ユリアの部屋を後にした俺は、すぐさまシェーナの部屋までやって来ていた。 窓からは太陽の光がさんさんと差し込んできて、部屋の中に明かりが灯っているかどうかは判然としない。耳を澄ましてみるものの、音らしい音も聞こえては来なかった。俺が見たものが間違いないなら、今頃はニールとお戯れの最中だろうから。いや、そんな事を考えるのは止そう。俺には関係のないことだし、第一、いかにも意地が悪いじゃないか。 「どうせいないだろうな」と思いつつ、二度ほどドアをノックしてみた。中からがさごそ音がして、「誰?」というぶっきらぼうな答えが、唐突に返ってくる。 「俺だ。シオンだ」 「ああ……貴方。鍵は開いてるから、勝手に入ってきて頂戴」 言葉まで随分ぶっきらぼうだなと思ったが、取り敢えずは気にせずに中へと入っていく事にした。 シェーナは椅子に座ったまま、机の上の書類を整えながら、気だるげな視線を投げつけてくる。心なしか、口紅の朱が随分と薄らいで見えた。肌には張りがないし、眉間には深い皺が刻まれている。まるでそれが当たり前であるかのように。 「どうしたの?」 そう言って、いかにも不機嫌そうに唇をへの字に歪めてみせた。凝視されているのが気にくわないのか、それとも話を切り出さないのがじれったいのか。女心は複雑だと言うが、よもや彼女に思い知らされようとは、思ってもみなかった。ともかく、これ以上沈黙を守るのは得策ではないだろう。 「そっちこそどうしたんだ? 酷い顔してるぞ」 ハッと息を吐き出して、口元に微笑を浮かべるシェーナ。しかし、その目は決して笑ってはいない。 「何ですって?」 「いや、だから、随分くたびれた顔をしてるな、と思っただけだ」 その切り返しがまずかったと気づいたのは、彼女がもう一度だけハッと息を吐き出した瞬間だった。まったく、どうして彼女のご機嫌を伺わなければならないのか理解に苦しむ所だが、目の前の女性はその事で随分とご立腹らしい。その顔はみるみるうちに鬼のような形相へと変わっていく。 「一つだけ教えておいてあげるわ。女の子にそんなことを言うもんじゃないわよ」 「女の子?」 「私が女の子かどうか議論するつもりはないし、そんなことをしている時間はないのよ。私は忙しいの。そんなことを言いに来たのなら、さっさと帰って頂戴」 「そんな訳ないだろうが」 「だったら何なの」 一人で怒っているシェーナをじっと睨み付ける。少し間をおいて落ち着かせようというつもりだったが、それすらも苛立ちの対象にしかならなかったらしい。眉間に皺を寄せたまま、「ねえ」と先を促そうとしている。 「襲われたんだ」 「イリアちゃんに? あのねぇ、そんな事今話してる暇なんて……」 「まじめな話だ」 彼女の顔から徐々に険しさが消えていく。一度だけ机の上に視線を落として、再び俺の顔を見上げてみせた。今度は真剣な顔つきをしていた。 「……襲われた?」 「ああ」 「いつ?」 「昨日の晩だ」 「犯人に心当たりは?」 「ない」 「特徴は?」 「声は変えていたが、あれは間違いなく男だな。背は俺よりも一つぬきんでた程度だ。顔は見ていない。途中で乱闘になって、太ももの所に手傷を負わせてやった」 「貴方は無事だった?」 「ああ、何とかな」 「それで、何か言っていたの?」 「犯人か?」 「ええ、もちろん」 「例の件から手を引け、と」 それが何を意味するかくらい、彼女に解らぬはずがなかった。それを裏付けるように一度だけ、大きなため息を吐き捨てる。下唇を噛みながら俺の顔をじっと見ていた。 「そうすべきだわ。今手を引いたなら、貴方にこれ以上の危害は及ばないでしょう。私がそう判断した理由、貴方になら解るわよね」 「ああ」 「だったら」 「俺は引かない」 「シオン……」 「説得しようとしても無駄だ」 「今なら引き返せる。でも、ここから先に進むつもりなら、彼女にだって」 「解ってる。あいつは俺が守ってみせる。絶対に」 「……ねえ、一つだけ訊いていい?」 「俺に答えられることならば」 「あなたの事は知っているわ。この国は貴方にとって好意的な対象とはなり得る筈がないと言うことも。私には、貴方がそこまで固執する理由が理解できない。ねえ、どうして? どうしてそこまで?」 それはまさに核心をついた質問だった。俺は内心でハッとしていたが、それを表に出すわけにはいかなかった。だから、彼女を睨み付ける目を決して逸らしはしなかった。決して動揺を悟られないように。出来うる限り平然を装っていた。 「俺はもう逃げたくないんだ。もう二度と、逃げたくはない」 不意に彼女の視線が落ちる。彼女は俺の腹の辺りをぼうっと見つめながら、その瞳に虚ろな光を宿していた。 「貴方も……囚われているのね」 「え?」 「既に事態は私達の手から離れてしまったのかも知れない。くれぐれも気をつける事ね。私達はあまりに無力だわ」 「何を知っている」 「警告はしたわよ。ここから先は貴方の自己責任。解ってるんでしょ?」
シェーナは何か知っている。一連の事件の核心に迫る何かを。彼女の忠告は一体何を意味しているのだろうか? それは味方としてのものか? それとも敵としてのものなのか? 彼女とニールの繋がりは何を意味している? 疑心暗鬼に陥っていた俺は、そのような事を延々と考えながら、いつの間にか部屋に戻ってきていた。部屋の中にはイリアが、ずっと俺の帰りを待ち侘びていたらしい。ドアを開けた時には笑顔だったその顔も、今は不思議そうな面持ちへと変わってしまっている。きっと、そうさせてしまうような顔をしていたに違いなかった。 「どうかした?」 恐る恐るといった風にイリアが口を開く。俺はベッドの上にドスンと座ると、「いや」と何もなかった風に答えを返した。 その答えに納得しなかったのだろう。俺の前に立ちはだかったイリアは、怒ったような顔をしながら「そんなわけないでしょ」と続けた。きっと、そう返して欲しかったんだと思う。この時の俺は、話し出すことの出来ない話題を、こいつに振って欲しいと思っていたのだろうから。 「お前に……迷惑をかけるかもしれない」 イリアは何も答えなかった。ただじっと俺を見つめて、その先を促しているようだった。 「あの時、俺はこの国から逃げ出したんだ。何もかも嫌になって、耐えられなくなって。尻尾を巻いて逃げてしまった」 「シオン……」 「もう逃げたくないんだ……もう二度と……じゃないと、一生この国の影に追いまわされるような気がする」 イリアの暖かい掌がそっと頬に触れる。その手を頭の後ろまで回すと、柔らかな胸で緩く抱いてくれた。 とくんとくん、と心音が聞こえてくる。とても穏やかで優しいリズムは、俺の心を優しく包んでくれていた。その音を聞きながら、俺はこの上なく安心していた。 「私は傍にいるよ。何があろうと、ずっとシオンの傍にいるからね。だから心配しないで」 応える代わりに、彼女の背中をギュッと抱きしめていた。
翌日、俺達とヒルダはユリアの研究室に集まっていた。王位継承の儀を一週間後に控え、これ以上結論を先延ばしには出来ないだろうと、こういう訳だ。 「それで、何か新しい進展は?」 舵取り役のヒルダが口を開く。 「あったわ」 そう言って「まだ仮説の段階だけど」と付け加えるユリア。ずっと眠っていなかったのだろうか。目の下には酷い隈ができて、心なしか顔色も良くはなかった。 「何です?」 「私がここに来た時、解剖に立ち会って貰ったわね」 「ええ」 「あの時に脳が収縮していたと言ったけれど、覚えている?」 「もちろん」 「あれは恐らく、過剰な薬物の投与によるものだと考えられる。それならば、ある一定レベル症状が進行した所で、脳の正常な機能は失われてしまうでしょうね」 「というと?」 「端的に言えば暴走を始めるわね。意志が介在する余地もなく、ただひたすら破壊的行為につきはしる。クーデターの時に暴走した魔物がこれに該当するものと考えているわ」 「まさに手に負えなくなると?」 「ええ。それを想定はしたわけではないでしょうけれど。そのような個体が大量に発生すれば、あなた達にとって愉快ならざる事態に陥るのは間違いないでしょうね」 「そんな……他人事みたいに言わないでくださいよ! あなたが来てからも、城下に現れる魔物の数は一向に減る様子はない。それどころか増えてさえいるんですよ? どうにかしないとまずいでしょう!?」 「勘違いしないで。私はあなた達の尻拭いをしに来たわけではないのよ。私の仕事は、その現象の分析と解明にあるの。そこをお忘れなく」 「そんな無責任な!」 「無責任なのはあなたがたの方でしょう。こんなになるまで放置しておいて。いい? 自分たちの取った対処を思い返してみて。城下への出入りは完全に管理されている。そうでしょ? 24時間、兵士が見張っているんですからね」 「その中に裏切り者がいたとしたら」 「いたとしても私の責任ではないわ。でも、現実的になりなさい。監視にあたる兵士達はランダムに選ばれる。そして一定時間ごとに組み替えられている。そこに不正の痕跡を探る暇があったら、他に考えることがあるでしょう?」 「他にって、一体何の事を言ってるんです!?」 「怒った顔も素敵ね」 「冗談はよしてください」 「あなたこそ、ピリピリしてるのは解るけど、私にあたるのはよして頂戴」 「…………」 「解ってるんでしょ? 外からの侵入なんて不可能だわ。それに、魔物の数が増えていると言ったわね?」 「……ええ」 「それはとても不自然な事よ。第一に、それだけの数の野生の魔物を捕まえるだけで一苦労だし、その全てに手技を施すなんて現実的ではないわ。全てが管理下で行われたとしたら話は別だけど、それにはかなり高度な技術が必要となる筈だからね」 「その個体の発生から……という事ですか?」 「そういうことになるわね。ただし、私にはそれを可能とする方策など思いも寄らない」 そう言って視線を落とすと、彼女は一つだけ、大きなため息を吐き捨てていた。己の無力さを悔いているのか。それとも疲れ果てていたのだろうか。そんな彼女を見たヒルダもまた、その顔に暗い影を落としていた。下唇を噛みしめて、視線を宙にさまよわせている。 「……先程はすみませんでした」 「何が?」 「怒鳴りつけてしまって」 「ふふっ、別にいいのよ。こういうのは慣れているからね。いえ、そういう事じゃなくて、つまり、議論には慣れていると言うこと」 「すみません」 「もう謝らないで」 「すみま……あ……」 「少し休憩しましょう。そうした方が良いわ」 「そういえば……あ、この件とは関係ないんだが」 黙っているのが性に合わなくて、取り敢えず会話に参加してみたものの、先の二人とのトーンの違いに思わず口を噤んでしまう。だが、二人ともそんなことはお構いなしといった風だ。気分転換になるとでも思ったのだろうか。ユリアは「どうぞ」と言って先を促してくれた。 「シェーナの事なんだが、最近様子が変だとは思わないか?」 「シェーナって、あのシェーナ?」 明るい口調でユリアが言う。少なからず喜んでいるようだ。まあ、あれだけ反目していれば無理もないのかもしれないが。 「他にシェーナがいれば別かもしれんが、取り敢えず俺達が知ってるシェーナだよ」 「あら、一体どうしたというのかしら」 「あのなぁ……」 「シェーナがどうしたんです?」 「いや、最近妙に疲れた風じゃないか? いつもピリピリしてるし」 「彼女は女王の補佐官として、今回王位継承の儀を取り仕切ってるんです。ストレスもたまるでしょうし、ピリピリしても仕方がないと思いますが。だから、少しぐらいあたられても受け入れてあげないと」 「いや、それは解ってるんだが……何か違うんだよ。何て言うか、ほら、自暴自棄になってるみたいな感じがしてさ」 「そうですか?」 「そうだよ。お前、シェーナとは仲がいいんだろ?」 「私が?」 「ああ」 「い、いや、別にそんなことはありませんけど」 「何でどもるんだ?」 「べ、別に」 「またどもった」 「い、いいですから、話を続けてください」 「ああ、そうだったな。だから、ちょっと話してみたらどうだ? それとなくな。訊き出してみるんだよ」 「訊き出すって、何をーー」 その時だった。ドアをドンドンと叩く音が聞こえてきて、「失礼するわ」という言葉と共に入ってきたのは当のシェーナだった。 「何よ? 人の顔じっと見つめちゃって」 「い、いや、何でもないんだよ」 「それより、どうしたの? あなたがここに来るなんて珍しいと思うけど」 すかさずユリアが口を挟む。何となく意味深な言い方だが、シェーナの方には挑発に乗るつもりはないようだった。 「三人がここにいると聞いて来たのよ」 「何かあったのかい?」 「ええ、そうなのよ。例の兵士達のリスト、あらかた洗い出してみたんだけどね」 「当たりか?」 「かもしれない。リストに載っていた中の三名が、一昨日から姿をくらましている」 「名前は?」 「ええと、ちょっと待って頂戴ね。一人目がアリシア・トリアティ。二人目がウェイ・ラズロー。最後が……」 唾をゴクリと飲み込んでいた。胸がざわついてる。きっと奴ではないかと思っていた。だとしたら、あの時に逃がしてしまったのは手痛い失態に違いなかった。 「そう、ユーリ・カルバよ」 胸の底から沸き起こってくる悔しさに、俺はただ歯を噛みしめるしか出来ないでいた。
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to be continued...
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