カイとの再開を果たしてから一週間が経とうとしていた。 一週間という時が長いのか短いのか、その問いかけに耐えうる答えなど持ち合わせてはいない。それは雲を掴むかのように、触れようと伸ばした手はただ空を切るだけだ。ただ私の周りではありとあらゆる刻が轟々と音を立てながら走り去っていく。その真中に私がいて、そして私だけが取り残されている。 カイがいて十六夜がいて……そんなささやかな幸せに包まれていたはずなのに、それを受け入れようとしない自分の所為で全てを失ってしまった。そう、私の刻はカイの許を去ったあの瞬間に止まったのだ。愚かな私が求めたのはこの胸に渦巻く憤りをぶつける矛先であり、それは同時に死をも意味していた。カイから逃れるようにオッツ・キイム中のギルドを渡り歩いて、誰も進んで相手をしようとしないような凶悪な魔物に刃を向ける。魔物を切り刻む快楽を全身で感じながら、いつかは殺されるのではないかという微かな期待が胸にあった。そして全てが終わって血にまみれた自分を見つめた瞬間、限りない倦怠と共に十六夜の蔑むような視線を全身で感じるのだ。それは今となっても変わる事は無い。私の奥底へと呪いのように刻み込まれている。 そんな私が彼にどのような顔を見せれば良いというのだろうか。彼は一夜の過ちを今も心に引きずっている。だけれど、そのような行為に及ばせてしまったのは他ならない私。受け入れる勇気が無かったが為に彼の心を傷つけてしまったのも私。そして今、自嘲的な行為の結果として彼に瀕死の重傷を負わせてしまったのもまた私なのだ。私の言葉が、行為が、何もかもが彼を傷つけてしまう。そんな自分がたまらなく嫌だった。
己に対する嫌悪を掻き捨てるように、思いきり息を吸い込むと一つだけ大きな溜息をついた。湯船一杯に張られた湯に波紋ができ、それは少しずつ大きくなっていく。そして水鏡に映った私の姿も大きく揺らぎながら消えていった。 「……カイ」 低く押し殺した声で彼の名を呟く。 そして唇をきゅっと結ぶと、静かに目を閉じた。
あの夜、私はあまりに無謀な勝負に挑んだ。クラスAの魔物……到底私に倒せるわけが無かったのだ。しかし剣を取る事を躊躇いはしなかった。金が欲しかったわけではない。名声が欲しかったわけでもない。その行為の意味はたった二つだった。即ち、魔物の汚れた血でこの身を墜としめるか、あるいは過ちに塗れたこの生に終止符を打つのか――しかしそのどちらもが達成される事は無かった。何故なら、私がやられかけたその瞬間に彼が現れ、結果として彼を救うという大義名分の元に剣を振るったのだから。私を庇って身体中血まみれになった彼を見て、自分の命と引き換えにしてでも彼を助けたいと、そう思った。だがこれは私にとって大きな意味があったのだ。自らの生を無意味に食らい尽くすのか否かという選択を自らに課したという大きな意味が。 無我夢中で剣を振り回して、気がついたら魔物は肉塊と化していた。剣先が地面に突き刺さった瞬間、我に返った私は自らが作り出した惨状を目の当たりにした。そして息を荒げながら、恐る恐る後ろに振りかえったのだ。 彼の周りには大きな血だまりが出来ていた。意識は殆ど無かったろう、苦悶の声を漏らしながら地面に横たわる彼を見て身体中からサッと血の気が引いていくのが解った。 声をかけても答える事は無い。身体を揺り動かしても反応するわけでもない。そんな彼の姿に呆然としながら、頭の中には「ただこのままでは彼が死んでしまう」という思いしかなかった。私は彼の身体を担ぎ上げると、無駄と知りつつ「大丈夫だから」「絶対に助けてやるからな」と声をかけながら町へと向かっていった。既に夜も深くなっていた為に今いる場所すら解らず、ただ頭上で光り輝く虚ろな月明かりだけが道標だった。 何とか町に返ってきた私を襲ったのは更なる混乱だった。殆ど明かりの消えた町を目の前にしてどうすれば良いか解らなかったのだ。彼を地面に下ろして、獣の咆哮のような声でただひたすら助けを求めていたのは覚えている。だがそれから先の記憶はあまりない。気がついたら医者の所にいて……ベッドの上に横たわる彼の姿があった。
ゆっくりと目を開けると、水鏡に映った自分の像をじっと見つめた。そこには傷だらけのダークエルフが映っていた。 ボロボロになった心の中を映し出しているかのように、浅黒い筋肉質の身体には無数の傷跡が残っている。それは彼と別れた三年間が如何に凄惨な物であったかを物語っていた。 私は湯船に沈んだタオルを握り締め、それで傷跡を覆い隠すように胸へと押し付けた。
ラフな服に着替えた私は自室へと向かっていった。 辺りはすっかりと暗くなり、明かりも無い廊下を照らすのは窓から差し込んでくる月明かりだけ。他に誰もいない廊下は昼間とは全く違う色に染まっていた。そして他の音全てが宵闇に吸い取られたかのように、ただ私の足音だけが木霊している。 「…………」 ふと、ある部屋の前で足を止めた。私の部屋のすぐ隣……カイの部屋だ。いつもは何も考えずに入っていくのだが、時間が時間なだけに色々意識してしまう。尤もその心配は彼を起こしはしないか、という類の物ではあるが。流石にあれだけの傷を負っては何も出来ないだろう。 暫く迷った挙句、結局入る事に決めた私は軽く握った拳を胸の辺りまで上げた。しかしドアの隙間から光が漏れていないのに気付いて、その手をノブの方へと落とす。 「入るぞ」 聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で断りを入れてからドアを開ける。 やはり明かりはついていなかった。開け放たれた窓からは心地よい風と月明かりが入って、辛うじて輪郭が見える程度に部屋を照らしている。私は足音を立てないよう細心の注意を払いながら彼の眠っているベッドの方へと向かっていった。 「カイ、もう寝――」 不意に言葉を切るとその場に立ち止まった。 ベッドの上にカイの姿は無く、ただ布団が無造作にめくれあがっているだけだった。近づいてシーツに触れてみても彼の温もりを感じる事は出来ない。部屋から出て行ってそれなりの時間が経っているという事だろう。 胸の内に不安に似た感情が沸き起こってくるのを禁じ得なかった。ただこの部屋にいないだけだ。用を足しに行ったのかもしれないし、のどが乾いただけかもしれない。しかし、もし彼がいなくなったら?私を置いてどこかに行ったのだとしたら?傷が痛くて動けずにどこかで苦しんでいたら?輪郭を持ち始めた不安が頭をもたげて、気がついたら部屋から飛び出していた。 自分でも何故ここまで不安になるのか解らなかった。彼が部屋にいない事にどれだけの意味があるというのか。確かに傷は酷いが、今すぐどうこうなるような物ではないし、少しずつではあるが快方に向かってもいる。それに親でもないのにどうして彼の行動の一つ一つを気にしなければならない?彼は自分の好きなようにすれば良いし、私に彼を縛り付ける権利など無い。それなのに、私は不安と焦燥に突き動かされて彼の姿を追っている。今彼の側にいられる幸せが足元から崩れ去ってしまいそうで、それから逃れるように走っていた。 「カイ……」 見覚えのあるその姿を見つけた瞬間、私は安堵の息を漏らしながらその場に立ち止まった。二階のバルコニーで壁を背に座った彼は空をじっと見詰めていた。 「カイ、寝てなきゃだめだろ?」 そう言いながらゆっくりと近づいていく。 振りかえった彼は少し意外そうな顔をしていたけれど、すぐにいつも通りの笑顔を見せてくれた。 「ずっと部屋に閉じこもってたから。外の空気が吸いたくてさ」 やわらかなアルトが夜の闇にとけこんでいく。その声を聞いただけで、なんだか心が安らいでいくような気がした。 「そう……か。言ってくれれば連れてきてやったのに」 少々恩着せがましい言い方だとは思ったが、それが私の本音だった。私に出来る事なら何でもしてやりたいし、まだ本調子ではない彼を放っておくのは心配だったのだ。彼にしてみれば余計なお節介だろうけど。 「大丈夫だよ。それくらい自分で出来る。それにそんな事までさせたら悪いだろ?」 「そんな事は無い。お前は怪我人なんだからいちいち気を使わないで良いんだよ」 「うーん……だってジェンドは一日中俺の世話してくれてるだろ?だから疲れてるだろうし、夜くらいゆっくり休んで欲しいんだ」 「私はしっかり休んでいるし、そんなに軟じゃない」 「そうだよ。だから無理するんだろ?」 その一言にぐうの音も出なかった。あまりに心の中を見透かされているようで、どんな言い訳をしても意味が無いように思えたのだ。 「……かもな」 そう言いながら手摺に両腕を乗せて体を預ける。そして空の方に顔を上げると、暫しさんさんと輝く星々に見入っていた。 この瞬間、心地よい静けさに身を任せながら思ったのだ。この沈黙こそ二人が共有している言葉なのだと。 |