一度だけ短いため息をついた。意味もなくあちこちに視線を投げつけ、それから、やっとの事でドアをノックした。 コンコンと乾いた音が響き渡る。少しだけ輪郭のぼやけた、いかにも年代を感じさせる古びた木の音だ。 中からは何かが軋むような音が聞こえてきて、それから、「空いてる」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。 彼らしいな、と思いながらドアを開ける私。風にのって、微かな香水の匂いが鼻腔をくすぐった。 「ん……」 思わず声を漏らしてしまう。彼には似つかわしくないと、そう思ったのだ。少なくとも、彼が香りを纏う事に意味を見いだそうなど、私には想像だに出来なかった。 そこに無理矢理意味を見いだす事も出来るだろう。だけれど、それは余計な詮索というものだ。 興味の一つもないと言えば嘘になるけど。 「イリアちゃんは?」 珍しく、という形容が妥当かどうかは解らない。しかし、そこに彼女の姿はありはしなかった。ただ、小難しそうな顔をした部屋の主が、椅子にでんと踏ん反り返っているだけだ。 「か、買い物に行ってる」 伏し目がちに言葉を紡ぐ彼。それに加えて、何故歯切れの悪い言葉を吐いたのかという疑念が頭をよぎった。その答えを探る余地を与えまいと言うのだろうか。彼は「どうしたんだ」と牽制するように言葉を続けた。 「ちょっとね、話したい事があって」 同じように歯切れ悪く言う私。 例の事件から暫くの刻が経って、大凡平和と呼んで差し支えないものが戻りつつあるこの頃。だけれど、私の心の中には、感情に刻まれたある記憶が底流を続けていたのだ。 「話したい事?」 シオンは怪訝そうな顔をして私を見つめている。そんな顔で見つめないでくれと、心の中で呟いていた。出来れば言いたくはない。だけれど、この機会を逃したなら、私はずっと後悔するのだろう。 「今度の事では本当に世話になったわね。あなたがいなかったら、きっと、こんな風な結末を迎えてはいなかった」 嘘ではない。だけれど、それは決して私の言いたい事ではなく、むしろ枕詞にすぎないのだ。 「別に、大した事なんてしてないさ」 言葉では謙遜しながら、少しだけ満足げな顔をする彼。一瞬だけれど、大人の仮面を被った下に、子供らしい表情をのぞかせていたような気がした。 そんな彼を見ていると、ほんの少しだけホッとしてしまう。日頃、彼という人間がよく解らなくて、どこなく冷たい感じがしてしまって。だから、たまに人間くさい一面を見せる一瞬、私は彼の確信に触れたような気がして、ほんの少しだけ安心してしまうのだ。 「それから」 そこまで言って言葉を切った。すらっと言葉が出てこなかったのだ。 彼は私を見つめたまま、その先を続けるようにと促している。 「色々と迷惑をかけたわね。あの時は取り乱してしまって、本当にごめんなさい」 言い終えた所でぐったりと疲れてしまっていた。そんな私を見つめながら、彼は口元にフッと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。 「ずっと気にしてたのか?」 反射的に体中が堅くなってしまう。心の中をのぞかれているような気がして、一瞬ほど頭の中が真っ白になってしまったのだ。 彼が言っているとおり、私はそれをずっと気にしていた。こういう性格の女だ。誰かに世話をかけるなど、自分のプライドが許しはしないのだ。まして、人の前で取り乱すなど、私が最も嫌う事に違いがなかった。それはそうなのだが、この男ときたら、人の気にしている事をよくもぬけぬけと言ってくれるものだと思う。 「別に、そんな事は無いわよ」 不敵な笑みを浮かべてフッと笑う彼。そんな彼を見て、今までの緊張とか何もかもが吹き飛んでしまった。馬鹿な事でぐずぐずしていたものだと、ようやく悟ったのだ。 「あら?」 わざとらしいほど大げさに言ってみる。 「虫にでも刺されたの? 首の所、赤くなってるけれど」 サッと首を引っ込めて、みるみるうちに顔を赤くしてしまう。カマをかけたつもりだったが、どうやら大当たりだったらしい。こういう時の女の恐ろしさを思い知るがよいのだ。 「嘘よ。それじゃ、行くわ」 呆気にとられたような顔をして、それから、やっとの事で「てめぇ……」と口悪くののしる彼だったが、時すでに遅し、私はドアノブに手をかけていた。 「じゃあね」 そう言って部屋から出ようとした瞬間、偶然通りかかったユリアがピタッと足を止めた。 「あら……ここにいたの?」 その口調から感情の類を感じ取る事は出来ない。ただ淡々と言葉を発しているだけだ。彼女は、有能である事は認めるけれど、私は好きにはなれない。 「ええ。どうかした?」 「シオンもそこに?」 「そうよ」 「よかった。探していたの。ちょっとだけつきあってくれないかしら?」 「別にいいけど……何?」 「イリアは?」 「ここにはいない」 「ちょうどいいわ。それじゃあ二人とも、私についてきてちょうだい」 私の質問に答える事無く歩き出す彼女。シオンと顔を見合わせて、それから、仕方なく彼女について歩き始めた。
薄暗い地下通路の中を歩いていた。どこからか雫が滴るような音が聞こえてきて、それに湿り気を帯びた三人分の足音が重なっている。むしろ、地下通路と言うよりも洞窟の中を歩いているような感じだ。 誰も言葉を発することなく、発する事も出来ず、ただユリアに続いて歩き続けていた。 洞窟は迷路のように入り組んでいて、それでも、彼女は迷うことなくさっさと足を進めていく。そして暫くの刻が経った頃、不意に目の前が開けて、巨大な空洞が姿を現したのだった。 その中央には円筒状のガラスの筒がいくつも置かれ、その周りを奇妙な物体が取り囲んでいた。実際の所、そう形容するしかなかったのだ。四角い箱の上に水晶のような玉が半分ほど顔をのぞかせ、その箱からは無数の蔦のようなものが、まさに空洞中を埋め尽くさんばかりに這い出ていた。 「これは……」 そう尋ねずにはいられなかった。何か無性に嫌な予感がしていた。胸の中にもやもやとしたものが鎮座して、それは私の体さえも蝕もうとしていた。 「見ていれば解るわ」 そうとだけ言って、水晶の方に歩き出すユリア。その上に手をかざして、ぶつぶつと何かを呟き始める。 彼女の言葉に従うように、水晶が薄紫色の光に包まれていく。中央の筒も蒼白色の光を放ち始め、どうやら、その中は水で満たされているようだった。 「始まるわよ。見ていなさい」 筒の中に白い塊が浮かび上がってくる。それは細長い棒のように形を変え、周りに赤黒い管が巻き付いていく。 ーードクン 心臓が大きく波打った。 背中を冷たい何かが走り抜けていく。私の本能は、それが危険なものだと、全力をもって警告していた。 「これは……」 ゴボッと気泡があがって、赤黒く染まった『それ』から、ピンク色の肉塊が盛り上がってくる。そして白い棒の先は5つに割れて、生き物のように動く肉塊がそれぞれを取り囲んでいった。まるで生き物の腕の如くーーそれを見た瞬間、全てを悟ってしまった。目の前で繰り広げられている事とは、即ち、人間の手によって生命を作り出そうという事。我々人間が神の領域にまで足を踏み入れようという事。 「やめなさい!!」 ユリアの手を水晶から引きはがして、そのまま彼女を壁に押しつけていた。 「どうして……どうしてこんな事を……」 不意に吐き気がこみ上げてくる。口に手を当てながら、崩れ落ちた私は、その場に激しく嘔吐していた。先ほどの光景が何度も脳裏をかすめ、その度に、吐くものなど無いのに吐き気がこみ上げてきて。 右手で乱暴に口を拭う。それからゆっくりと立ち上がって、ユリアの顔をじっと睨み付けてやった。 「あなた……自分で何をしようとしたか解ってるの。こんな事……こんな事許されてはいけない。こんなもの……あってはならない。今すぐ壊さないと……何を突っ立ってるのよ! こんなもの、早く壊さないと!!」 身体を翻そうとした私の手をユリアが取った。それを乱暴に振りほどいて、彼女の顔をキッと睨み付けてやる。 「何よ!!」 「また無かったことにするの?」 何も返せなかった。 体中の筋肉が弛緩して、私の思考は、一瞬にして動きを止めていた。 それは、私が犯してきた罪そのものだったのだ。何も見なかったふりをして、全てが最悪の事態に至ってしまうの許してしまった。そして、今もまたそれを繰り返そうとしている。それを目の前に見せつけられて、私はどうしようもなくなったのだ。 「もう全ては動き出したのよ。ここにある全てを無に帰したとして、私たちは切り札<カード>を失うだけ。あなた達は、同じ過ちを繰り返してはならない」 私に出来たことーーそれは無力感と焦燥を抱きながら、その場にへたり込むことだけだった。ふと顔を上げると、ガラスの中で、剥き出しになった肉塊がプカプカと浮かんでいた。 |
fin
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