ゆっくりと目を開くと、そこには雲一つ無い一面の大空が広がっていた。
少しだけ視線を下げたその先には米粒のような町並みが見える。
それは自分が遥か空高くに浮かぶイェールス神殿にいるという事を思い知らせるに足る物だった。
冷たい風が身体に絡み付いてくる。ヒューヒューという笛のような音を立てながら、それは切らずにのばしていた髪の毛をあちこちに靡かせた。
もう既に髪をかきあげる事さえも億劫になっていたらしい。両腕をだらりと垂らしたまま、俺は飲みこまれてしまいそうな大空を食い入るように見つめていた。
「イリア……どうしてるだろうな」
ふと思い出したかのように脳裏に浮かんできたアイツの名前を呟いた。
もう二度と逢う事が出来ないと解っているのに、少しだけほっとしているのは何故だろう?
きっと……誰でも無い俺自身がアイツを助けたのだという自負心の賜物だろう。
そう、同じような感覚を前にも味わった事がある。異世界に行って、自分に課した約束を果した時――この手でイールズ・オーヴァを倒して、そしてイリアを護り通したあの瞬間。
もう二度と逢えないという言葉に出来ない喪失感と共に、一番大切なものは守り切ったのだという妙な満足感を抱いていた。
自己満足に過ぎないかもしれないけれど、アイツを護る事が出来るのは俺だけだ、という自負心はアドビスという鎖につながれた俺のアイデンティティを辛うじて保たせてくれた。それは言いかえれば俺の存在自体が"大切なひとを護る"という陳腐な感情によって規定されていたとも言える。
だけど……そんな陳腐な感情が俺にとっては勲章だった。
「ふふ……こんな姿を見たら、昔の俺は笑うだろうな」
口元を微かに緩めると思いがけず笑いが零れ落ちた。しかも何の含みも無く自然に、だ。
こんな事を言うのは何だけど、これは自分でも意外だった。
多分、俺自身が自分の事を根っからの皮肉屋だと思っているからだろう。
俺は口をキュッと結ぶと、ゆっくりと右手を肩の高さまで上げた。
か細い腕、そして指の隙間を風がすり抜けていく。目を閉じると、まるで鳥になったかのような錯覚すら抱いた。
だが飛ぶ事は叶わない。翼をもがれた鳥は自らを抱く風に翻弄され、そして飲み込まれる運命にあるのだから。
「永いお別れだ……イリア」
地面がぐらりと揺れ、背後で物凄い爆音がした瞬間、俺は覚悟を決めてそう呟いた。そして最後の死に場所を求め、この大空へと飛び込んで行った。
大空に抱かれながら、不思議と怖くは無かった。全身に風を受けながら、きっと鳥はこんな風にして飛んでいるのだろう、なんて考えていた。そして1秒が何分にも何時間にも感じられるような時の中で、イリアとの旅を振りかえっていた。決して楽しいばかりの旅ではなかったけれど、今思い出してみれば全てが良い思い出だったと思う。
もともとアドビスに生まれた俺の命などあって無いような物だったのだ。でもイリアと出会った事によって俺はアドビスという鎖から解き放たれた。初めて生きている事を実感した。そしてイールズ・オーヴァとの戦いで二度と逢う事すら叶わないと思っていたのに、もう一度逢う事が出来た。これ以上何かを望むとしたらそれは贅沢という物だろう。
でも……唯一後悔が残るといえば最後にアイツを傷付けてしまったという事か。俺のエゴを満たすという、ただそれだけの為に。
『――それで良いわ』
優しそうな女性の声が聞えた瞬間、俺の体は重力の流れに逆らってフッと宙に浮いていた。
大きな白銀の羽根が俺を包んでいたのだ。とても暖かい、懐かしい羽根が。
『良く試練に耐えたわね、シオン』
「水晶の……」
『そう、私はイェールスの水晶を司る者。貴方が本当に信用するに足る人間か見極める必要があった』
「これは夢か? 神殿で試練は終わったはずだ。俺は水晶の知識を」
『私が与えたのは古代魔術に関する僅かな知識だけよ。でなければあの魔物を倒す事は出来なかった』
「あんたらは……いつもこうなのか?」
『シオン、聞きなさい。この世界は貴方を求めている。イールズ・オーヴァはオッツ・キイムを滅ぼそうとしているわ。それを止められるのは貴方だけ』
「だが何故だ? 俺にしろイールズ・オーヴァにしろ神の摂理に反しているはずだ。それなのに何故俺に手を貸す? 神に背く事にはならないのか?」
『貴方が知る必要は無いわ。ただ敢えて言うなら……"戯れ"ね』
「人をチェスの駒みたいに……」
『見なさい、シオン。貴方を必要としている人がいる。貴方自身もそれを甘んじて受け入れた。そしてその為にはこの世界は必要不可欠。それで充分じゃなくて?』
彼女が指差したその先には、地面に跪いて泣きじゃくるイリアの姿があった。
『いつまでも泣かせたままじゃ可哀想でしょ? さあ、行きなさい。彼女の為に。そして貴方自身の為に』
二度と逢えない筈だったあの時と同じように、目の前の彼女は跪いたまま酷く泣きじゃくっていた。激しく肩を上下させ、可哀想なほどに嗚咽の声を漏らしながら。
そんな彼女を尻目に、わざと足もとの草を蹴ってみせた。ザッザッという草を切る小気味良い音が響き渡る。反射的に肩を震わせた彼女は恐るおそるといった雰囲気でゆっくりと後ろに向きかえると、驚きを隠せない面持ちで「シオ……」と擦れた声を何とか搾り出したようだった。そして獣の咆哮のような声を漏らしながら、瞳から大粒の涙をぼろぼろと零していた。
「約束しただろ? ずっと一緒にいるって」
「だって……だって…………」
「そんなに泣く奴がいるかよ。せっかくの美人が台無しだぜって、おい?!」
勢い良く飛びついてきたイリアは俺の体に顔を押し付けながら物凄い大声で泣き喚いている。そんな子供みたいな彼女を抱きしめながら、もう二度と触れられなかったであろう温もりを全身で感じていた。
「もう……放さないからな」
この温もりを噛み締めるように言葉を紡ぐ。俺の胸に顔を埋めたまま、背中に手を回した彼女はギュッと抱き返してくれた。
|