夜雪  いつも通りの残業を終えて会社を出た頃、辺りはすっかりと暗くなって、夜の衣を纏った街が目の前に広がっていた。  ぼんやりと白い光を放つ街灯、幻想的に輝くネオンサイン、そしてイルミネーションに彩られた樅の木ーー何もかもがクリスマスの色に染まっているようで、その中で私一人だけが取り残されているような気がした。  去年までは当たり前のはずだった光景が何か物悲しく思えて。そんな感傷に浸っている自分に少し驚きながらも、吐き出した白い息をかき消すように足早に歩き始めた。地面を踏みしめる度に微かに降り積もった粉雪が舞い上がって、キュッキュッという小気味良い音が耳に響く。 『イヴの夜に雪が降ればいいんだけどな』  数日前に彼がふと漏らした言葉が頭をよぎって、私は思い出したように携帯を取り出すと、履歴に残った一番新しい着信にリダイアルをかけた。  プププププ……無機質な発信音を聞きながら、履歴が全て彼の名前で埋め尽くされている事に思わず微笑んでしまう。ただ純粋に嬉しかったのと、そんな些細な事にさえ喜んでいる自分が何となく滑稽だったのだ。  プルルルル、プルルルル、ブツッ 「もしもし」 「あ、カイ?私だけどーー」 「ただいま電話に出る事が出来ません。御用の方は発信音の後にお名前とご用件をお願いします」  ピーッという発信音を聞きながらどこかがっかりしていた自分がいた。  今までずっと一人身で生きてきて、それが当たり前だったのに……いつの間にか生活の中心に彼がいて、彼の言葉や行動に一喜一憂するようになって。そんな自分が可愛い半面怖くもあった。 「もしもし、私だけど……まだ帰ってきてないみたいだな。さっき仕事が終わって、もしカイが暇だったら会いたいなって思ったんだけど……あっ、ほんのちょっとだからな!でもまだ残業してるみたいだから……うん、少し残念かな。イヴは一緒に過ごせたらいいなって思ってたから。ええと……別に責めてる訳じゃなくて、私だって今まで仕事だったワケだし……だから……うん。とにかく……大好きだよ、カイ。お仕事頑張ってな」  話せば話すほど頭の中がゴチャゴチャになって、半ば逃げるように電話を切ると、携帯を握り締めながらその場に立ち止まった。  しんと静まり返った夜の街に行きかう車の音だけが近づいては消えていって、一人取り残された私は唇を軽くかみ締めながら地面に視線を落とした。  街灯に照らされた淡雪がキラキラと輝いていて、それをぼうっと見つめながら、カイが傍にいてくれたらどれだけ美しく映っていただろうか、と心の片隅でひっそりと考えていた。    10分くらい歩いて一人暮らしのマンションまで帰ってくると、白々と輝く月明かりを頼りに鍵を開けて中へと入っていった。  玄関の脇にある電気のスイッチを入れて、細長いキッチンを通り抜けて主室のドアを開ける。おおよそ女の部屋とは思えない、こざっぱりとした飾り気のない部屋をこれ程までに味気なく感じたのは初めてだった。  溜息を吐きながら鞄を下ろして、ふと視線を横に向けると、パソコンラックの上に置いた留守番電話のランプがチカチカと赤く点灯していた。誰からだろうと思いながら再生ボタンを押してみる。そしてベッドの上に腰を下ろすと、そのままごろんと横たわった。 「あ……ジェンド、俺だけど」  男にしては少し高めの優しい声が聞こえてきて、それに応えるようにゆっくりと電話の方へと視線を上げる。 「ごめんな、仕事長引いちゃって。今日は早く上がるつもりだったんだけど……でも電話くれて凄く嬉しかった。アリガトな。俺もジェンドの事大大大大大好きだよ!」  バカだなぁと思いながら、気がついたら口元を緩めていた。私にはそんなコト出来ないから……たまに子供みたいなバカをやる彼がたまらなく可愛く思えるのだ。口では軽くあきれてみせながらも、そんな彼を見るのが大好きだった。  ピンポーン。  突然鳴り響いたチャイムの音にハッと我に返る。そして気だるい身体をゆっくりと起こすと、手櫛で髪を整えながらノロノロと玄関に向かって歩いていった。ドアスコープから外を覗こうとしたけれど真っ暗で何も見えない。訝しく思いながらゆっくりとドアを開けると、やはり外には誰もいなかった。 「何だ……イタズラか?」  少しムッとしながらドアを閉めようとしたその瞬間。 「無用心だな、ジェンド」  背後からついさっきまで聞いていた声が飛び込んできて、反射的に身体を翻した私は思わず「あっ……」と声を漏らしてしまった。 「へへっ、驚いただろ?」 「だって……お前仕事じゃ?」 「そんなの猛スピードで終わらせてきたにきまってるじゃん。誰かさんが寂しくて夜泣きでもしてるんじゃないかって気が気じゃなかったからサ」  イタズラっぽい笑みを浮かべるカイ。半分図星なだけに、私は照れ隠しにそっぽを向くと、少しだけ唇を尖らせて言葉を続けた。 「そんなワケ……」 「無いのか?」 「…………」 「じゃ、帰っちゃおっかな?」  反射的に彼の服をつかむ私。その時に初めて彼の上着が水に濡れていた事に気付いた。 「お前、びしょ濡れじゃないか!?」  顔をじっと見つめると、彼はバツが悪そうにハハッと笑いながら頭をポリポリとかいてみせた。 「いやさ……急いで来ようと思ったんだけど、雪で何度も転んじゃってさ」  何だかその光景が思い浮かぶようで、私は心がふんわりするのを感じながら彼のたくましい胸にそっと顔を埋めた。 「バカ……風邪ひいたらどうするんだよ」 「そしたらジェンドに看病してもらうさ」 「世話代……高いからな」 「じゃあチュー1回」 「…………」 「ダメ?」 「……10回」 「ふふっ……甘えん坊さんだなぁ、ジェンドは」 「……悪いか?」 「悪いワケ無いだろ?むしろ大歓迎だって」  そう言うと彼はそっと私の肩に触れて、ゆっくりと二人の身体を引き離した。そして恥ずかしくて俯いていた私の頬をなでるようにして触れると、優しく自分の方へと顔を向けさせた。 「大好きだよ……ジェンド」  応える代わりにそっと目を閉じる。冷たくなった唇が私のそれと重なって、ついばむように口付けを交わしながら、彼のごつごつした指が私の髪の毛を優しくなぞった。そして惜しむようにして唇を離した瞬間、鼻の頭に何か冷たい物が触れた。 「あ……」  嬉しそうに声をあげるカイ。後を追うようにして、彼の頬に舞い降りてきた淡雪がすぅっと消えていく。 「雪も俺達のコト妬いてるのかな?」 「どうして?」 「あんまり二人がアツアツだから冷まそうとしてるのかも」 「バカ……でもーー」 「ん?」 「そういうトコ……大好きかも」 「へへっ」 「へへっ」 「あ……そうだ、忘れてた」 「何だ?」 「メリークリスマス、ジェンド」 「……ああ、メリークリスマス。カイ」  そうして、雪に包まれた宵闇の中で私達は再び唇を重ねた。