MATRICE

第三章 再開

 薄暗い廊下に二人分の足音が響く。
 寝付けなかったから――それを口実にしてカンファレンスルームに向かっていた。
 時刻は深夜三時十二分。
 あの凄惨な事故から一ヶ月が経過していた。
「これだけ調べても何一つ有力な情報が得られないなんてどうかしてる。そう思わないか?」
 ダグの顔には色濃い疲労が映し出されていた。
 それでもこのような夜遅くまで残っているというのは、あの場に居合わせて何も出来なかった自分に対する不甲斐なさを痛感しているからだろう。少なくとも、今の私を支配していたのはそのような思いと、言葉にし難い焦燥感だった。
「そうね。少なくとも手元にある情報だけでは全てはマトリクス・システムの仕業だと言わざるを得ないわね。でもそれはありえない。THORME内の絶対命令セットがそれを許さないわ」
「自分を傷つけるな、って?」
「それも含めて。ネットワーク上の人間を傷つけてはならないという絶対命令が存在する以上それに反した行動をとる筈がないし、自らシステムを壊すと言う事もネットワーク上の人間を傷つける事に直接つながるわ。それに……そのようなロジックを持ち出さなくてもシステムが目的も無く浮遊データを吐き出したりウイルスをばら撒く理由が無い」
 再び薄暗い廊下に足音だけが響いた。二人とも完全に煮詰まっているのだ。いくら調べても出てくるのはマトリクス・システムの異常動作の記録だけ。そして立場上、私達はそれを認めるわけにはいかない。
「THORMEのバグと言う事は?」
「デバッグの時点でここまでのバグが見落とされるわけが無いでしょ? それにシステムの分析は開発者であるジェニングス博士がしているわ。何かあればすぐに報告があるでしょ。ただ……」
「ただ?」
「いえ、ただTHORME自身が意思を持っているなら若しくは……でもそんな事はありえないわ。ただのプログラムが意思を持つなんて。何世紀も前のSF映画にそんなのが無かった?」
 軽く笑いながらそう言うと足を止める。
 そして胸ポケットから認証カードを取り出してカードリーダーにかけた。
「生憎と映画は嫌いでね。何にしてもリアリティに欠ける」
 ピピッ、という鋭い電子音を伴い自動ドアは静かに開く。私は肩を竦めてみせてそれを返事に代えると、無言でカンファレンスルームの中へと入っていった。

「さて……何から始めましょうか?」
 机の上に散らばった書類の山を見ながら、半ばうんざりしたように呟いた。
 まるでそれはピースの欠けたパズルを解くような、答えの無い質問に答えるような、そのような感覚に似ていた。
「俺はもう一度ウイルスの出所をトレースしてみるよ。結果は同じだろうがね」
「そうね……じゃあ私は浮遊データを調べてみるわ」
 そう言いながら乱雑に置かれた書類の中から浮遊データ一覧を取り出す。数百枚にも及ぶそれには無数の浮遊データ情報がただひたすら書き連ねてあった。ファイル容量は数バイトから数テラバイトまで様々、ファイル名・拡張子ともに規則性は認められない。加えて言うなら、これだけの大量のデータを人間の手によってマトリクス・システム上に送るとしたら相当の時間がかかってしまう。システムもそれに気付かない筈が無い。という事は、トラフィックサージが起こる前にシステムに致命的な異常が発生していたという事も当然考えられる。
「lksjd5sk74fdkja.teciram、54s5d45sdsd2.ctramie、ksa5ajksjdsdsdis.trecima、airj8sdk.arecmti……ランダムに発生したとしか考えられない。それに全部調べるなんて無理ね」
 無機質なデータの羅列を目の前にして思わず溜息をついてしまう。
 何度見ても単なる文字列は文字列に過ぎないのだ。
「ぼやくなよ。調べなきゃ何も出てこないんだ。だろ?」
「そうだけど。ランダムに発生したファイル名と七文字の拡張子……ん?」
 ふと拡張子の文字数が全て同じである事が気になった。
 それまでは全て"ランダム"という言葉で片付けていたが、この文字数に何らかの規則が見出せないかと、そう思ったのだ。
「どうした?」
「七文字の拡張子……何かあるのではないかしら?ほら、よく見てみると全て同じ文字が使われている。t-e-c-i-r-a-m、見る限りこの文字が使われているようだけど」
「確かに。だがその七文字を使ってランダムに発生させただけかもしれない」
「そうかもしれない。でもそこに何らかのヒントが隠されているかもしれない。調べてみる価値はあると思うわ」
 そう言いながらコンピュータに向かうと浮遊データの一覧を呼び出す。そしてその中から拡張子一覧を作り出してデータベース化させた。もし私の予想が正しければ作られる拡張子は7!=5040通りの筈だ。
「ビンゴ! ぴったり5040通りのパターンね。これはt-e-c-i-r-a-mのアナグラムになっているんだわ。この中から文字列を検索してみましょう」
検出された5040通りの拡張子の中から言語として機能する物を選び出す。出てきた答えによっては何故浮遊データが発生したのか、紛いなりにもその理由付けが出来るかもしれない。
――"matrice"という文字列を発見しました
 そのメッセージを見た瞬間、背筋が凍り付くような感覚がすぅっと駆け抜けていった。

『何……!?そうじゃない。THORMEはいいんだ。あれは……あれは完成させなくてはいけない。マトリスを……』

 死ぬ直前、スライは確かに"マトリス"という単語を口にしていた。マトリス――母胎――それはこのネットワークそのものを指す言葉だ。彼が仮想現実上に構築しようとした、言葉によって記述された楽園世界。それが浮遊データとして吐き出されたという事はただの偶然だろうか?
「……ダ…………エイダ!!」
「え……?」
 我に戻ると難しい顔をしたダグが私を見つめていた。
「どうしたんだよ、一体!?」
「マトリス……彼は死ぬ直前にそう言っていた」
「だから? これはガルシア博士の仕組んだ事だって言うのか!?」
「解らない。だけど……調べなくてはならないわ」
 そう言い放つと、彼の応えを待たずにDNに接続した。フォレア社のネットワークライブラリーにアクセスして検索エンジンを呼び出す。
――フォレア・コーポレーションのネットライブラリーへようこそ。ご利用の方はIDを入力して下さい。
  ――30548856
――認証は正常に終了しました。検索したいキーワードを入力して下さい
  ――Sly Gulsia, matrice, matrix
――データマッチ 1.マトリクス研究(スライ・ガルシア): last up date 18.3.2915 2.ガルシア博士のマトリクス理論考察(ダービー・ウェルズ): last update 12.3.2913
 ヒットしたデータは二件。
 一つはスライの論文でもう一つは研究者のマトリス批評だ。
 私はスライの論文にカーソルを合わせるとアクセスを開始した。
――申し訳ありません、404エラーが発生しました。要求されたコンテンツはネットワーク上に存在しません。
 どうやらスライの論文は削除されたらしかった。それが単なるミスによるものなのか、意図的な物なのかは解らない。しかし私は、漠然と真実に近づいたような気がしていた。
  ――スライ ガルシア
――データマッチ, 1.シニフィエに関する考察(スライ・ガルシア) : last update 5.12.2909 2.マトリクス研究(スライ・ガルシア) : last up date 3.18.2915 3.[記録]スライ・ガルシア博士 : 4.14.2915 4.ガルシア博士の偉大なる研究(ジョン・ヴォールビー) : last update 6.18.2914……
「役に立たなそうなデータばかりだな。どれもマトリクス・システムには関係の無い物だ」
「いえ……これよ。"シニフィエに関する考察"。これに違いないわ」
 ゆっくりとリンクの上にカーソルを合わせるとアクセスを開始した。
 クリックと同時にモニタには砂時計が表示され、パッとウィンドウ内が真っ白になる。
 私は不思議な高揚感に包まれていた。もう会う事さえ叶わない彼と再び合間見えるような、そんな気がしていた。
「来た……」
 彼の遺言とでも言うべき論文を目の前にしてどのような感情を抱けと言うのだろうか。私はモニターを食い入るように見つめながら、ただ固まっている事しかできなかった。
「エイダ……泣いているのか?」
 その言葉を聞いて初めて頬を伝う生暖かい感覚が涙であると理解した。自分の中できちんとけじめをつけていた筈なのに、なぜ彼の幻影を目の前にして涙しているというのだろうか。明確な答えを出す事が出来ないまま、私は彼の最後の言葉をゆっくりと目で追っていった。
『シニフィエに関する考察   スライ ガルシア』
 一文字一文字が私に語りかける彼の言葉にようにすら感じられた。

to be continued...


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