温もりの距離
vol.4 like a child | |||
5005年 ナサギエルの月7日
夢を見ていた。 薄暗い部屋の中でただひたすら兄の帰還を待つ幼い少女。締め切られた部屋を照らすものといえば、小さな天窓からもれてくる僅かばかりの光だけだった。 一人きりになったその日からどれだけの刻が経ったのだろうか。もはやそれすら解らない程の永い間、少女はずっと待っていたのだ。薄汚れた壁を背に、曲げた膝に顔を埋めたまま微動だにせずに。 暗闇に浮かぶ彼女の姿をじっと見つめながら、俺の心の中にはあるぼんやりとした、捉え難い感情の波が幾重にもわたってうねっていた。その中で彼女を護りたいという確固とした意志だけが輪郭を持って頭の奥底にこびり付いている。 「……イリア」 記憶の奥底に刻み込まれたその名が口をついて出ていた。まだ幼かった頃、城に訪れてきたある男が話した少女の名だ。ほんのちっぽけな事ですら泣いてしまう子。泣いたかと思えば次の瞬間には笑ってる子。――その男以外に家族と呼べる者など誰一人いない、孤独な子。 俺の声が聞こえないのか、それとも無視を決め込んでいるのか、少女は何一つ応えようとはしない。 「イリア」 もう一度だけその名を口にして、ゆっくりと彼女の方へと向かって歩き出す。カツン、カツンという靴の音が嫌なまでに誇張され、それは閉鎖的な空間<彼女の部屋>に木魂した。混沌とした闇の中で幾重にも連なるその音はやがて大きな波となって俺を飲み込んでいくのではないかと、何故だかそのように思えた。 「何してるんだ、独りきりで」 無駄としか思えないその行為をもう一度だけ試みてみる。そして予想通り応えが返ってこない事を確認すると、何も言わずに彼女へと手を差し出した。 その瞬間、彼女は初めて顔を上げたのだった。酷く蒼褪めた顔つきで、その眼差しは何かを訴えかけているかのようにも思える。そしてそれを確信に至らせるかのように、彼女は声も無くゆっくりと唇を開いた。 タ ス ケ テ 俺にはそう言っているようにしか思えなかった。この部屋は……彼女にとっての監獄に他ならない。いつまで待っても帰ってこない、血の繋がりさえ無い"兄"を待つだけの空間。そこに犇めき合うのは自らの孤独と記憶の残像だった。 そんな彼女に手を差し伸べようとしている。俺の中でそうすべきだと訴えかける本能の声に従って。 そして蒼白い彼女の肌に触れた瞬間、俺の手は空を切っていた。 「――ッ?!」 未だに夢と現実の狭間を漂っているような、奇妙と言えば奇妙な目覚めだった。底無しの不安にかきたてられるかのような嫌な感覚が胸に残り、それを拭うようにして"彼女"の姿を探そうとする。 しかし、それはすぐに徒労に終わった。昨夜と同じく、当の本人は俺の腕の中で気持ちよさそうに寝息をたてている。まるで何も無かったかのように無邪気な寝顔をあらわにして。 「イリア」 殆ど聞えるか聞えないかくらいの小さな声で囁きながら、夢の中で触れる事の出来なかったその肌にそっと指を這わせた。その瞬間、細くて長い睫毛が震えたかと思うと、彼女は間の抜けた声を漏らしながらゆっくりと目を開いた。 「悪ぃ……起こしちまったな」 口元に微かな苦笑を残しつつも、大して悪びれるようも無く囁きながら彼女の髪に指を絡ませる。 イリアはそれに応える代わりに大きな目を細めて、にっこりと笑って見せた。そして暫くの間二人でじっと見詰め合った後に、思い出したかのように「ありがとうね、シオン」と言った。 ありがとう……たったそれだけの言葉が今の俺にとっては物凄く嬉しかった。だって、今までのイリアであればきっと「ごめんね」と言っていたに違いないから。そして敢えて「ありがとう」と言ってくれたという事は、きっと俺の事を頼りにしてくれるようになったという事だから。 都合の良い解釈かもしれないけれど、俺の中にはそれを確信に至らしめる何かがあったのだ。 「お互い様だろ?」 いつものようなシニカルな笑みを浮かべながらそう返してやる。それに応えるように、先程とは違う、まるで小さな子供のように無邪気な笑みを浮かべた彼女は「そうだね」と笑い声と共に応えた。 おざなりに朝食を終えた俺達は再び北西に向かって歩き出していた。 見渡す限り冴え渡った青空が広がり、夕日に染まって金色に輝いていた昨日とは全く雰囲気の違う青々とした草原が広がっている。 当の俺達はと言うと、この空のような晴れ渡った気分で、意気揚々と草原を闊歩していた。すぐ隣では無邪気な笑みを浮かべたイリアが「何か遠足みたいだね」なんて嬉しそうに喋っている。そんな彼女に適当な相槌を打ちながら、俺はアドビスでの出来事を思い出していた。 未だ回りから疎まれる"王子様"でしかなかった自分を誰よりも疎ましく感じていた俺自身に彼女が言ってくれた言葉。 ――いいんだよ、子供で。子供でいられる時間……無かったんでしょ? 他のどんな言葉よりも嬉しかったんだ。子供の俺を受け入れてくれるという事は、身分とか境遇とか、そんな物を取っ払った裸の俺を受け入れてくれるという事だから。 そして今、イリアの傍で『子供でいられる』自分が嬉しかった。 「な、競争しようぜ」 「何を?」 「先に神殿を見つけられた方が勝ち。ほら、行くぜ!!」 そう言いながらイリアに背を向けて走り出す。後ろの方からは「あっ、ずるい!」と言うイリアの声と、豪快に地面を蹴る音とが重なって聞えて来た。 ザッザッ、と土を踏みしめる小気味良い音と共に、俺達は子供時代にかえったかのように元気良く草原を走り抜けて行った。 「ははっ、シ・オ・ン、遅いよっ♪」 何時の間にか追い越されてしまった俺は、情けなく息を切らせながらも何とか彼女の元へと追いついていた。 その一方で余裕綽々といった彼女は可愛らしい笑顔を浮かべながら俺を見つめている。彼女の向こうには周りの景色とは異質な、色褪せた古めかしい遺跡が建っていた。それは壁が崩れ去って柱だけが残った廃墟であり、凡そこの世界の均衡を保つと言われているイェールス神殿からはかけ離れたものだったのだ。 「ねえ、これがイェールス神殿なの? 随分ボロボロだけど」 「……お前、昨日の夜に寝ぼけたままここまで来てタコ殴りでもしたんじゃないだろうな?」 目の前に横たわる廃墟に呆然としながらも、いつも通り彼女をからかうのを忘れない俺。すぐ後に物凄く後悔する事になるなど知る由も無いのだが。 「む〜〜シオンったらまたそんな事言って!! だいたい、昨日の夜はシオンが離してくれなかったんだからね!! ずっと抱きしめてたじゃない!!」 自分が何を言ったか気付いたらしいイリアは顔を赤らめながら視線をさ迷わせている。対する俺も、体中の血が顔に集まってくるような感覚に襲われて頭がカッと熱くなっていた。成る程……未だに"女"に対する免疫は出来ていないらしい。我ながら情けない事限りない。 「あ……あの、その……ううんっ、そ……そうだ、中を調べるぞ!!」 歯切れ悪く言いながら遺跡の中に足を踏み入れていく。「う…うん」と同じく歯切れ悪く返しながら、彼女も歩き出した。 遺跡は神殿と呼べるほど大きな物ではなかった。 壁が抜けているお陰でまだ広く感じるのかもしれないが、それでもイエソドやネツアクに比べればかなり狭い。あれの広間一つ分といった所か? 床にはボロボロになった粘土版が敷詰められており、その中央には結界の刻まれた大理石が分不相応に置かれている。結界の核を為す五芒星の頂点からは腰ほどの高さにまでロッドが立っており、その頂きには翡翠色の水晶が設えられていた。 「あ……何か変な言葉が書いてあるよ。シオン、読める?」 イリアの指差す先に視線を向ける。結界の向こうには崩れ落ちた石版があり、そこには古代文字で色々と書かれていた。 「んーー駄目だな。俺の手帳があれば何とか解読できるんだが……持ってねぇよな?」 彼女は首を横に振りながら「あれは王様に渡したから」と答えた。 「ん? 待てよ……下の方に何か書き殴ってある。これはまだ新しいみたいだ。ええと……」 「道……? 後は良くわからないよ」 「少し古い文体で書いてあるんだ。『水晶に手をかざせ。さすればイェールスへの道は開かれん』ってな所か?」 それを聞いたイリアは水晶の上で手を振り回しながら「あれあれ?」なんて間抜けな声を漏らしている。中々に滑稽な光景だ。 「全く……手を振りまわしただけでどうにかなれば世話無いぜ」 「だって、そうしろってシオンが言ったんじゃない!!」 そう抗議するイリアを尻目に、俺は水晶の上に手を翳して魔力を放出した。 翡翠色の水晶は一つずつ蒼白い光に包まれていく。 「わぁ……凄い」 「多分水晶に魔力を注ぐ事で結界が働くんだろ? ほら、早くこの上に乗れって」 彼女が恐る恐る結界の上に乗った瞬間、辺りの景色がゆっくりと動き出した。どうやら俺達を乗せた大理石ごと上昇を始めたらしい。 イリアは反射的に俺の服の裾を掴むと身体に抱き着いてきた。先ほどの熱に似た感覚が体中を襲い、頭の中がぼんやりとしていく。 「お……おい、そんなに身体を摺り付けてくるなって!」 「だって怖いんだもんっ!!」 「あ…いや……だからと言ってだな……」 言葉に詰まりながらも、敢えてイリアを拒みはしなかった。 俺はただこの温もりに慣れていないだけなのだ。今まで独り冷たい世界で生きてきたから、この温もりを信じる事が出来ない。いや……違うか。温もりが消えてしまうその瞬間を恐れているんだ。 ぼんやりとそのような事を考えていると、俺達を乗せた大理石はゆっくりと上昇を止めた。そして目の前には荘厳な雰囲気の神殿が聳えたっていた。 「イェールス…………」 空を切るような鋭い風の音が俺の声を掻き消すように走り抜けて行った。 イェールス神殿はそれまでのネツアクやイエソドとは違った雰囲気に包まれていた。 その柱の一本一本に至るまで美麗な装飾が施され、建てられたばかりであるかのような美しさをもってそこに鎮座している。 「うわぁ……何か凄いね」 いつもながらに緊張の欠片も感じられないイリアのコメントに我に返った俺は思わず吹き出してしまった。 「ああ〜〜また私の事馬鹿にしたでしょ?」 「あのなぁ、オッツ・キイム五大神殿の一つなんだぜ? もう少し気の利いた事言えないのかよ?」 「じゃあシオンだったら何て言うワケ?」 「そうだなぁ……高貴で素晴らしいシオン様のように美しいとかだな――」 「き〜こえ〜ないッと」 半ば呆れ顔のイリアは馬鹿にしたような口調で言いながら、軽くステップを踏んで神殿の入り口へと向かって行った。 「あ、おいっ! 俺様を無視して勝手に行くんじゃない! 迷子になっても知らないからな!!」 「ふーーんだっ、シオンだってのんびりついて来て迷子になったって探してあげないんだからね」 そんな風にして軽口をたたきながら、俺達はイェールス神殿へと足を踏み入れて行った。 神殿の中は異様な静けさに包まれていた。 外をふきすさむ風の音すら聞えず、ひんやりとした空気がやたらと肌に絡み付いてくる。 エントランスは吹き抜けになっており、視線を上に向けると、空を模したような絵が天井に描かれていた。外観と同じく至る所に豪奢な装飾が施されており、それはアドビスを思い起こさせた。そして前方には扉が、その両脇には二階へと続く階段がある。ぐるりと見回してみると左右の壁にはそれぞれ九つの小さな扉が立ち並んでいた。 「迷路みたいだね」 一通り見回したらしいイリアは、先程よりかはやや低いトーンの、それでも幾分かは楽しそうな声色でそう言った。きっと『迷路』という響きに心惹かれるものがあるのだろう、そんな風に考えながら改めて「無邪気だなぁ」なんて思ってしまう。 「ああ。俺から離れるなよ」 そう言うや否や、彼女は俺の腕に抱きつきながら「うん」と応えた。 「だから……」 「迷子になったら大変だもん」 「だからだな……」 「嫌?」 「う……」 はっきり"嫌だ"と言えない自分に苦笑しながら――事実"嫌"という感情とは違うのだが――俺達は神殿の奥へと進んで行った。 予想通りというかお約束通りというか……やはり神殿内は迷路の如く複雑な造りとなっていた。まるでイエソドのそれを彷彿とさせるような、数時間歩いていると自分のいる場所すら解らなくなってしまう。 未だ俺の腕に抱きついているイリアは、流石に疲れたのだろう、先程までの元気をすっかりと無くして、ただ無言のまま歩いていた。 「なあ、今日はここら辺で休むか? 魔物とかいなさそうだし」 コクリと頷いたイリアは緩慢な動きで身体を離していく。身体を摺り寄せられていた時は何かと気恥ずかしい感じがしたけれど、いざ離れられると寂しい感じもする。全く……我ながら素直に喜ぶなり悲しむなりすれば良いだろうに。 「イリア?」 「ん……何?」 「いや、大分疲れてるみたいだから」 髪に手を当てながら微笑を浮かべるイリア。やはり何と言っても女より男の方が体力があるのだろう。昔の俺達では考えられない事だけれど。 「ちょっとね。疲れたかな」 イリアは間の抜けた声を漏らしながら背伸びをすると、「私、休むね」と言いながらごろんと床に横たわった。 「飯は?」 「ううん、今日はいらない」 「そうか。じゃ、おやすみ」 「うん。おやすみ、シオン」 少し間を置いて可愛らしい寝息が聞えてきた。 そんな彼女の髪をそっと撫でてやる。そして壁を背にして座り込むと、静かに目を閉じた。 混沌とした闇の中で、ぼんやりとした意識は徐々に輪郭を持ち始める。 孤独と記憶の残像が交差する世界――その一番深い場所に俺はいた。鬱屈とした空気が肌に纏わりつき、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。 そのような場所に彼女はいたのだ。 全ての悲しみが始まった場所で、彼女は立ち上がる力も無く、項垂れたまま壁を背に座っていた。 「……イリア」 やっとの事で紡ぎ出した言葉は酷く擦れ、重たい空気を纏っていた。 俺の声に反応した彼女はゆっくりと顔を上げ、青紫色の唇をゆっくりと開く。 「兄さんがね……死んだんだって。私は女だから…………女だから何も出来なかった。もし男だったら兄さんを助ける事が出来たのに」 その顔はまるで冴え冴えとした蒼白い月のようだった。そう……遥か空高く、暗闇の中で薄らと光り輝く月のように。 「例えお前が男だったとしても……ザードを助ける事は出来なかった」 彼女に向かってゆっくりと歩き出す。薄暗い闇の中に響く足音は酷く思考を掻き乱した。 「シオン……君は僕を助ける事が出来た?」 背筋に冷たい何かが走り抜けて行くような嫌な感触に襲われて、思わずその場に立ち竦んでしまった。強い非難の篭められた彼女の瞳に気圧されたのだ。 「……出来た筈がないよね。だって君は自分すら救う事が出来なかったんだから。クレリックの血筋を汚した忌むべきウィザード――そう、君は君自身から乖離していた」 「イリア、俺は――」 その瞬間、蝋燭の火を吹き消したかのように光が消え、世界は身体に染み込んでくるような深い闇に包まれた。 そして次に聞えてきた声は俺を戦慄させるに足る物だった。 「――ようこそ、愚かなる人間よ」 第四章 fin 最終章 a distance between U and I 「――ようこそ、愚かなる人間よ」 全ての光が失われた瞬間、混沌とした闇が微かに震えた。 俺は胸の中に沸き起こる恐怖を禁じえなかった。まるで泥濘の上に立っているかのように足が言う事をきかず、身体中の筋肉が小刻みに痙攣している。それを押さえつけようと右手で左肩を握り締める。しかし震えがおさまったりはしなかった。 「イールズ……オーヴァ」 唾をごくりと飲み込むと、忌むべきその者の名を口にした。 直後、一筋の光が目の前の闇を切り裂く。そして満足げな笑みを浮かべた奴は、記憶の中にあるそのままの姿で俺の前に姿を現した。 「覚えていて下さったとは光栄です、シオン王子。いや、失礼しました。貴方はもはや王子などではない。それとも……初めから王子などではなかったのですか?」 「……イリアをどこにやった」 「誤算ですよ。アドビスに生まれたウィザード……この誤算が全てを狂わせた」 「イリアはどこだ!!!!」 「イリア? ああ……愚かにも私を殺そうとした少女ですか。彼女ならここに」 イールズ・オーヴァが指を弾いた直後に、眩い光を伴いながら彼の背後に巨大な十字架が現れる。そしてその中央には蔦のような物で身体を縛り付けられたイリアの姿があった。気を失っているのか、彼女はピクリとも動きはしない。 「イリアッ!!!」 「待ちなさい。一歩でも動けば彼女を殺しますよ」 足を踏み出そうとする俺を威圧的なイールズ・オーヴァの声が制する。マスク越しに見える冷たい金色の瞳はそれが偽りでない事を確信させた。 「それでいい、賢い人は好きですよ」 「クッ……もしイリアに傷一つでもつけたら――」 「私を殺すとでも? 冗談でしょう。自らの命と引き換えにした"あの"魔法ですら私を殺すには至らなかった。また同じ余興を見せるおつもりですか?」 「…………」 「フフ、安心なさい。貴方が私の言う事をきく限り、この少女には何の危害をも加えたりはしません。凡庸な人間に興味などありませんから」 そう言うとイールズ・オーヴァは身体を翻し、イリアが縛り付けられている十字架に向かって歩き出した。 「この十字架、見覚えがあるでしょう? アドビス大聖堂のものです。貴方を必要としないあの国が神を崇めて作ったものだ」 「ふんっ……いちいち棘のある野郎だぜ」 「お気に障ったのであれば謝りましょう。兎も角も、これは人間の深き業の標――自らの犯した罪から逃れる為の免罪符でしかない。だがこのような物で人間の罪が許されるとでも? 人間の創造物ごときが偉大なる神の慈悲を為し得るとでも? 貴方ほどの人間であれば解る筈だ、違いますか?」 「随分と買ってくれるじゃねーか。それに異世界で悪趣味を満喫していたお前がいつから神を信じるようになったんだ?」 「私とて所詮は神の創造物でしかない。人間の手で作られた免罪符がこの十字架であるとしたら、神の手によって作られた免罪符がこの私なのですよ」 「馬鹿な!!」 「アドビスに生まれたウィザード……貴方は神の摂理に反した存在なのです。即ち、神によって科せられた頚木から人間を解き放つ唯一の存在。選びなさい。人間の英雄となるのか、それとも一人の少女の為にここで朽ち果てるのか!!」 その瞬間、空間が歪むような凄まじい音と共にイールズ・オーヴァを中心とした磁場が一気に崩れ去った。それによって統制を失った魔力が衝撃波となって襲いかかってくる。 「さあ、どうするのです?!」 防御磁場を張ればこれくらいの衝撃波など難なくかわす事が出来る。しかしそうすれば俺が助かる代わりにイリアが死んでしまう。仮に自分だけ助かったとして、イリアがいない世界で生きる価値などあるのか? シオン、お前はどうするんだ?! 「さあ!!」 「俺はイリアさえ無事ならどうなってもいい!!!!」 「ならば死ぬがいい、神に背きし者よ!!!」 眩い光に飲み込まれてバラバラに崩れ去って行く意識の中で、俺は必死になってイリアの記憶を手繰り寄せていた。 ――貴 方 は 神 の 摂 理 に 反 し た 存 在 な の で す 少しずつ輪郭を持ち始めた意識の中で、イールズ・オーヴァの放ったその言葉が何度も繰り返されていた。 神の摂理に反した存在……神によって科せられた頚木から人間を解き放つ唯一の存在……全てが夢だったとでもいうのか? いや、それともこれは死に向かって徐々に失われつつある意識の残像なのか? そうだ、イリアは? イリアは無事なのか?! 「イリア!!!」 そう叫んだ瞬間、目の前の闇が一気に退いて眩いばかりの光が飛び込んできた。思わず両手で目を覆ってしまう。 「シオン、大丈夫?!」 「え……あ…………イ、イリア?!」 反射的に手を離した俺の視界に飛び込んできたのは紛れも無くイリアだった。 「お前無事だったのか?!」 「私? 私は何ともないわよ。それより目を覚ましたらシオンが物凄くうなされてるし、見た事も無い変な場所に来てるし……一体どうなってるんだか」 「変な場所?」 そう言いながら起きあがると、辺りをぐるりと見回してみる。成る程、イリアの言う通り俺達は昨夜暖を取った場所とは違う、全く見た事の無い所にいた。 そこは見渡す限り大理石で埋め尽くされた荘厳な聖堂だった。床には歩幅程度の赤い絨毯が敷かれており、その先にはこじんまりとした祭壇のような物がある。 『シオン、選ばれし者よ――よくぞ試練を乗り越えてここまで来ました』 男とも女ともつかない中世的な声。それはイエソドやネツアクで聞いた門の番人のそれと同じものだった。 声の主を探そうと辺りを見回してみたけれど、それらしい者の姿は見当たらない。 「試練?」 突然そのような言葉を口にした俺をイリアは訝しげに見つめている。 『己の為に他を投げ捨てるような人間に水晶を手にする資格などありません。世の理とは心一つで聖とも邪ともなり得るもの。それ故に貴方を試したのです』 「ったく……相変わらず酷ぇやり口だな」 『行きなさい。水晶が選んだのは貴方……』 俺は肩を竦めると一つだけ大きな溜息を吐いてみせた。そして顔だけ後ろ斜めに向けて「水晶は祭壇の上にあるらしい。そこで待ってろ」と言うと歩き始めた。 祭壇の手前まで来た時、後ろから「気をつけてね」というか細い声が聞えてきた。 『シオン……よくぞここまで辿り着きました。貴方に私の持つ知識を授けましょう』 水晶に触れた瞬間、先程と同じようにして頭の中に声が流れ込んでくる。しかし違うのははっきりそれと解る女の声で、という所だ。 俺は目を閉じると、声の主と同調するようにゆっくりと精神領域を開放した。 「その前に聞きたい事がある」 『……私に答えられる事ならば』 「門の番人は俺の事を"選ばれし者"と言った。それはどういう意味だ?」 『誰もが水晶の知識を手に出来るわけではありません』 「それが答えか?」 『そうです』 「ならばもう一つだけ問う。神によって科せられた頚木を解き放つとはどういう事だ?」 『…………』 「神の摂理に反した存在とは」 『貴方はイールズ・オーヴァの素顔を見た事がありますね?』 「ああ、俺達と同じ人間だ」 『しかし彼の持つ魔力は人間のキャパシティを大きく逸脱している』 「人間ではない、と?」 『魔物とは……罪深き人間に対する神の制裁。知性を持たずただ人間を駆るだけの存在』 「…………」 『イールズ・オーヴァは貴方の存在を誤算だと言った』 「ああ」 『クレリックとして生まれる筈のウィザード。知性を持たぬ筈の魔物。どちらもが誤算だった』 「――?!」 『行きなさい。貴方はあなたの道を』 「待て、俺は」 『貴方に私の知識を授けましょう』 その瞬間、水晶が眩い光を放ったかと思うと背後から絹を裂くような悲鳴が聞えてきた。 「イリア!!」 振りかえると反対側の扉が開いており、そこから何匹もの巨大な魔物がイリアめがけて突進していた。 「チッ……クリエ クリエ ストヴィア ヴィラル ヴェトヴェル リィオリ ヴァイス!!! 力の意志よ、我に従え!!!! !」 呪文を唱えるのと同時に、目の前に赤く輝く五芒星の印が浮かび上がる。印の中央からは赤黒い炎が噴出し、物凄いスピードで地面を這いながら魔物へと向かっていく。それはまるで生き物のように見えた。 「きゃっ?!」 何が起こったのか飲み込めていないらしいイリアは、俺と魔物を交互に見返しながら呆然と立ち尽くしていた。 「地面に伏せろ!!」 「グギャァァァァァ!!!!!!!!」 俺の声と魔物の咆哮が重なり、物凄い爆音とともに魔物の身体が砕け散る。一方のイリアは腰を抜かしたのか、その場に座り込んだままガタガタと震えていた。 「おい、イリアッ、大丈夫か?!」 そう叫びながら急いでイリアの元へと駆け寄って行く。そして呆然と座り尽くした彼女の身体を思いきり抱きしめてやった。腕の中でぶるぶると震えるその姿は酷く痛々しい。 「もう大丈夫だからな。魔物は俺が――」 言葉を遮るようにして背後から物凄い爆発音が聞えてくる。 「何?!」 「シオン、祭壇が!!」 反射的にイリアの指差す方向に顔を向ける。水晶の安置されていた祭壇が炎に包まれ、側壁には幾つもの大きな皹が走っていた。 「クソッ……一体どうなってやがる!!」 悪態を吐きながらイリアの身体を抱き上げると「歩けるか?」と声をかけた。 「う……うん、大丈夫」 「じゃあいくぞ! 取りあえずここから出るんだ!!」 扉の外に出ると、目の前には見覚えのある景色が広がっていた。見渡す限りの青い空、そして大理石の上に刻まれた結界。ただロッドの頂上に設えられた水晶は一つを除いて全てが割れている。 「さあ、ここが崩れちまう前に早く!!」 そう言いながらイリアの手を引いて結界の上に乗る。そして残された水晶に手を翳すと魔力を開放した。 ――ボウッ 「あ……」 水晶は一度だけ蒼白い光を纏ったかと思うと、すぐに元に返ってしまう。 「もう一度!!」 自分を鼓舞するように言いながらもう一度魔力を開放する。しかし結果は同じだった。「シオン、一体どうしたの?! 早くしないと神殿ごと崩れちゃうよ!!」 「解ってる……解ってるけど―――!!」 その瞬間、一つの考えが頭を過った。 もしかするとそれぞれロッドの上に乗った水晶は一人を移送するに足るだけの魔力を蓄える装置なのではないか? 初めあった水晶は五個、つまり五人まで移送できる。しかし今は一つだ。この仮説が正しければ一人しか移送できない……と言う事になる。そしてどちらにしろ移送は一回限り……イリアが魔力を持っていない限り結界を再びここまで送り返す事は不可能に近い。 「イリア、よく聞くんだ。俺の予想通りならこの水晶の数と移送可能な人数は一致して……いや、だからつまり水晶の数だけ移送できるって事だ。つまり今移送できる人数は――」 「一人?!」 「そうだ、だからお前が先に行け」 「い……嫌だよ、私一人で行くなんて! シオンも一緒に!!」 「二人じゃ動かないんだ。だから」 「だったら私は後でいいから、シオンが先に行って!」 「お前には結界を動かす力が無いだろうが!!」 「でも……シオンいっつも私の事ばかり気を使って自分が無理するじゃない!!」 「それとこれは別だ! 俺が先に行ったらお前は帰れない。でもお前が先に行けば後で俺も帰ることが出来る、そうだろ?」 「でも……」 「約束しただろ、もう二度と一人にしないって。だから絶対に帰ってくる」 「…………」 「いいな?」 「……うん」 俺は一度だけイリアの肩をポンと叩くと、素早く結界の外へと出て行った。そして生き残った水晶の上に手を翳して再び魔力を開放した。 ――ボウッ 予想通り、今度は水晶に光が灯る。そして結界自体が薄く発光したかと思うと、イリアを乗せた大理石はゆっくりと下降を始めた。 「シオン、約束だからね!!」 今にも泣き出しそうなイリアは、両手で胸のアミュレットを握り締めたまま、俺をじっと見つめていた。そんな彼女を見ていると後ろめたい感情がもやもやと沸き起こってくる。何故なら、イリアはこれが最後の別れになるだなんて知りもしないのだから。そう仕向けて……彼女を騙したのは他でもない俺自身なのだから。 きっと地上に戻った彼女は俺が帰ってくる事を疑いもしないだろう。そしていつまでも俺の帰還を待っているだろう。例えそれが叶わないと解ったとして、きっといつまでも待ち続けるだろう。 酷い奴だ、心の中でそう呟きながら胸のブローチに手をかけ、グッと力を入れた。繋ぎとめる物を無くしたマントはバタバタという音を立てながら宙を舞っていく。そしてブローチを握り締めた俺はイリアの瞳をじっと見つめた。 その意味を悟ったのだろう。彼女の瞳が一気に不安の色に染まり、大粒の涙が零れ落ちる。俺は無理やり微笑を浮かべると、手にしたブローチを彼女に向かって放り投げた。 彼女の視線がブローチに移って、そして再び俺の方へと戻って来た。その瞳には非難の念が色濃く写し出されている。 「嘘吐き!! 絶対に帰ってくるって……ずっと一緒に居てくれるって…………約束したじゃないか……約束したのに…………また私を一人きりにして…………シオン……解ってて……」 そんな彼女にかける言葉を見つける事が出来なかった。俺に出来る事といえばただ微笑んでいるだけで……ただこの瞳に彼女の姿を焼きつけておく事だけで…… 「帰ってこないと……絶対に許さないんだから!!」 最後の言葉が胸にグサリと突き刺さったまま離れなかった。 | |||
to be continued... | |||
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