最終章 バウンド・リバティ／捕らわれし者
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「強制ライズは無事終了したわ」
微かに目を開くと、白衣を身に纏い腕組みをした女性が私を見下ろしていた。
レイヤーのかかったブロンドのショートヘアーと目鼻立ちの整った顔は良く見知った者のそれだった。
――フォレア・コーポレーションのトップ、シェーナ・ジェニングス
しかしその表情は平生のような自信に満ちたものではなく、ただ疲れ切った、それでいて安堵と不安が入り混じったような複雑なものだった。
「あなたは……初めから全てを知っていたのですね」
私の口調は否定する事を許してはいなかった。ただ、この言葉は純粋に彼女の退路を絶つ為の物でしかなかったのだ。
「そう、ね。いつかは気付くと思っていたわ。私はそれを恐れ……心の片隅では望んでいた」
そう言うとルシアは組んだ腕をはずしてだらりと垂らし、視線を微かに上へと向けた。ふと、その瞳が何を捉えているのだろう、という疑問が脳裏をかすめた。己の感情を押しとどめて淡々と語るこの女性にある種の違和感を感じていたのかもしれない。
「スライ＝ガルシア博士……私はベイグランド工科大を主席で卒業して、自分の能力にも自信を持っていたわ。先天的なものも、後天的なものも。ポテンシャルをも、信じてやまなかった。でも彼との出会いで全てが変わった。私など彼には及びもしない事がよく解った。陳腐な言葉になってしまうけれど、彼はまさに天才だったわ。そして彼の打ち出したマトリクス構想……私は愕然としたわ。私はフォレアのセカンドとして最大限のバックアップを約束し、自ら彼の助手に名乗り出た。でもシステムが形を成していくごとに、それは私の理解できる範疇を遥かに逸脱していった。……いえ、初めから理解など出来得る筈もなかった。恐らく、あのシステムについて理解できていたのは彼一人だったでしょうからね」
彼女はゆっくりと瞬きをすると、緩慢な動作で私に顔を向けた。その口元には微かではあったが確かに笑みが浮かんでいた。そしてその笑みは私を戦慄させた。
「ネットワークの整備が終わった頃から彼は変わったわ。日に日にやつれていって、何かに怯えているようだった。そしてゾームの完成する一ヶ月前、彼は死んだわ。私のラボで……自殺した」
その台詞を聞いた瞬間、思わず声を漏らしてしまった。それは今までひた隠しにされてきたスライの死の真実だったのだ。そして私の心の奥底で燻っていた過去という名の負の感情の本質でもある。
私の変化に気付いたのであろう、彼女はもう一度ゆっくりと瞬きをすると、閉じていた唇を微かに開いた。
「彼にとっても会社にとっても、自殺という醜聞は隠されねばならなかった。しかしその奥に隠された理由は別の所にある。……彼の遺体の傍に残されていた二枚のDD＜デジタルディスク＞と分厚い彼の"遺書"にね。片方のDDには"THORME"と、もう片方には"OEDIPUS"と書かれていたわ。 THORMEにはネットワークOSの原型が、OEDIPUSには彼の……彼の脳をデータ化してTHORME上で演算できるように最適化されたプログラムが入っていた」
その言葉を聞いても驚きはしなかった。ただ「ああ、そうだったのだな」と妙に冷静な思考が頭を駆け巡るだけだったのだ。何故なら、彼の残した論文を読んだ時に全てが解ってしまったのだから。
しかしそのような態度はシェーナにとって意外な物だったらしい。腑に落ちない、そのような表情を浮かべながら私をじっと見つめている。
「……驚かないのね」
そう言った彼女の表情は何かしらアンニュイな様相を呈しているように思えた。もっとも、極度に主観的な私の目にそう映ったという事でしかないのだが。
「彼の論文を読んで何となくそんな気がしていました。それでダイブして……彼と逢った時に解ったんです」
彼女は下唇を軽く噛むと、納得した様子で「そう」と応えた。
「彼の遺書にはTHORMEにOEDIPUSを組み込む方法が事細かに書き連ねられていた。私はそれに随ってTHORMEを完成させ、そして既に出来あがっていた仮想現実ネットワーク＜MATRIX＞上で動かしたわ。人類が古より求め続けてきた楽園＜UTOPIA＞……その一つの答えを垣間見たような気がして、私は今までにない高揚を感じていた。説明書を見ながら組みたてただけ。それは解っている。でもね、一研究者として、この偉大な一歩を共に出来た事が嬉しかったの。あの時まで……THORMEが暴走を始めるまではね」
「彼は気付いたんです。楽園など存在しない事を。いえ……ずっと前から気付いていたのかもしれません。それを隠蔽する為に嘘に嘘を重ねていって、いつしかマトリクスという巨大な嘘にまで発展してしまった。これ以上覆い隠す嘘を見つけられなかったのだと思います。そして幾重にも渡る虚構のヴェールが剥がれ落ちた時……彼は壊れたんです」
「……そうね。私もそう思うわ。誰の心の中にもあるほんの小さな綻びが少しずつ広がっていって、ついには取り返しのつかない所にまで来てしまった。誰もが……スライ＝ガルシアのようになる可能性を内在している。誰もが……」
口をつぐんだ彼女は白衣の胸ポケットから一枚のDDを取り出すと私に向かって放り投げた。腹の上に着地したそれを手に取ると、何のラベルも貼られてはいない、ベーシックな大容量DDである事が解った。
「……これは？」
その意図を汲み取れずに思い浮かんだ疑問を口にすると、彼女はゆっくりと目を閉じ、口元を弛ませて白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「そこにはこれまでの経緯と、私なりの考察が入っているわ。それを公表すれば全てカタがつく。私はTHORMEなど完成＜つく＞るべきではなかった。科学に溺れ、道を踏み外した憐れな女の最後――」
「――何を！？」
全てが一瞬のうちに起こった。
彼女は白衣に忍ばせていた旧式の小型銃を取り出すと銃口を口に突っ込み、何の躊躇いもなしにトリガーを引いた。
耳を劈くような銃声とダグの叫び声とが重なり、後には硝煙の匂いと、もはや口をきく事すら叶わない憐れな木偶人形が転がっていた。
その後の事はよく覚えていない。
多分ずっと上の空だったのだと思う。
多くの人間がやってきて、そして去っていった。
彼らは私達に状況の説明を求め、そして突如起こったこの惨劇に動揺していた。
しかし私にとってはどうでもいい事だった。
ずっと求めていた真実とは受容でき得るキャパシティを遥かに逸脱したものであり、結果として私は空っぽの存在となったのだ。
私の視線はただ虚空をさ迷っているだけだった。
エピローグ 希求
肌に纏わりついてくる冷たい風は思考を酷く冴え渡らせていた。
髪を掻き揚げながら胸ポケットに差しこんでいたサングラスを取り出す。そして軽く頭を振って風に髪をなじませると取り出したそれを身につけた。
目の前に広がる不夜城はまるで無数の蝋燭を灯したかのような淡い光に包まれている。町中を走るネットワークケーブルは青白い光を放ち、それはまるでこの地球に張り巡らされた血管のように見えた。そう、今にも死にかけた人間のそれのように。そしてこの町を包む終焉の空気は私を心地よくさせた。
「……それでも、人は楽園を求め続けるのでしょうね」
抑揚の無い声で呟くと、私は身を翻して街に背を向けた。 |
fin
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