「ごめんな」 暗闇の中に大きな瞳が浮かび上がっていた。尖った八重歯は下唇に食い込んで、ぷっくりとしたそれを醜く歪めている。何故彼女が謝らなければならないのか。その理由は容易に想像がついた。だけれど、決して謝って欲しくなどなかった。もしも俺が考えている理由ならば、絶対に。 「何で謝るんだよ?」 彼女の視線が布団の中の闇に落とされる。それからもう一度俺の顔を見つめて、食い込んだ八重歯をゆっくりとあげて言った。 「私にはもうお前の相手をしてやる事も出来ないから……だから、外に女を作ってもいいんだぞ? 私には精一杯尽くしてくれたから……もう……十分だから……これ以上お前を縛り付けたくない」 言葉が出てこなかった。心が、完全に止まってしまっていた。彼女がこんな風に考えていたなんて、ここまで追いつめられていたなんて、知りもしなかった。自分の事だけで精一杯だったろうに。俺がそうする事など、決して本意ではないだろうに。なのに、彼女は自分を犠牲にしてまで、俺の事を考えてくれているのだ。そこまで愛されているのだと喜ぶ事も出来ただろう。だけれど、そこには胸を鷲掴みにされるような衝撃と苦しみしかありはしなかったのだ。愛が、苦しみの淵にいる彼女を更に追いつめようとしている。背中をどんと押して、その深淵へとおとしめようとしている。その事実が俺には重すぎたのだ。 「そんな事言うなよ……頼むから、そんな事言わないでくれよ。それがお前の本心なのか? 俺がそうして、本当にお前は嬉しいのか?」 「少なくとも、罪悪感は抱かずにすむ」 「何に対する罪悪感だ?」 「…………」 「俺はお前の側にいたいからいるだけだ。他の女になんて興味ないし、そんな事しても虚しいだけだよ」 頬を伝って大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女はやせ細った手でゴシゴシと目を擦るのだけれど、溢れる涙は決して止まろうとはしない。薄闇の中には、肌が擦れあう湿り気を帯びた音と、鼻をすする音が響き渡っていた。 きっとぐしゃぐしゃになった顔を見られたくはなかったのだろう。右手で両目を覆った彼女は、何度か咳のようなものをして、ベッドに顔を押しつけてしまった。 そんな彼女の頭を優しくなでて、自分の胸元へそっと抱き寄せてやる。本当は両腕で抱きしめてやりたかったけれど、右手のやり場に困ってしまって、仕方なく自分に腕枕をしてしまった。 「大丈夫だよ、ジェンド。大丈夫だから。一緒に頑張ろうな」 彼女の細い指が胸元に食い込んでくる。喉元の辺りに髪の毛があたって、何とも言えずむず痒い感じがした。そうして思い出したのだ。こうするのが好きだった。彼女の身体を抱き寄せて、色んな事を喋りながら、ゆっくりと過ごすこういう時間が。長い間忘れていた。何かに追われているような気がしていて、あれをやらなければいけない、これをやらなければいけないと焦ってしまって、こういう大切な繋がりをおざなりにしてきた気がする。
「なあ……私の我が儘、最後に一つだけ聞いてくれるか?」 「馬鹿。最後なんて言うなよ」 「もしも私がそうなったら」 「ジェンド」 「いいから最後まで聞け」 「わかった」 「もしも私がそうなったら、その時はいい人を見つけて幸せになって。私の事は気にしなくて良いから」 「…………」 「でも……でも……たまには私の事も思い出して。1年に一度でも、10年に一度でも良いから。私の事……忘れないで」
いつの間にか眠っていたらしかった。身体が妙に冷たく感じて、布団がはがれたのかな、なんて思いながら目を覚ました俺は、腕の中で冷たくなっている彼女に言葉を失ってしまった。 胸がざわついていた。体中がカッと熱くなって、瞳からは止めどなく涙がこぼれ落ちてくる。彼女の前で泣きたくなどないのに、どうしても我慢が出来なくて、しゃくり上げる事しかできなくて。 震える手で彼女の頬に触れると、ゆっくりと顔を近づけていった。瞳を閉じた彼女はとても穏やかな顔をしていた。久しく見せた事のないような、幸せそうな顔をしていた。その顔を瞳に焼き付けながら、俺たちは最後の口付けを交わした。
こんなに冷たいキスは初めてだった。
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