五人分の足音が薄暗い廊下に連なっている。長い間使われていなかったのだろうか。ひんやり冷たい空気はかび臭く、石畳の端々にはコケが蒸している。 「この度はアドビスまでご足労頂き、本当にありがとうございます。セレッティ博士」 そう切り出したのは、先導役のヒルダだった。真っ白な白衣をたなびかせながら、壁に反響した声は、いつもよりも高く歪んで聞こえた。 「こちらこそ。お招きいただき感謝するわ。それはそうと、私の事はユリアと呼んで頂戴。堅苦しいのは苦手だから、フランクにいきましょう。もちろん、差し障りがなければ、だけれど」 廊下に響き渡った低くくぐもった声は、どこかしら男勝りな雰囲気を醸し出していた。背丈は俺よりも頭ひとつ抜きん出た長身。透き通るような赤い纏った髪の毛は、肩の上でラフに切り揃えられている。白いコートをまとったその姿は、後ろからだと、男と見紛うくらいだ。 「構いませんよ。それでは、私の事はヒルダと。そちらはシェーナ、シオン、それからイリアです。あとの者は……」 「気を遣って頂かなくても結構よ。察しはつくわ」 「恐縮です。それで例の報告書ですが、目を通していただけましたか?」 「ええ、なかなか面白かったわ」 「何分にも私の専門は魔法科学なもので……あまりお役には立てなかったとは思いますが」 「そんな事はないわ。うまくまとまっていたわよ」 「ならよかった。単刀直入にうかがいたいのですが」 「人間に魔物を操ることが可能なのか、と?」 「ええ、論理的には」 「全ての論理を成り立たせているのは、綿密な事象の観察と、その整理統合、再構築よ。事実の裏づけのない論理など絵空事に過ぎないし、それを突き崩すには一つの反例で事足りる。私達は目の前にある事実を何よりも重視すべきだわ。そうでしょ?」 「興味深いですね」 「ふふっ、ごめんなさい。この話はよしましょう。検証不可能な神の力を拠り所とするあなた達とは、どこまでいっても歩み寄れはしないものね。それで、論理的に可能かどうかという問いに対する答えは、おそらくイエス」 「恐らく?」 「まだ仮説の段階ね。実際にやったことなんてないから何とも」 「ただし、そういった事実があるのならば、可能性は大いにあり得る、と?」 「飲み込めてきたわね」 「お蔭様で」 さらっと流すように言って、ヒルダはその場に足を止めた。そしてくるりと身を翻すと、ユリアの顔を見つめながら、話を続けた。 「こちらがあなたの研究室になります。隣は寝室ですので、自由に使って頂いて構いません」 「入っても?」 「ええ、もちろん」 恐る恐るといった風にゆっくりと研究室のドアを開けるユリア。古い建物に似つかわしい、金属が軋む耳障りな音が響き渡る。彼女の背中が邪魔で、中の様子を見る事は出来ない。だけれど、鉄が錆びたような臭いが漂ってくるのはすぐに解った。 「先日城下に現われた魔物です。生け捕りには出来ませんでしたが」 彼女は無言のまま部屋の奥へと進んでいく。魔物の横たわったベッドのすぐ傍まで来ると、食い入るように、その遺体に目を凝らしていた。 「あの……」 「白衣はあるかしら?」 「は……はぁ。それならそちらのクローゼットに。何着か常備してあるはずですよ」 「あったわ。サイズもぴったりね」 「隣で見ていても?」 「ええ、でも平気なの?」 「一応は」 「ならご自由に。あとの三人にはそこで待って貰っていたほうがよさそうね」 「言われなくとも」 ここぞとばかりに口を開いたのはシェーナだった。どことなく挑発的な物言いに、彼女の意思が見え隠れしている。それが余計な衝突を生み出さねばよいのだが。 そんな事を考えながら、イリアの方に視線を向けてみる。魔物と床を交互に見返しながら、彼女は苦々しげに唇を噛み締めていた。幼い頃から魔物と触れ合ってきた彼女の事だ。いくら割り切っているとは言え、それにも限度というものはあるのだろう。 無言のまま、彼女の肩にそっと手を触れる。特に深い意味はなかったし、彼女の事を思いやっていたつもりだった。しかし、彼女はそうは受け取らなかったらしい。小さな体をびくっと震わせ、逃げるように俺から半歩ほど距離を開けてしまった。それをシェーナに気付かれるのが嫌で、俺は何事もなかったふりをしながら、ユリア達の方へと視線を向けた。 最近、なんとなく二人の間に距離が出来てしまったような気がしていたけれど、今日のはまさに決定打で。冷静を装っていた俺の内心が穏やかではなかったのは言うまでもないだろう。 「確かに、ここに術式を施した痕があるわね」 「この前と同じです」 「再切開するわ」 「それは?」 「特殊なナイフよ。こういう用途に限定された、ね」 「なるほど。オルヴァン製ですか?」 「いいえ、ファーティスのものよ。技術的にはあちらの方が優れているからね」 「ファーティス……ですか」 「ふふっ、あなた達には馴染みがないんじゃないかしら? オッツ・キイムの中央部に広がる魔法立国と、かたや周縁部で発展を続けてきた科学立国……交友など殆どないでしょうからね」 「ですね。一般市民はそのような国が存在することすら知らないでしょう」 「封建主義の賜物ね」 「確かにそういうところもありますが、ですがアドビスは……」 「そう? まあいいわ。ん……」 「どうしました?」 「頭骨は綺麗だわ。いったいどういう事かしら?」 「さあ……そこら辺りの事はちょっと……」 頭の芯が麻痺しているようだった。 散漫な思考に、二人の会話が次々と降り積もっていく。その意味など何も解らないまま、それは飽和状態へと達して、古い記憶は淡々とあるべき場所を失っていく。 「脳に達したわ。確かに術式を施した痕はある……でも手術創は綺麗なものね」 「その手術創というのはどこの事です?」 「ここよ。どうやら前頭葉を削除したようね。脳全体が萎縮しているのも気になるところだわ」 「というと?」 「何らかの薬物を投与された線が濃厚ね。そう、麻薬系のものか」 「麻薬……」 「ねえ、ちょっといいかしら?」 「シェーナ……でよかったかしら? どうぞ」 「ええ。あなた、いつもそんな事を?」 「そんな事とは?」 「生き物の体を切った貼ったして……」 「シェーナ!」 「いいのよ、それが私の仕事だもの」 「どうして?」 「どういう意味かしら? 何故私がそれを生業にしているか、と?」 「そうよ」 「この世界は、人間は……全て神によって創られた。そうね?」 「ええ」 「あなた達クレリックの力の源は神そのもの。それは祈る事で神から与えられるもの」 「そうよ」 「つまり、あなた達は神の庇護の元に生きているということになる。言い換えるなら、それは呪縛であり、人間をその限界に押し込める頚木でもある」 「ちょっと、あなた……」 「私はね、人間をその頚木から解き放ちたいだけ。神の領域に足を踏み入れることによって、それすらを凌駕することによって、初めて私達は己を支配することが出来るようになる」 「……ふふっ、変なことを言ってごめんなさい。結局、どうやっても私達が分かり合うなんて無理なんだわ」 「そうね」 「あなたを推したのは私よ。私達にはあなたが必要……こんな事言うつもりなんてなかったのに。ごめんなさい」 「解っているわ。気にしていない」 「……ごめんなさい」 |
to be continued...
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