部屋まで戻ってきた俺は、ドアの下から光が漏れている事に気がついた。少しだけ希望が生まれて、それでも、「もしもイリアがどうにかなっていたら」という不安が沸き起こってくる。 だが、いつまでもここに立ちつくしているわけにはいかない。意を決した俺は、ドアノブに手をかけると、それを勢いよく引っ張った。 「シオン……?」 「え……」 ベッドの上にはイリアが、きょとんとした顔でこちらを見つめている。それを見て、一気に体中から力が抜けてしまって。それでも、何か変わった事はないかと辺りを見回しながら、ゆっくりと彼女の方へと近づいていった。 「ええとね……その……さっきはごめんね?」 「いや、いいんだ。お前の方は無事か?」 「無事? うん、別に私は何ともないけど」 「本当に何もなかったのか?」 「当たり前だよ! 一体何があったって言うんだよ!」 「え? だから……そのだな……何でもない」 そうして、イリアの隣に座って、もう一度だけ辺りを見回してみる。しかし異常らしい異常は見あたらない。 「変なシオン」 「イリア」 「ん?」 「もう二度と俺から離れるんじゃないぞ」 「え……い、一体何言ってるんだよ……シオン」 「いいな」 「あ……うん。解った」 「お前の事は俺が守ってやるから」 「シオン……」 彼女の手が俺の胸に触れて、その手は身体の輪郭をなぞりながら、いつの間にか背中へと回されていた。俺の胸に顔を押し当てて、イリアの奴がぎゅっと抱きついてくる。その表情を見る事は出来ないが、俺を抱きしめる手が、甘い香りが、今の彼女の事を饒舌に物語っているように思えた。 「お……おいっ、お前何やって……」 「今言ったでしょ? 俺から離れるんじゃないって」 「あ……いや……それはだな……そういう意味じゃなくてだな……」 心臓が早鐘のように打っていた。さっきの出来事を話したら、きっと彼女を不安にさせてしまう。でも、この状況は冷静さを欠いた俺でもヤバいと解る。全く、こいつもこいつだ。一体何を考えてるんだか。 「私じゃ……嫌?」 「バ……バカッ! 何言ってやがる!」 「もう、バカバカバカバカ言わないでよ! 物凄く恥ずかしいんだから!」 「ご、ごめん……」 「私、ニールさんの事なんて好きじゃないよ」 「イリア……もういいから」 「そうじゃないの。シオンがどう思ってるか知りたくて、だからあんなふりして……私ね、シオンの事が大好きだよ。自分でもよく解らないけど、シオンの傍にいるのが一番落ち着く。シオンが笑ってくれると凄く嬉しい。でも、最近はぎくしゃくしてばっかで、自分のせいだって解ってるのに……でも……」 「俺も……色々考えたよ。お前がそうしなかったら、きっと今でも答えを出せなかったと思う」 俺を抱きしめる彼女の手にギュッと力が入る。その気持ちは痛い程よくわかるから、だから、中途半端な事はしたくはなかった。一言一言を噛みしめるように、自分の気持ちをそのまま伝えられるように、慎重に言葉を選んでいく。 「ザードが初めてお前の写真を見せてきた時に抱いた気持ち……今なら解る気がする。だってそうだろ? そうじゃなきゃ、お前がニールの事を嬉しそうに話す度に、ザードと重ねる度に、こんなに苦しくなんてならねぇよ」 「シオン……私……シオンならいいよ」 「お前……」 ゆっくりと彼女の身体を自分から離す。彼女は俯いたまま、ぴくりとも動こうとはしない。俺は彼女の髪の毛を何度か撫でてやると、その手を顎に回して、優しく顔を上げさせた。 俺の顔を見つめながら、視線だけは必死に下げようとするイリア。そんな彼女をじっと見つめながら、徐に顔を近づけていく俺。その意味を悟ったであろう彼女が、反射的に目を閉じる。 きっと、それがきっかけだったのだろうと思う。俺の中で急に実感が沸いてきてしまって。気がついたら、ほんの微かにだけれど、唇が震えてしまっていた。 どうしよう、と考えているうちに唇が触れあう。唇を啄むような口づけを一度だけ。体中がカァっと熱くなる。頭がのぼせてしまって、彼女を見つめたまま、身動きがとれなくなってしまう。 「シオン……震えてたでしょ?」 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ドキリとするような事を平気で口走ってくれるイリア。胸の辺りが酷くざわついて、緊張が一気に頂点まで上り詰めていく。 「ああ、もう、そんな顔しないでよ。私だって物凄く緊張してたんだから。でも……ちょっとね、嬉しかったんだ。シオンと一緒で」 「ほんのちょっとだ。ちょっと緊張してただけだっての」 虚勢を張りながら、彼女の身体を一気にベッドへと押し倒した。 「きゃっ」 彼女は頬をうっすらと朱に染め、チラチラと俺の顔を見つめていた。さっき見せてくれた元気な顔も、きっと照れ隠しに違いなかった。 「……俺でいいんだな?」 いつになく真剣な面持ちで訊ねてみる。彼女は俺の顔をじっと見つめると、にこっと笑って「シオンじゃなきゃ嫌だよ」と答えてくれた。 「でも、灯りは消してほしいかな」 再び俺から視線を外して、今度はボソリとそう呟いた。 彼女に体重をかけないようにしてベッドから降りて、机の上に置いていた蝋燭の明かりをフッと吹き消す。光を失った世界はあっという間に紺碧の色へと染まっていく。 ベッドの方に振り返ると、彼女は腹の辺りで両腕を組んで、虚ろな目をじっと天井に向けていた。 「何考えてるんだ?」 上着のボタンをいくつか外して、彼女の隣にごろんと寝ころぶ。 「何か不思議だね」 「何が?」 「私達、こんな風になるとは思いもしなかった。何だろう、私の中のシオンは……ふふっ、やっぱやめとく」 「何だよ。気になるじゃないか」 「う〜ん……怒らない?」 「話による」 「じゃ、言わなーい」 「ちぇっ、解ったよ、怒らねぇから言ってみろよ」 「ホント?」 「ああ、本当だ」 「私の中のシオンはね、そう、赤ちゃんみたいな感じだったの」 「何だそれ」 「だって、いっつもワガママばっか言うし。イヤだいイヤだいってさ。何か、子供をあやしてるお母さんみたいな感じだったよ」 「改めて言われると恥ずかしいけどな。俺にとって心の底から甘えられるのは、やっぱ、お前だけだったんだ」 「でもね、本当は違ってたんだ。シオンはいつも私の事を考えてくれていて、気を遣ってくれていて……甘えてたの、私だったんだ」 「そんな事ーー」 「それに気付いてから、私の中のシオンは物凄く大きな存在になっていって……そんな時だったんだ。異世界で……あんな事になるとは思わなかった」 「もう終わった事だ」 「やっぱり、大切なものは失くして初めて気付くんだよ。私の中でシオンがどれだけ大きな存在だったか……どれだけシオンの事が好きだったか……」 イリアの髪の毛にそっと触れる。彼女の上に身体を重ねて、もう一度だけ口づけをした。眉間に皺を寄せて、ギュッと目を閉じた彼女の顔を、じっと見つめながら。 目を開いた彼女はキョロキョロしながら、決して俺の顔を見ようとはしない。俺が恥ずかしいと思っている以上に、きっと彼女の方が余程恥ずかしく思っていて、緊張しているに違いなかった。 だから、迷ってはいけない。中途半端な事をしてはいけない。これ以上、こいつに無理させるわけにはいかなかった。男なんだから、惚れた女に恥かかせられるか。 「怖がらなくていいからな」 「怖くなんて……ないもん」 「嘘ついてんじゃねぇよ。震えてるくせに」 「……シオンだって、さっき震えてたじゃん」 「俺の顔見ろよ」 「うん……」 「お前の嫌がる事は絶対にしないし、お前を傷つけるような事も絶対にしない。だから心配しなくていい」 応える代わりに、彼女はにっこりと微笑んでくれた。いつもの元気満タンな笑顔じゃなかったけれど、それが自然な笑顔だったから、物凄く嬉しかったんだ。
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to be continued...
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