ressurection vol.2

 台所の方から包丁の音が聞こえてくる。鋭い刃が木製のまな板を打つ、規則正しい、小気味よい音だ。
 当たり前のように存在する日常のリズム。いつもであれば、それは俺の心を満たしてくれる筈だった。だが今日は違った。その音は延々と頭の中に降り積もっていって、その度に、苛立ちに似た感情がもくもくと沸き起こってくる。いや、この音に対して苛立っているワケじゃない。俺を苛立たせているのは、この音をたてている張本人だ。
 不意に包丁の音がとぎれる。それをまな板の上に置く音が続いて、彼女はこちらに振り返ったようだった。
「どうしたのさ?」
 イリアらしい無邪気な声が聞こえてきた。勘ぐっているわけじゃない。ただ単に疑問に思っただけなのだろう。今の俺にとっては、そんな彼女すら苛立ちの対象でしかなかったけれど。
「別に」
「別にって、そんなわけないでしょ?」
「どうしてだよ」
「帰ってきてからずっとそんな感じじゃない。ムスッとしちゃってさ」
「そんな事ねーよ」
「そんな事あるよ! 私何か気に触る事した? もしそうなら、はっきり言ってくれないと解らないよ」
「だからそんなんじゃねぇって、言ってるだろうが」
「だったら何でそんな言い方するんだよ!」
 急に語気を荒げるイリア。眉間に皺を寄せて、頬をぷぅっと膨らませて、如何にも「怒ってます」なんて主張しながらこちらに近づいてくる。その様子にますます苛ついてしまって。俺は一度だけ彼女の顔を睨み付けると、すっくと立ち上がって、肩を怒らせながら彼女に背を向けた。
「どこに行くんだよ!」
「……食欲が失せたから外の風にあたってくる。俺の分も食っていいぞ」
「ちょ……」
「じゃあな」
 有無を言わせぬように吐き捨てる俺。乱暴にドアを開けて、足早に部屋から飛び出していった。


 鼓動が高鳴っている。
 先ほどの光景が頭の中で繰り返されていた。何度も何度も、決して途切れもせずに。
 目眩を起こしてしまいそうな軽い混乱の中で、「何故あのような事をしてしまったのだろう」という疑問が際限なくわき起こってくる。
 その行為に至った理由は明白だ。イリアがニールの事ばかり見ているから。アイツの事ばかり楽しそうに話すから。でも、何故あのような事をしてしまった? もっと別のやり方だってあっただろうし、彼女にそのような仕打ちを受ける非などありはしなかった。これは俺自身の問題であって、俺には彼女の思考や行動に口を出す権利などありはしないのだ。
 それなのに……何故俺はこんなにもムシャクシャしている? どうしてイリアの事ばかり考えているんだ? アイツの事を思い浮かべる度、深い泥沼の中にズブズブとはまっていくような気がする。その泥は少しずつ俺の内へと染みこんできて、思考すら、その混沌とした闇の中へと飲み込まれてしまう。
「……どうしてアイツなんだ」
 苦々しく呟いて、俺は暗闇の中に歩を進めていった。

 あてもなく町中をぶらついて、辿り着いたのは、外れにある寂れた酒場だった。酒に強いわけではないが、今の俺には、この雰囲気がぴったりとあっているような気がした。
 ドアの隙間から漏れてくるのは灯りだけ。人の声など、殆ど聞こえては来ない。窓硝子はススだらけで中の様子は見えないし、看板と言えば、これまたすっかり錆付いてしまっている。
 まるで今の俺みたいじゃないか。心の中で自嘲的に呟いて、ゆっくりとドアを開けた。
 煙草独特のきつい臭いが鼻につく。次いでアルコールの臭いも。僅かばかり圧倒されてしまいながらも、それを悟られぬよう、足早にカウンターへと向かっていった。目に入った所で、客の数は2・3人といったところか。もっとも、ちらっと見ただけで正確な数ではないけれど。
「一人?」
 椅子に腰を下ろした俺に、女将はさも訝しげに訊ねてきた。まさか同伴が必要な年に見られたわけじゃないだろうが、何となく嫌な感じがする。「一人」という言葉も。
「ああ」
「何にする? ミルクかい?」
「……この店にそれしか置いてないならな」
「ハハッ、ごめんよ。ちょっとからかってみただけだよ。あんまり若く見えたもんでね。悪気はないんだ」
 耳に突き刺さってくるような野太い声だった。悪びれた風もなく、何も無かったと言わんばかりの口調。なるほど、この店の現状にも頷けるのかもしれない。
「だろうな。トリカーナは?」
「あるけど……あんたが飲むのかい?」
「他に誰がいる」
「ハハッ、ごもっともだ」
「金ならある。心配しなくていい」
「やだねぇ、そんな野暮な事をお言いでないよ。ほら、強いから気をつけるんだよ?」
「……ああ」
 グラスに注がれた琥珀色の液体を口に含んだ瞬間、焼き付くような強い辛みが舌に絡みついてきた。しまったと思った時には後の祭り。半分くらい飲み込んだそれが、一気に喉の奥まで流れ込んでいく。
「ほら、言わんこっちゃない。だから強いって言っただろ?」
「生憎、俺も強いもんでね。これくらい何ともないさ」
 見知らぬ人間の前で強がる事もないだろうに。これが俺の実態なのだとしたら、イリアが嫌うのも無理ないのかもしれない。普通酒というものは人を陽気にさせるというが、この俺は例外のようだ。どんどん考えがネガティブな方向へと傾いていきやがる。
 どうしてニールなんだ? よりにもよってどうしてあんな男に。偏屈で、皮肉屋で、嫌味で……そんな単語を並べていると、ふと、それが俺自身であるように思えてくる。あんな男と同じだなんて冗談じゃないが、実際そうなのだからタチが悪い。フフッ、笑えてくるじゃないか。
「どうかしたのかい?」
「……ん、どうかしたか」
「それはこっちの台詞だよ。さっきから難しい顔してブツブツ言ってるからさ」
「なあ、どうしてニールなんだ?」
「誰だい、そのニールってのは」
「何でもない。気にするな」
「そんな風に言われると気になるじゃないか」
「好奇心は身を滅ぼすと言うぞ。気をつける事だな。まあいい。ニールだよ。ニール様。近衛騎士団長のな」
「ああ」
 顔をしわくちゃにさせて渋い顔をする女将。どうやら、ニールの奴は相当有名人らしい。こんな場末の酒場の女将にまで知られてると聞いたら、奴も感動する事間違いなしだろう。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、有名じゃないか。いつも女王様の側に張り付いてるんだからさ」
「なるほど。まあそうかもしれんな。素敵なすてきな近衛騎士団長様ってわけか」
「何が素敵なもんか。あいつはね、私たちの事を見下してるんだよ。いつだってそうさ。汚いものを見るような視線を私たちに向けて、嫌味な奴さ。評判だって酷いもんだよ」
「ふふっ、良く解ってるじゃねぇか。全くだ」


 結局、やっとの事でグラスを空けた俺は、出来得る限りに平静を装いながら、そそくさと酒場を後にした。
 飲めないならはじめから飲まなければいいのに。無理して最後まで飲むことなどないだろうに。我ながらつくづくいい性格をしていると思う。女将も、俺が殆ど飲めないことくらい、始めから解っていたに違いなかった。何度も「およしよ」とか「無理しなくていいから」なんて声をかけてきたけれど、その度に俺はピッチをあげて。まさに自業自得というヤツだが、気分は最悪。体はフワフワ浮いてる感じがするし、かわりに頭は鉛のように重くて、目の前の視界は酷く歪んで見える。全く、酒なんてものを発明した人間は何が楽しくてこんなものを……暗闇の中に目を凝らしながら、心の中で口悪く罵ってみる。くそっ、一体どうすればいい。こんな状態でイリアの元に帰る訳にもいかないし、これ以上歩ける気もしない。俺は一つだけため息を吐き捨てると、近くの家の壁に背を持たれ掛けて、そのままずるずると地面に腰を下ろした。少しだけ休もう……そうしたら頭がすっきりするだろう。少しだけ……ほんの少しだけ……目を閉じた先から、意識はゆっくりと闇の中へと溶け込んでいった。


 暗闇の中に包丁の音が響き渡っている。規則正しい、どこかしら小気味良い音だ。どこにでもあるありふれた音。それでも、俺はその音が大好きだった。何故なら、俺の人生の殆どの瞬間で、その音は当たり前とはかけ離れた存在だったから。イリアと出会うまでずっと。確かに食べ物に困ったことはないし、さすが一流の料理人が作っただけはある、素晴らしい料理の数々が食卓には並べられていた。それでも、一番大切な何かがそこには無くて。俺にとっての食事とは、ただ栄養を摂取するだけのものだったから。だからイリアと出会って、当たり前の温もりを手にした瞬間、本当に嬉しかったんだ。
「どうしたの?」
 不意に包丁の音が止まって、聞き覚えのある声が頭の中に響き渡った。一条の光が目の前の暗闇を切り裂き、その先に難しい顔をした『彼女』が姿を現す。
「別に」
 何のためらいもなく口をついて出る言葉。どこかで見た覚えのある光景だけれど、それとは何か違う気もどこかでしている。
「別に、じゃないでしょ? 帰ってからずっと難しい顔して、一体どうしたのさ?」
 ゆっくりとこちらに近づいてくる彼女。歩を進めるたび度、その顔はますます翳りを増していく。
「だから何でもないって」
「嘘。シオン、私に隠し事してるでしょ? そういう時、いっつもそういう顔するもん」
「そういう顔って……どういう顔だよ?」
「こういう顔だよ」
 丸みを帯びた彼女の手が頬に触れて、その瞬間、心臓が喉から飛び出してしまいそうなほど、一気に拍動を増していった。胸が酷くザワついて、頭の中にもやでもかかったように、冷静な思考が出来なくなる。この感覚……あの時からずっと、この胸の奥に抱き続けてきた。ザードがイリアの写真を見せてきたあの瞬間からずっと。
「どうして……」
「どうして? それはシオンが知っているはずだよ。ねえ、どうして?」
「どうして……どうしてニールなんだよ! よりにもよって何であんな男に!!」
 彼女の顔に笑みが浮かぶ。そして口付けをするような素振りを見せた彼女は、すんでの所で、その唇を耳元に近づけていった。
「……兄さんは私の全てだった」



to be continued...


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