朝日が差し込んでくる頃、既にスライの姿は無かった。
 私はぼんやりと起き上がるとスライのベッドの窪みに手を這わせた。
 冷たい温もりが伝わってくる。
 私は緩慢な動作でベッドに腰掛けると、無造作に散らかった毛布を手に取り、愛しむように抱きしめていた。
 何が彼を壊してしまったのだろうという漠然とした怒りと、何も出来ない自分に対する限りない失望が心を満たしていた。
 そしてスライを永遠に失ったという事を知ったのは、それから数時間後の事だった。


 酷い倦怠感を伴った目覚めだった。
 ゆっくり目を開くと、焦点の定まらないぼんやりとした暗闇が眼前に広がっていた。
「…………随分とうなされてたぞ。悪い夢でも見たのか?」
 声の主を探してぐるりと辺りを見回す。
 窓から漏れる白々とした光にダグの顔が照らされていた。
 彼の顔を見て初めて、夜が遅かった為にフォレアの宿直室に泊まった事を思い出した。
「昔の夢を見てたわ。何か……言ってた?」
 そう尋ねると彼は少しだけ窓の外に視線を向け、何か考えているような素振りを見せた。
「スライ。彼の名前をずっと呼んでた」
「……そう」
 ため息を吐きながら視線を落として、零れ落ちた髪を右手でかき上げる。
「まだ……忘れられないのか?」
 責めるような口調ではなかった。いつもの彼からは想像もつかない、酷く優しい言葉だった。それなのに、気を遣わせているのだという思いが先行してしまって、何とも言えない心苦しさが胸にのしかかっていた。
「そうじゃない……違うわ。私は……ただ……ごめんなさい」
 私は一体何に対して謝っているのだろうと、口を動かしながら考えていた。しかしそのような疑問とは裏腹に、私の唇はその言葉を発する事を厭わなかった。
「いや、あんな終わりかたしたんだから…………仕方がないさ」
 歯切れの悪いその言葉は、どこまで触れていいのかという事を手探りしているような、そのような物だった。私自身どこまでがタブーでどこからがそうでないのか、そのような判別などつけようがなかった。だから彼にそれが解らないというのは当然の事だろう。そして私なりにつけたタブーか否かの区分は酷く自嘲的なものに思えて仕方がなかった。
「スライ=ガルシア博士。マトリクス・システムの生みの親でありネットワークOSゾームの設計者でもある。皆から稀代の天才と謳われていた。でも……私の前では優しい普通の男だった」
 視線を上げるとと、彼は複雑な表情をして私の顔を見つめていた。
 何故このような話をするのか、自分を傷つける事にしかならないのではないか、そのような疑問を投げかけるように。同時に自分からこの話題を持ち出してしまった事に対する後悔の念も容易に見て取れた。そして恐らくそれは間違ってはいない。私はきっとそうすべきではなかった。それでも、ここで話を止めるつもりはなかった。理由など無い、ただ私の心がそう欲していたのだ。
「しかしある日を境に彼は変わったわ。そう、ゾームが完成に近づくごとに彼はどんどんやつれていった。はじめは……ただ疲れているだけだと思った。だけどあの日、私はぞっとしたのよ。『見られてる』そう言いながら窓という窓に鍵をかけて、カーテンも閉めて、布団に包まりながらガタガタ震える彼を見てね。それからはずっとその調子だった。家では視線に怯えて布団に包まって、研究所ではいつも一人で部屋に閉じこもっていた。共同研究者であるシェーナ・ジェニングス博士を除いて誰も中にはいれなかったそうよ。そしてゾーム完成の一ヶ月前……彼は死んだのよ。朝起きた時、彼は既にいなかった。私は仕事に行ったのだと思った。でも……フォレアに出勤した私は、そこで初めて彼の死を知った。どうして死んだかも教えられずに、最後の別れすら告げる事も出来ずに……彼は私の元から去っていった」
「きっと……何も見えなかったんだと思う。日々組み立てていかれる巨大なマトリクスの中に何時の間にか自分が取り込まれていって、最後には何も見えなくなったんだと思う」
 その言葉を聞きながら、私は生前口癖のように彼が言っていた言葉を思い出した。そして一瞬ほど躊躇した後に乾いた唇をゆっくりと開いた。
「彼が言っていたわ。母の胎内には私達の望む全てが備わっている。そこは人類が古より求め続けた楽園なのだと。しかし母の腹から生まれ出るその時、私達は楽園から追放される。回帰する事は永遠に叶わない。自分は……言語により記述されたネットワークという母胎<マトリクス>により、失われた楽園を取り戻してみせると」
 応えは無かった。
 ただ私達の間には破りがたい沈黙があり、共にそれを甘受していた。
――ネットワークによる母胎への回帰
 胸の奥に引っかかったままのその言葉は、漠然と輪郭を成しつつあった。

to be continued...


↓E-mail↓返信希望の方のみメアドをご記入下さい。

書き終わりましたら、送信のボタンを押して下さい。

+ 戻る + トップ +