第四章 フラグメント
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『記号論を語る上でシニフィアンとシニフィエは避けて通る事は出来ないだろう。確認しておくと記号(シーニュ)は意味作用(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)という二つの要素に分けられる。シニフィアンは直接的に言葉が指し示す対象を指し、シニフィエはシニフィアンに付随するイメージの事を指す。例えば「人参」について考えてみよう。シニフィアンは人参という物体そのものを指す。シニフィエは「赤い」「子供が嫌い」「カロチンが豊富」というそれぞれの解釈によって内容は変わるがそのものに張りついたイメージの事を指すのである。ソシュールはこのシニフィアンとシニフィエの関係を恣意的なものであると主張している。つまり私達は人参という物体を「人参」と呼ぶ必然性を持ってはいないと言う事である。例えば日本語では「人参」、英語では「carrot」、フランス語では「carotte」と呼ぶ。また興味深い事に「虹の色」と言う物も言語によってその規定は異なる。日本語では七色、英語では六色、バッサ語では二色と規定する。取りあえず、これら一連の、言語の絶対性を否定する現象を「揺らぎ」と呼ぶ事にしよう。そしてこの揺らぎこそが、言語を特徴付ける決定的な物であると、私は考える。
シニフィアンとシニフィエ間における揺らぎについては前述した通りである。ここで一つ考えていただきたい。「私達人間はシニフィエによりシニフィアンを完全に定義付けする事が出来るであろうか」と言う事である。前章を見ていただければ私の答えはお分かりであろう。言語により対象を完全に定義付けする事は不可能なのだ。簡単な例をあげてみよう。あなた自身を言葉で説明してみていただきたい。あなたと言う存在を必要十分に言葉によって説明していただきたいと言う事である。あなたが挙げたその言葉はあなたの全てを必要十分に説明していると言えるだろうか。否、あなたがいくら言葉を積み重ねようと、あなたはあなた自身を完全に言葉で規定する事は出来ない。言葉には揺らぎがあると言う事である。つまりは不完全なのだ。では何故、そのような不完全な言葉に依存しなければならないのか。答えは簡単である。私達は言葉による規定なしには安心できないのだ。私達は誰しも言葉による自身のイメージを持っている。温厚である、優しい、背が高い、成績優秀、ひげを伸ばしている……これら言葉による特徴づけを行わなければ自分自身が解らない、つまりは存在が浮遊してしまうのだ。しかしながら何故言葉は存在を完全に説明する事が出来ないのであろうか。これに関して単純な答えを提示しようと思う。実は言葉に意味など存在しないのだ。つまり、言葉とは意味の不在を隠蔽する為に次々と塗り重ねられていく物なのである。私達が自身を言葉で説明しきれないと言う事は即ち、説明する対象など始めからないと言う事を指し示しているのだ。その論を発展させるのであれば、私達は自己の無を隠蔽する為に言語に依存している、と言う事が出来る。先程「言葉によって自身を説明しきる事は出来ない」と言った。これは裏を返せば、私達は永遠に言葉で自身を規定し続けなければならない、と言える。そうしなければ己が内に存在する無に気付いてしまうからだ。言語とは、その無を隠蔽するヴェールなのだ。私達は生きる毎に、言語を使用する毎に、ヴェールの上にヴェールを次々と重ねていき、意味の不在を、無を隠蔽するのだ。そして精神分析の大家ジャック・ラカンはこう言い残している。「言語が正常に機能しなくなり自身の無に気付いてしまった瞬間、人は精神病を発病するのである」
今の世界、人々の心は病んで行く一方である。2908年12月に行われた調査によると、ベイグランド・シティにおける一年間の自殺者数は5681名であり、十年前の56倍の数値を指し示している。また、宗教信仰などの影で隠蔽された自殺者の数などを考慮するとその数は驚異的なものとなるであろう。これは一重に、言語による無の隠蔽が正常に行われていない事に起因するのではないだろうか。移り変わる世界の中で経済は悪化の一途を辿り、環境は汚染され、私達人間の心の中にも暗い影を落としている。私は科学者として、それに気付いた人間として「言語にのみ規定される仮想現実世界の構築」を提唱し、その世界を MATRIX<マトリクス>と名づける。そしてMATRIXとの交わりにより、我々は無の存在しない楽園へと回帰するのだ。これはエディプス以来、常に私達の存在の根底に刻み込まれた回帰願望を満たすものとなろう。』
私はモニタを凝視したまま言葉を失ってしまった。この考察は彼が研究者となって間もない頃書かれたものであり、同時に彼の理論の原点となったものだった。それは十数年が経過した今でさえ色褪せる事無く、鮮烈な印象と共に目の前に横たわっていた。
そして彼の真意を理解した瞬間、私は戦慄したのだ。彼の言うマトリクスへの回帰とは即ち――
「……真青な顔してる。大丈夫か?」
横に向けた視線のその先ではいかにも不可解と言わんばかりの顔をしたダグが私を見つめていた。私はゆっくりと瞬きをすると、乾いた唇を舌でなぞってからぎこちなく開いた。自分でも唇が震えているのがよく解った。
「彼は……スライは…………」
言葉が出てこなかった。私の中であらゆる思考の断片はある一点に向かっている。しかし私はそれを拒もうとしている。何故なら、それはあまりに現実とかけ離れているから。今ある私の現実を否定するものだから。
「……行かなければならないわ」
歯切れ悪く言うと、私はぎこちない動作で起き上がった。そしてダグの瞳をじっと見つめ、ゆっくりと唇を開いた。
「あなたの助けが必要よ、ダグ。……全てを終わらさなければならない」
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to be continued...
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