5005年 ナサギエルの月6日
ウィスケルを後にした俺達が向かっていたのはイェールスという古代神殿だった。
アドビスの北西に位置するこの神殿にはネツアクやイエソドと同じく水晶があるらしい。
真理の象徴としての水晶――ザードの仇を討った俺達が次に旅の目的に挙げたのは世界の理を知る事だった。
この広大なオッツ・キィムの大地を旅し、この目で見つめる。
そう、俺の遺言となる筈だったあの言葉を二人で果している。
王立図書館に遺されていた地図によると、オッツ・キイムに点在する古代神殿はアドビスを中心にヘキサグラムを為しているようだった。
ネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス、レファスタ、それぞれが強い魔力を持った遺構であり、相互干渉する事によって力の均衡が保たれている。
裏を返せば、最近の魔物の増加……そしてイールズ・オーヴァの侵攻を許してしまったオッツ・キイムの弱体化は、ヘキサグラムの均衡が崩れた事に起因しているのかもしれなかった。
例えそれが事実だったとして、俺達に何が出来るというわけではないのかもしれない。
だが、何かを為そうとする事で、アドビスにいた頃は決して見つける事の出来なかった"存在理由"を見つけられるのかもしれないと、そう思ったのだ。
◇ ◇ ◇
俺が初めてイリアと出会ってから既に十余年もの時が経っていた。
そう、俺が"憲法125条"なんて物をでっちあげて一緒に旅を始めるずっと前からアイツの事は知っていた。
自分の事すら解らず、混沌に飲み込まれそうだった俺の前に現れた一人の男――勇者ザード。
イリアを護ってくれ、そう言い遺したアイツは全てを俺に託したまま二度と戻っては来なかった。
だが、それは俺の全てだったのだ。
アドビスという鎖に繋がれた俺が手にした唯一の光、自分がそこに存在する証、それがイリアだった。
護らなければならないと、いつも思っていた。
でもあの時……全てが終わろうとしていたあの時、俺の傍で泣きじゃくるアイツの顔を見た時に気付いた。
俺は自分の意志で護りたいと思っているのだと。
ザードの言葉を守る為でもない、まして身の証を立てるためでもない。ただ、自分がどうなってもイリアだけは護りたいと思った。
多分一生面と向かって言う事は出来ないだろうけど、俺にとってイリアは一番大切な存在なのだ。
最近になって殊にそう思うようになった。
特に今日みたいな日、静かに流れて行く刻を肌で感じながらイリアと一緒にいる時に。
◇ ◇ ◇
「イリア……?」
隣にいた筈のイリアの姿が見えなくなって足を止める。
顔だけ後ろに向けると、そこには地面を睨み付けたまま立ち竦むイリアの姿があった。
「どうしたんだよ、イリア。何か変なモンでも食ったか?」
冗談交じりに問い掛けてみる。
しかし、彼女は何も答えなかった。
拳を握り締め、唇を固く結んでいた彼女の影は、赤く輝いた太陽を背負いながら酷く小さく見えた。
「……イリア」
もう一度だけ彼女の名を呼ぶ。
その瞬間、冷たい何かが背筋を伝っていったような気がした。
乾いた喉を潤すように唾を飲みこみ、瞬きをも忘れたままじっと彼女を見つめる。
酷く胸がざらついていた。
不安とも恐怖ともつかない極めて曖昧な感触。
それを打ち消すかのように身を翻した俺はゆっくりと足を進めて行く。
「――何でもないから」
唇を微かに震わせながら、彼女はそう呟いた。
何でもない訳がないだろ――喉元まで出かかった言葉を飲みこみ、艶やかな彼女の黒髪にそっと手を伸ばす。
まるで暗黙の了解でもあったかのように、彼女は俺の胸に顔を埋めていた。
小さな身体を震わせながら、彼女は声もなく泣いていた。
「ごめんね……シオン」
この科白を聞くのは何度目だろう、漠然とそのような事を考える。
そしてイリアの身体を抱きしめながら、ふと視線を横に向けた。
一面に広がる金色の草原。赤い光に照らされたそれはイビスを思い起こさせた。
イビス…異世界…イールズ・オーヴァ……金色に輝く月の光――イリアの心の奥底に深く刻み付けられた傷は未だに癒えてはいない。
過去の凄惨な記憶が、まるで発作の如く彼女に襲いかかる。
いつもの明るさが信じられない程に……酷く蒼褪めた表情<かお>をする。
「心配するな。俺はいつだって傍にいるから。もう……絶対に離れたりしないから」
イリアを抱く手に力をいれると、彼女の髪の毛にそっと口付けをした。
◇ ◇ ◇
夜の帳が下りてから暫くの時が経っていた。
辺りはすっかりと暗くなり、目の前ではごうごうと音を立てながら薪の炎が赤く燃え滾っている。
イリアといえば……あれからずっと黙ったまま、食事もろくに食べてはいなかった。
まるで生き物のように揺らめく炎はイリアの顔に深い陰影を刻み付け、その表情を一層解り難くしている。
「迷惑だよね……こんなの」
不意に切り出された言葉を聞いた瞬間、心がズキリと傷んだ。
迷惑なわけないだろ――その言葉を頭の中で繰り返す度に、それが如何に空虚な物かを思い知らされる。
イリアがこんな風になったのは俺の所為だというのに、俺がアイツを悲しい目にあわせたからこんな事になったというのに……でもそれを口にしたらもっと傷つける事になるから、だから必死になってその言葉を飲みこむ。
「シオンの重荷にだけはなりたくない。シオンに嫌われたく無い。でも…………」
「言うな!!!!!!」
気がつけば叫んでいた。
身体中をビクッと震わせたイリアは、下唇を噛み締めながら潤んだ目で俺を見つめている。
俺はそっと手を伸ばしてイリアに触れようとしたけれど、寸での所で拳を握り締めるとそのまま地面に落とした。
「……悪ぃ」
そう呟きながら視線を地面に落とす。
赤く揺らめいた炎が、まるで全ての罪を焼き尽くす業火のように見えた。
ここまでアイツを追い詰めたのは誰でもない、俺自身なのだ。
でも……いつまでこのようにして目を背けるのだろう。
いつか終わりが来るのだろうか――終わりが、俺達が互いを何の障壁もなく受け入れあう事の出来る日が。
「……シオン」
掌に冷たいイリアの指が触れる。
俺はその手をぐいと引っ張ると、そのままイリアの身体を抱きしめた。
バランスを崩した彼女の身体が飛び込んでくる。
「そんなに頼りねぇかよ。今までずっと一緒にいて、俺の気持ちも解んねえのか?お前じゃなきゃダメなんだよ俺は……男が好きな女護るくらいあたりまえだろうが!!」
「え……」
こんな台詞を吐いた自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、そのままイリアの首筋に顔を埋めた。
肌を伝ってトクン、トクンと波打つ鼓動が感じられる。
その音を聞く度、ズレていた二人の音が少しずつ一つになっていくような気がした。
「初めてだね。シオンが……好きだって言ってくれたの」
身体中でイリアの温もりを感じていた。
いつまで傍にいられるかは解らない。
もう二度と逢う事すら許されなかった筈だった。
だから……この一瞬でも二人で刻を共にできればいい。
永遠は望まないから。
永遠なんていらないから。
イリアの髪の毛を優しく撫でると、首筋にそっと口付けをした。 |
to be continued...
|
|