5005年 ナサギエルの月7日
夢を見ていた。
薄暗い部屋の中でただひたすら兄の帰還を待つ幼い少女。締め切られた部屋を照らすものといえば、小さな天窓からもれてくる僅かばかりの光だけだった。
一人きりになったその日からどれだけの刻が経ったのだろうか。もはやそれすら解らない程の永い間、少女はずっと待っていたのだ。薄汚れた壁を背に、曲げた膝に顔を埋めたまま微動だにせずに。
暗闇に浮かぶ彼女の姿をじっと見つめながら、俺の心の中にはあるぼんやりとした、捉え難い感情の波が幾重にもわたってうねっていた。その中で彼女を護りたいという確固とした意志だけが輪郭を持って頭の奥底にこびり付いている。
「……イリア」
記憶の奥底に刻み込まれたその名が口をついて出ていた。まだ幼かった頃、城に訪れてきたある男が話した少女の名だ。ほんのちっぽけな事ですら泣いてしまう子。泣いたかと思えば次の瞬間には笑ってる子。――その男以外に家族と呼べる者など誰一人いない、孤独な子。
俺の声が聞こえないのか、それとも無視を決め込んでいるのか、少女は何一つ応えようとはしない。
「イリア」
もう一度だけその名を口にして、ゆっくりと彼女の方へと向かって歩き出す。カツン、カツンという靴の音が嫌なまでに誇張され、それは閉鎖的な空間<彼女の部屋>に木魂した。混沌とした闇の中で幾重にも連なるその音はやがて大きな波となって俺を飲み込んでいくのではないかと、何故だかそのように思えた。
「何してるんだ、独りきりで」
無駄としか思えないその行為をもう一度だけ試みてみる。そして予想通り応えが返ってこない事を確認すると、何も言わずに彼女へと手を差し出した。
その瞬間、彼女は初めて顔を上げたのだった。酷く蒼褪めた顔つきで、その眼差しは何かを訴えかけているかのようにも思える。そしてそれを確信に至らせるかのように、彼女は声も無くゆっくりと唇を開いた。
タ ス ケ テ
俺にはそう言っているようにしか思えなかった。この部屋は……彼女にとっての監獄に他ならない。いつまで待っても帰ってこない、血の繋がりさえ無い"兄"を待つだけの空間。そこに犇めき合うのは自らの孤独と記憶の残像だった。
そんな彼女に手を差し伸べようとしている。俺の中でそうすべきだと訴えかける本能の声に従って。
そして蒼白い彼女の肌に触れた瞬間、俺の手は空を切っていた。
「――ッ?!」
未だに夢と現実の狭間を漂っているような、奇妙と言えば奇妙な目覚めだった。底無しの不安にかきたてられるかのような嫌な感覚が胸に残り、それを拭うようにして"彼女"の姿を探そうとする。
しかし、それはすぐに徒労に終わった。昨夜と同じく、当の本人は俺の腕の中で気持ちよさそうに寝息をたてている。まるで何も無かったかのように無邪気な寝顔をあらわにして。
「イリア」
殆ど聞えるか聞えないかくらいの小さな声で囁きながら、夢の中で触れる事の出来なかったその肌にそっと指を這わせた。その瞬間、細くて長い睫毛が震えたかと思うと、彼女は間の抜けた声を漏らしながらゆっくりと目を開いた。
「悪ぃ……起こしちまったな」
口元に微かな苦笑を残しつつも、大して悪びれるようも無く囁きながら彼女の髪に指を絡ませる。
イリアはそれに応える代わりに大きな目を細めて、にっこりと笑って見せた。そして暫くの間二人でじっと見詰め合った後に、思い出したかのように「ありがとうね、シオン」と言った。
ありがとう……たったそれだけの言葉が今の俺にとっては物凄く嬉しかった。だって、今までのイリアであればきっと「ごめんね」と言っていたに違いないから。そして敢えて「ありがとう」と言ってくれたという事は、きっと俺の事を頼りにしてくれるようになったという事だから。
都合の良い解釈かもしれないけれど、俺の中にはそれを確信に至らしめる何かがあったのだ。
「お互い様だろ?」
いつものようなシニカルな笑みを浮かべながらそう返してやる。それに応えるように、先程とは違う、まるで小さな子供のように無邪気な笑みを浮かべた彼女は「そうだね」と笑い声と共に応えた。
おざなりに朝食を終えた俺達は再び北西に向かって歩き出していた。
見渡す限り冴え渡った青空が広がり、夕日に染まって金色に輝いていた昨日とは全く雰囲気の違う青々とした草原が広がっている。
当の俺達はと言うと、この空のような晴れ渡った気分で、意気揚々と草原を闊歩していた。すぐ隣では無邪気な笑みを浮かべたイリアが「何か遠足みたいだね」なんて嬉しそうに喋っている。そんな彼女に適当な相槌を打ちながら、俺はアドビスでの出来事を思い出していた。
未だ回りから疎まれる"王子様"でしかなかった自分を誰よりも疎ましく感じていた俺自身に彼女が言ってくれた言葉。
――いいんだよ、子供で。子供でいられる時間……無かったんでしょ?
他のどんな言葉よりも嬉しかったんだ。子供の俺を受け入れてくれるという事は、身分とか境遇とか、そんな物を取っ払った裸の俺を受け入れてくれるという事だから。
そして今、イリアの傍で『子供でいられる』自分が嬉しかった。
「な、競争しようぜ」
「何を?」
「先に神殿を見つけられた方が勝ち。ほら、行くぜ!!」
そう言いながらイリアに背を向けて走り出す。後ろの方からは「あっ、ずるい!」と言うイリアの声と、豪快に地面を蹴る音とが重なって聞えて来た。
ザッザッ、と土を踏みしめる小気味良い音と共に、俺達は子供時代にかえったかのように元気良く草原を走り抜けて行った。
「ははっ、シ・オ・ン、遅いよっ♪」
何時の間にか追い越されてしまった俺は、情けなく息を切らせながらも何とか彼女の元へと追いついていた。
その一方で余裕綽々といった彼女は可愛らしい笑顔を浮かべながら俺を見つめている。彼女の向こうには周りの景色とは異質な、色褪せた古めかしい遺跡が建っていた。それは壁が崩れ去って柱だけが残った廃墟であり、凡そこの世界の均衡を保つと言われているイェールス神殿からはかけ離れたものだったのだ。
「ねえ、これがイェールス神殿なの? 随分ボロボロだけど」
「……お前、昨日の夜に寝ぼけたままここまで来てタコ殴りでもしたんじゃないだろうな?」
目の前に横たわる廃墟に呆然としながらも、いつも通り彼女をからかうのを忘れない俺。すぐ後に物凄く後悔する事になるなど知る由も無いのだが。
「む〜〜シオンったらまたそんな事言って!! だいたい、昨日の夜はシオンが離してくれなかったんだからね!! ずっと抱きしめてたじゃない!!」
自分が何を言ったか気付いたらしいイリアは顔を赤らめながら視線をさ迷わせている。対する俺も、体中の血が顔に集まってくるような感覚に襲われて頭がカッと熱くなっていた。成る程……未だに"女"に対する免疫は出来ていないらしい。我ながら情けない事限りない。
「あ……あの、その……ううんっ、そ……そうだ、中を調べるぞ!!」
歯切れ悪く言いながら遺跡の中に足を踏み入れていく。「う…うん」と同じく歯切れ悪く返しながら、彼女も歩き出した。
遺跡は神殿と呼べるほど大きな物ではなかった。
壁が抜けているお陰でまだ広く感じるのかもしれないが、それでもイエソドやネツアクに比べればかなり狭い。あれの広間一つ分といった所か? 床にはボロボロになった粘土版が敷詰められており、その中央には結界の刻まれた大理石が分不相応に置かれている。結界の核を為す五芒星の頂点からは腰ほどの高さにまでロッドが立っており、その頂きには翡翠色の水晶が設えられていた。
「あ……何か変な言葉が書いてあるよ。シオン、読める?」
イリアの指差す先に視線を向ける。結界の向こうには崩れ落ちた石版があり、そこには古代文字で色々と書かれていた。
「んーー駄目だな。俺の手帳があれば何とか解読できるんだが……持ってねぇよな?」
彼女は首を横に振りながら「あれは王様に渡したから」と答えた。
「ん? 待てよ……下の方に何か書き殴ってある。これはまだ新しいみたいだ。ええと……」
「道……? 後は良くわからないよ」
「少し古い文体で書いてあるんだ。『水晶に手をかざせ。さすればイェールスへの道は開かれん』ってな所か?」
それを聞いたイリアは水晶の上で手を振り回しながら「あれあれ?」なんて間抜けな声を漏らしている。中々に滑稽な光景だ。
「全く……手を振りまわしただけでどうにかなれば世話無いぜ」
「だって、そうしろってシオンが言ったんじゃない!!」
そう抗議するイリアを尻目に、俺は水晶の上に手を翳して魔力を放出した。
翡翠色の水晶は一つずつ蒼白い光に包まれていく。
「わぁ……凄い」
「多分水晶に魔力を注ぐ事で結界が働くんだろ? ほら、早くこの上に乗れって」
彼女が恐る恐る結界の上に乗った瞬間、辺りの景色がゆっくりと動き出した。どうやら俺達を乗せた大理石ごと上昇を始めたらしい。
イリアは反射的に俺の服の裾を掴むと身体に抱き着いてきた。先ほどの熱に似た感覚が体中を襲い、頭の中がぼんやりとしていく。
「お……おい、そんなに身体を摺り付けてくるなって!」
「だって怖いんだもんっ!!」
「あ…いや……だからと言ってだな……」
言葉に詰まりながらも、敢えてイリアを拒みはしなかった。
俺はただこの温もりに慣れていないだけなのだ。今まで独り冷たい世界で生きてきたから、この温もりを信じる事が出来ない。いや……違うか。温もりが消えてしまうその瞬間を恐れているんだ。
ぼんやりとそのような事を考えていると、俺達を乗せた大理石はゆっくりと上昇を止めた。そして目の前には荘厳な雰囲気の神殿が聳えたっていた。
「イェールス…………」
空を切るような鋭い風の音が俺の声を掻き消すように走り抜けて行った。
イェールス神殿はそれまでのネツアクやイエソドとは違った雰囲気に包まれていた。
その柱の一本一本に至るまで美麗な装飾が施され、建てられたばかりであるかのような美しさをもってそこに鎮座している。
「うわぁ……何か凄いね」
いつもながらに緊張の欠片も感じられないイリアのコメントに我に返った俺は思わず吹き出してしまった。
「ああ〜〜また私の事馬鹿にしたでしょ?」
「あのなぁ、オッツ・キイム五大神殿の一つなんだぜ? もう少し気の利いた事言えないのかよ?」
「じゃあシオンだったら何て言うワケ?」
「そうだなぁ……高貴で素晴らしいシオン様のように美しいとかだな――」
「き〜こえ〜ないッと」
半ば呆れ顔のイリアは馬鹿にしたような口調で言いながら、軽くステップを踏んで神殿の入り口へと向かって行った。
「あ、おいっ! 俺様を無視して勝手に行くんじゃない! 迷子になっても知らないからな!!」
「ふーーんだっ、シオンだってのんびりついて来て迷子になったって探してあげないんだからね」
そんな風にして軽口をたたきながら、俺達はイェールス神殿へと足を踏み入れて行った。
神殿の中は異様な静けさに包まれていた。
外をふきすさむ風の音すら聞えず、ひんやりとした空気がやたらと肌に絡み付いてくる。
エントランスは吹き抜けになっており、視線を上に向けると、空を模したような絵が天井に描かれていた。外観と同じく至る所に豪奢な装飾が施されており、それはアドビスを思い起こさせた。そして前方には扉が、その両脇には二階へと続く階段がある。ぐるりと見回してみると左右の壁にはそれぞれ九つの小さな扉が立ち並んでいた。
「迷路みたいだね」
一通り見回したらしいイリアは、先程よりかはやや低いトーンの、それでも幾分かは楽しそうな声色でそう言った。きっと『迷路』という響きに心惹かれるものがあるのだろう、そんな風に考えながら改めて「無邪気だなぁ」なんて思ってしまう。
「ああ。俺から離れるなよ」
そう言うや否や、彼女は俺の腕に抱きつきながら「うん」と応えた。
「だから……」
「迷子になったら大変だもん」
「だからだな……」
「嫌?」
「う……」
はっきり"嫌だ"と言えない自分に苦笑しながら――事実"嫌"という感情とは違うのだが――俺達は神殿の奥へと進んで行った。
予想通りというかお約束通りというか……やはり神殿内は迷路の如く複雑な造りとなっていた。まるでイエソドのそれを彷彿とさせるような、数時間歩いていると自分のいる場所すら解らなくなってしまう。
未だ俺の腕に抱きついているイリアは、流石に疲れたのだろう、先程までの元気をすっかりと無くして、ただ無言のまま歩いていた。
「なあ、今日はここら辺で休むか? 魔物とかいなさそうだし」
コクリと頷いたイリアは緩慢な動きで身体を離していく。身体を摺り寄せられていた時は何かと気恥ずかしい感じがしたけれど、いざ離れられると寂しい感じもする。全く……我ながら素直に喜ぶなり悲しむなりすれば良いだろうに。
「イリア?」
「ん……何?」
「いや、大分疲れてるみたいだから」
髪に手を当てながら微笑を浮かべるイリア。やはり何と言っても女より男の方が体力があるのだろう。昔の俺達では考えられない事だけれど。
「ちょっとね。疲れたかな」
イリアは間の抜けた声を漏らしながら背伸びをすると、「私、休むね」と言いながらごろんと床に横たわった。
「飯は?」
「ううん、今日はいらない」
「そうか。じゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ、シオン」
少し間を置いて可愛らしい寝息が聞えてきた。
そんな彼女の髪をそっと撫でてやる。そして壁を背にして座り込むと、静かに目を閉じた。
混沌とした闇の中で、ぼんやりとした意識は徐々に輪郭を持ち始める。
孤独と記憶の残像が交差する世界――その一番深い場所に俺はいた。鬱屈とした空気が肌に纏わりつき、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
そのような場所に彼女はいたのだ。
全ての悲しみが始まった場所で、彼女は立ち上がる力も無く、項垂れたまま壁を背に座っていた。
「……イリア」
やっとの事で紡ぎ出した言葉は酷く擦れ、重たい空気を纏っていた。
俺の声に反応した彼女はゆっくりと顔を上げ、青紫色の唇をゆっくりと開く。
「兄さんがね……死んだんだって。私は女だから…………女だから何も出来なかった。もし男だったら兄さんを助ける事が出来たのに」
その顔はまるで冴え冴えとした蒼白い月のようだった。そう……遥か空高く、暗闇の中で薄らと光り輝く月のように。
「例えお前が男だったとしても……ザードを助ける事は出来なかった」
彼女に向かってゆっくりと歩き出す。薄暗い闇の中に響く足音は酷く思考を掻き乱した。
「シオン……君は僕を助ける事が出来た?」
背筋に冷たい何かが走り抜けて行くような嫌な感触に襲われて、思わずその場に立ち竦んでしまった。強い非難の篭められた彼女の瞳に気圧されたのだ。
「……出来た筈がないよね。だって君は自分すら救う事が出来なかったんだから。クレリックの血筋を汚した忌むべきウィザード――そう、君は君自身から乖離していた」
「イリア、俺は――」
その瞬間、蝋燭の火を吹き消したかのように光が消え、世界は身体に染み込んでくるような深い闇に包まれた。
そして次に聞えてきた声は俺を戦慄させるに足る物だった。
「――ようこそ、愚かなる人間よ」 |
to be continued...
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