止めどなく雨が降っている。
 大粒の雫は小石のようで、肌を打つ度、微かな音を立てながら砕け散っていく。僅かばかりの体温を奪いながら、それは、微熱の如く渦巻いている興奮を冷ましていく。
 理性を失うほど酔っていた訳ではない。むしろ、今日は殆ど呑んではいなかった。
 だから、これを酒のせいにするわけにはいかない。全ては俺の意志によってやった事なのだから。

moonlite shadow


 何故あんな事をしてしまったのだろう。一人雨の中に佇み、自分自身にそう問いかけてみる。しかし、いくら問いかけてみても、答えは初めから決まっているのだ。

ーーわからない

 そう、俺には解らない。強いて言うなら、ああいう気分だったというそれだけだ。今日に限って、酒を飲んで気分が盛り上がるとか、そういう事は全くなかった。そんな時、一人の女が声をかけてきたのだ。相手は随分酔っていたらしい。
 はじまりは他愛のない話だった。確か……いや、細かい話など覚えてはいない。それほど取り留めの無い話だった。殆ど彼女が一人で話していて、俺はお世辞にも上手とは言えない聞き手に徹していた。それだけの筈だった。だけれど、それが彼女にはお気に召したらしい。次第に、自分の生い立ちや、今まで付き合ってきた男の事とか、そんな事を話し始めた。
 しばらく経った後の事だった。どういう訳だか、彼女を部屋まで送っていく事になったのだ。別に他意などありはしなかった。俺にはジェンドがいるわけだし、現状に不満などーー全くないと言えば嘘になるけどーー殆どありはしなかった。だけれど、彼女に誘われた時、俺は断りはしなかった。
 別にいいかーーそれだけの思いで女を抱いた。
 手際良く服を脱がせて、せがまれるままにキスをして、前戯も程ほどに彼女の中に入っていって。ジェンドとご無沙汰だったせいもあるかもしれないし、彼女以外の女を抱いたのが初めてだったせいもあるかもしれない。彼女の中は予想以上に気持ちよくて、俺は無我夢中で腰を振って、何度となく果ててしまった。
 全てが終わって、隣で何もなかったように眠る彼女を見ながら、俺は何も感じてはいなかった。傍にあったタオルで下半身についた体液を拭き取って、彼女を起こさないよう静かにベッドから降りた。起こさない方が賢明だと思ったのだ。彼女だって、酔った勢いで男に抱かれたことなど覚えていない方がいい。俺自身も、厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだった。だから、そのままそそくさと部屋を後にしていった。
 知らない女と寝てしまった事を後悔しているわけではない。多分、そうだと思う。だけれど、俺の心は完全に動きを止めてしまっていた。ただ呆然と雨の中に立ちすくんで、微かに霞んだ景色をぼうっと見つめていた。そうして思い出したのだ。ジェンドが待っていると。彼女は、俺が他の女を抱いていたなんて知る由もない。それを知ったなら、彼女はきっと傷ついてしまう。だから、決して悟られてはいけない。何もなかったように装って、ただいまのキスをして、軽く抱きしめて、そう、いつも通りにすればいい。
 この時の俺は考えもしなかった。彼女を裏切ったその行為自体が彼女を傷つけることだと。ただ、知られなければよいと、それだけを考えていた。

 家に辿り着いた時、既に灯りは消えてしまっていた。いつもの彼女ならまだ寝る時間ではない。体調でも崩したか、それとも、帰りが遅いのにふて腐れているのか。俺は下唇を軽く噛みしめると、ドアノブにそっと手をかけた。
 カチャッと音を立てながらノブが動く。ゆっくりとドアを開きながら、俺は少しだけ驚いていた。きっと鍵は閉まっているだろうと、そう思っていたのだ。だって、機嫌の悪い時の彼女はいつもそうしているから。
 出来るだけ音を立てないようにして、部屋の中に潜り込んでいった。
 忍び足をしながら風呂場まで歩いていく。手探りでタオルを探し出して、濡れて冷たくなった身体をおざなりに拭いてやった。ゴワゴワとしたタオルが触れる度、肌に鈍い痛みが走り抜ける。まるで皮膚が抉れてしまうのではないかと思った。
 それから、彼女の眠る寝室へと静かに歩いていった。
 窓にかけた分厚いカーテンは閉められていた。月明かりも殆ど入ってこない部屋の中、辛うじて見えるのは、混沌とした闇に彩られた部屋の輪郭のみ。
「ただいま」
 聞こえるか聞こえない声で呟いてみる。しかし返事はない。仕方がないか、等と思いながら、彼女の眠るベッドの方へと歩いていった。
 ベッドに潜り込もうと、布団の端に手を触れた。微かに隙間が出来て、彼女の体温が掌に絡まりついてくる。何故だか、ハッとしてしまった。指先に触れた彼女の温もりーーそれは、冷たくなった身体にはあまりに暖かすぎた。感覚が一瞬ほど麻痺して、思い出すようにしながら、それはあるべき姿を取り戻していく。
「おかえりなさい」と、彼女が言っているような気がした。
 だけれど、実際に彼女が投げかけてきたのは、全く別の言葉だった。
「今頃帰ってきたのか」
 いかにも不機嫌そうな、彼女らしい科白。今の俺には投げかけられて然るべき言葉だろう。
「あはは……起こしちゃった?」
 わざとらしいほど軽率な風に答えてみた。俺に背中を向けていた彼女は、ゆっくりとこちらに振り返って、それから、一つだけ大きくため息をついてみせた。
「もう少し」
 そこまで言って視線を落とした。
「早く帰ってこい」
 何故だか、胸が締め付けられるような思いがしたのだ。躊躇いがちに顔を上げた彼女は、俺の顔をじっと見つめて、おもむろに唇を重ねてきた。
 彼女の温かい手が胸にあてられる。まさぐるように動かしながら、首筋に舌を這わせてきた。
 生暖かい舌の感触に、思わずゾクッとしてしまう。先ほどまでの行為が戯れに思えてしまうほど気持ちよかった。
「ジェンド……」
 不意に彼女が手を止める。
 俺の顔をじっと見上げて、それから、妙に冷たい声で「風呂に入って来い」と言い放った。
 その時の彼女の顔があまりに寂しげで、ある種怒りすら浮かんでいるようで、俺は心臓を掴まれたようにドキリとしていた。

to be continued...

n o t e
 最後まで読んで頂き、ありがとうございました。前々から「透明なあなたと踊るワルツ」みたいなすれ違い系の話を書いて欲しいとリクエストを頂いておりましたので、今回はそれにこたえてみました。多分大半の人には受け入れられない内容だと思いますが、これからもおつきあい頂ければ幸いです(^^;浮気系の話は本来嫌いなんですけど、最近色々と思う所がありまして……

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