酷い倦怠感を伴った目覚めだった。 窓の外からは鳥のさえずりが聞こえ、白々しい陽の光が差し込んで来ている。まるで氷の刃のようにーー起きたばかりの瞳にはそう感じられた。 左手で視界を遮って、目を慣らす為に何度か目瞬きをした。それからゆっくりと顔を横に向ける。そこで眠っているイリアをじっと見つめた。 不意に蘇る昨夜の記憶。しかし、感情の昂ぶりなど微塵も無い。ついにーーそんな言葉を心の中で呟いて、そして噛み殺した。俺が考えていたのは、そう、これからどうなるのだろうという事。彼女の事は愛しているし、その気持ちは今だって変わりはしない。しかし、ああなってしまった以上、これまで通りの関係を続ける事が出来るのだろうか。俺たちの中で何かが変わってしまうのではないか。そのような不安が、この胸を締め付けていた。 彼女の目が微かに開く。俺の姿を確認するなり、その口元に笑みが浮かんで、彼女はいつも通りの口調でこう言ってくれた。 「おはよう。シオン」 「おはよう。イリア」 俺もいつも通りに返してやる。顔中に満面の笑みを浮かべながら。俺たちは大丈夫だ。きっと。何が変わろうと、心の奥底にある一番大切な部分は変わりはしない。彼女の笑みを見て、そう確信できたから。
イリアの笑顔に見送られた俺は、足早にシェーナの部屋へと向かっていった。昨夜の事を話さなければならない。刺客の存在、俺が「彼ら」を脅かしうる何かを掴みかけているという事を。 この話だけはイリアに知られたくなかったから、だから彼女には適当な言い訳をして、部屋にいるように頼み込んだ。昨日までの彼女ならば、きっとすんなりと受け入れはしなかっただろう。だけど、今日は俺が驚くほど素直になってくれて。そんな彼女を騙すのに、些かの罪悪感をも抱かなかったと言えば嘘になる。それでも、そうする他無かったのだと自分に言い聞かせて、その感情を何とか押し殺していた。
「……だな。ふふっ、こんな所を女王にでも見られた、きっと腰を抜かすぞ」 「もう、そんな事言って」 ニールの部屋の近くまで来たところだった。聞き覚えのある声に足を止めた俺は、直感的に「気づかれるべきではない」と感じていた。即座に壁に背をつけ、柱の影から二人の姿をそっと窺ってみる。 「ねえ、いつまでもこんな所にいたら……んんっ」 女のくぐもった声が響き渡る。どうやら男が口付けをしたらしい。その二人の正体を悟った瞬間、俺は我が目を疑ってしまった。 そこにいた二人とは、紛れもなくニールとシェーナだったのだ。ニールの部屋の前で、二人は人目を憚ることなくーーと言っても、俺以外誰もいやしなかったのだけれどーー口付けを交わしていたのだ。何か見てはいけないものを見てしまった気がして、俺の胸は妙にざわついていた。心臓の鼓動がドクドクと波打って、体中から血の気が失せていくような感覚に襲われて。決して興奮していたわけではない。何か得体の知れない不安が、この胸をぞわりぞわりと覆い尽くそうとしていたのだ。 「誰もいないんだ。別に構わないだろ?」 「構うわよ。誰かに見られたらどうするの? ほら、早く部屋の中に。時間だってあんまり無いんだから」 「仕事か?」 「そうよ」 「全く、この仕事中毒め」 「悪い?」 「そう言うところもそそるけどな」 「でしょ」 二人の姿が部屋に消えていく様を見つめながら、俺は呆然と立ちつくしている事しか出来なかった。「この二人に限って」という思いが幾度と無くわき起こって、それに加えて、先程の「女王にでも見られたら」という台詞が胸に引っかかっていた。
結局シェーナにも会えないのだし、どうしようかと迷ったあげく、俺の足はユリアの研究室へと向かっていた。どうして、と訊かれたら答えに迷ってしまう。彼女とは大して面識があるわけでもないし、彼女がやって来た日以来、個人的に話をした事は無かったのだから。強いて言うならば、彼女に自分と近い何かを感じていたーーそういう事になるだろう。 目的の場所は薄暗くじめついた地下通路の先にあった。周囲から隔絶された静寂の中で、一度だけ深呼吸をして、そして慎重な様子でドアをノックする。 「どうぞ、開いてるわ」 分厚いドアを挟んで、聞き覚えのある声が返ってきた。その声に何故か安心しながら、ノブを握りしめた手にゆっくりと力を入れた。錆びた金属が軋む音と共に、血なまぐさい臭いが鼻腔に絡まりついてくる。 「あら、貴方が来るなんて珍しいわね?」 部屋の主は俺の顔を見るなり、口元にフッと笑みを浮かべて見せた。今は休憩中だったのだろうか。部屋の奥のテーブルに突っ伏した彼女は、ゆっくりと上体をあげながら「どうぞ」と続ける。 「時間、大丈夫か?」 「ええ。徹夜明けで、丁度休んでいた所よ」 「徹夜明けだったのか? だったら出直すよ。たいした用事じゃないんだ」 そう言って部屋を出ようとした俺を「いいのよ」と制止するユリア。考え過ぎかもしれないが、どこか傍にいて欲しそうな、そんな雰囲気を彼女から感じたのだ。だから、それ以上抗いはしなかった。彼女の言う通りに部屋の奥まで行って、対面するように椅子に腰掛けた。彼女はもう一度口元を緩ませて、フフッ、と疲れた顔に笑みを添えた。 「貴方、何か飲む?」 「ああ。貰うよ」 「そうね、ミルティなんてどう?」 「ミルティ?」 「オルヴァン原産、栄養たっぷりのお茶よ。ちょっと甘いけどね」 「それじゃ、それを」 「了解」 のそのそと立ち上がるユリア。すぐ傍のかまどまで歩いていくと、その前で両手をかざしてみせた。 一瞬にして彼女の周りに「磁場」ができあがる。それを見逃す筈がなかった。 彼女の掌がオレンジ色の光に包まれていく。神々しくも柔らかな光だ。その周りにもう一つの磁場が出来上がって、それは彼女の赤い髪を背後へと靡かせていた。 「エオー・ケン」 言の葉が光に命を与え、矢の如く放たれたそれは、一瞬にして薪を燃えだたせていた。パチパチと音を立てながら、赤黒い火の粉が盛んに舞い上がっている。 「どうして……」 目の前で繰り広げられた光景に唖然としながら、そう問わずにはいられなかった。科学立国<オルヴァン>出身の彼女が魔法を使えようなど、誰が予想し得ただろう。 「知らなかったの? もともとはね、私もこちらの人間なのよ」 驚く俺を尻目にさらりと言ってのける。 「じゃあどうして」 「どうしてどうしてって、子供じゃあるまいし」 「いや……そうだけど」 「今から十年前になるかしら。アカデミーに在籍していた私は、初めてオルヴァンの存在を知った。貴方も知っての通り、決して一般の人間はあの国の存在を知りはしない。情報管制が敷かれているからね。それなりの資格が与えられた者ーーつまり社会を構成するヒエラルキーの上位に位置する者だけがその存在を知っていた」 「それで?」 「あの頃の私はね、魔法に対して限界を感じていた。その力が超常的な存在によって与えられるものである以上、そこには必然的に限界が生じる。その限界を超える術を、私はオルヴァンに求めてしまった」 「随分意味深な言い方じゃないか」 「そうする事が正しかったかどうか……その答えを未だに出せずにいる。いえ、もしかしたら答えは出ているのかもしれない。だけれど、それを受け入れるだけの器が私に無いのかもしれないわね」 「後悔しているのか?」 「その質問に対する答えはイエスでありノーでもある。オルヴァンに行った事で得たものもあるし、失ったものも、ね。『切り裂き魔』の名前もその一つだわ。やだ、そんな顔しないでよ。別に、気にしちゃいないんだから。確かに、間違っちゃいないしね」 「一つ訊いてもいいか?」 「私に答えられることならば」 「どうしてここにいる?」 不意に彼女の顔から笑みが消えた。その表情は、まるで仮面を付けたかのように固まっている。一度だけテーブルに視線を落として、再び俺を見つめた彼女は、躊躇いがちに唇を開いた。 「お呼びがかかったからよ。遣いの人が、古い友人の手紙を携えて、わざわざ辺境のオルヴァンにまでやって来たから」 俺の質問の真意に気づかない筈がなかった。それなのにはぐらかすような答えを突きつけてくるのは、そこに答えたくない何かがあったに違いなかった。そしてその「何か」は、俺の好奇心を猛烈に駆り立てていた。再び問いかける無礼を忘れさせるくらいに。 「そうじゃなくて」 「貴方には解らないかもしれないけれどね、誰かに必要とされるというのは、とても大切な事なのよ。それがどのような形であろうとも、ね」 俺の言葉を遮って続けられたのは、まさに求めていた答えそのものだった。彼女の中に見いだしていた、俺と同質の何か。その正体を見つけた気がして。ほっとしたのが半分、その一方で、とてつもない不安のような感覚が胸にもたげていた。 「どうしたの? ぼぅっとしちゃって」 「え……あ、いや。何でもないんだ」 「そう? まあいいわ。ほら、出来たわよ」 そう言いながら、丸いカップを差し出してくる。外側が水色に塗られたお洒落な感じのものだ。中には肌色に近い液体が並々と注がれ、甘い香りを漂わせていた。 「ありがとう」 「お口に合うかしら?」 少しだけ口に含んだ瞬間、芳醇な香りと上品な甘さがパァッと広がっていった。味は搾りたての甘いミルクに似ているかもしれない。 「ああ、意外と上品な味がするんだな。かなりうまいぞ」 「良かった。冬にはね、暖炉の周りで身体を温めながら、それを飲むのよ」 自分用のカップを持ったユリアが席に戻ってくる。彼女はそれをごくりと飲み込むと、天国だと言わんばかりに、大きなため息を一つだけ吐いた。 「時々、無性に話し相手が欲しくなるの。こんな風に穴蔵にこもってるとね」 「だろうな」 「もともと人付き合いが好きなタイプでもないんだけど……それも程度問題だわね。少し前までは毎日のようにヒルダが来てくれてたんだけど、最近は忙しいみたいで」 「色々あってゴタゴタしてるからな。アドビスは」 「ねえ」 手にしたカップをテーブルにおろすユリア。コトリという陶器独特の音が響き渡る。反射的に視線をあげると、彼女は俺の顔をじっと見つめていた。どことなく真剣な面持ちだ。 「この国で一体何が起きているの?」 「さあ」 「なら、この国で一体何があった?」 「…………」 正直なところ、その問いかけにどう答えて良いか解らなかった。どこまで話して良いのか。どこまで話せるのか。この二つの疑問は、一見同質に見えて、実は全く違った次元の問題なのだ。一方はこの国に属して、もう一方は俺自身に属している。そして俺が口ごもる理由は、どちらかと言えば後者にあった。 「久しぶりにこの国に来た時、あまりの変わりようにびっくりしたわ。何があったのかとヒルダに訊いてみたけれど、彼は何も答えてはくれなかった。ただバツの悪そうな顔をして、適当に話をはぐらかそうとするだけで。別に、それを聞いたからって他言はしないわよ。絶対に」 「そんな心配なんてしてなかったと思うぞ? ただ、色々と複雑なんだ。色んな事情と実情が入り組んでいて、なかなか整理をつけるのが難しい」 「でも貴方は知っている」 「そうだな」 「話してよ。私には聞く権利があると思わない?」 「どうして?」 「私は貴方の質問に答えた。そうするつもりは無かったのに。解らないなんて言わせないわよ。貴方は全てを承知していた。そうでしょ? だから、今度は私が訊く番」 「……あんたには敵わないな」 「私も、負ける気がしないわ」 「そうだな……一体どこから話せばいいか」 「かいつまんで話してくれればいいわよ」 「かいつまんでも、色々と複雑なんだよ」 「いいからいいから」 「全く……まあいい。アドビス国王の事は?」 「ええ、病死したそうね」 「そう言うことになっているな」 「なっている?」 「その背後には、この国で起こった『とある事件』が関係している。要するに、権力闘争に他ならないわけだが」 「ルハーツ女王?」 「……ご名答。彼女はこの国を手中に収める為、邪魔になった国王の暗殺をイールズオーヴァ依頼したんだ。イールズオーヴァ……北の暗黒、ディアボロスの水晶を持つ男」 「な……ディアボロスの水晶ですって!?」 「奴はこう言っていた。『これはこの世界のアポトーシスだ』と。それを達成する為にルハーツに取り入り、アドビスを中心に形成されていたヘキサグラムを発動させた。あんたも知ってるだろう。各地に点在する六つの古代神殿を。あれはただの遺物なんかじゃない。相互干渉することによって、オッツ・キイムの地下深くを流れる『力』のバランスを維持する為の機構……そのバランスが崩れた瞬間、力は暴走し、この世界は消えて無くなる」 「そんなことが……」 「張本人のルハーツ女王は尼寺に隠遁し、後に残されたミトが必死になって国を立て直そうとしている。くそっ……イールズオーヴァの侵入さえ防げれば、こんな事にはならなかった筈なのに」 不意に、ユリアはテーブルへと視線を落とした。何かを考えているような素振りを見せて、それからゆっくりと俺の方に顔を上げる。 「ねえ」 「ん……何だ?」 「こんな事は言いたくはないんだけどね」 「構わないさ」 「私には、あなた達の持っている技術力で今回の一件が為し得るとは、どうしても思えない。外部から技術が流出してきたか、もしくは外部の組織や人間が関与しているか……内部犯行者とは別に黒幕がいるのではないかと考えている。味方ばかりに目を光らせていたら、いつか足元をすくわれるわよ」 その言葉に、何一つ反論することが出来なかった。 また同じ事が繰り返されるというのか? この国で。もしそうなった時、今度こそアドビスは乗り切ることが出来るのだろうか? シェーナと話さなければならない。それで何が変わるかなんて解らない。それでも、彼女と話さなければならない。 「すまない」 「ん……どうかした?」 「用事を思い出したんだ。すぐに行かないと」 不安を胸に抱いたまま、ユリアに暇を告げた俺は、足早にシェーナの部屋へと向かっていった。
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to be continued...
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