「シオン……私。入ってもいい?」 結局シオンの部屋の前でずっと立ち竦んだまま、私が中に入る決心をしたのは数分の後だった。 「ああ、入れよ」 少しだけ間を置いてからいつもと変わらないシオンの声が迎えてくれた。 私は一つだけ深呼吸をすると、意を決してドアノブをひねって中に入っていく。 「どうしたんだ、イリア?」 私の目に映っていたのはいつも通りのシオンだった。表情、声、素振り、その全てが"いつも通り"だったのだ。 しかし今は、その全てが痛々しく見えた。 彼は――シオンは、私に情けない姿を見せまいと必死になっているのだ。この国だけじゃない、親にまで冷たい扱いを受けて……平静を保てる筈が無かった。 「ううん。シオンが……大丈夫かなって思って」 その言葉を選んだ事を酷く後悔した。私が心配しているという事を知ったら、シオンの事だ、必死になって平静を装うに違いない。 そして今も……その例に漏れてはいなかった。 「何がだよ?俺は平気だぜ。それよりお前の方こそ、こんなだだっ広い城ん中で落ち着かないんじゃねーの?迷子になったりするなよ。恥ずかしいから」 馬鹿にしたようにシオンが笑う。笑顔が引き攣って行く。そして引き攣った笑みは……顔に張付いて行く。まるで仮面のように。 「ひっどいの……そんな事無いよ!」 「どーだかな?じゃ、この城ん中でかくれんぼでもやってみるか?」 「ふんっ!どうせ私は方向音痴ですよーーだ!!」 「へへっ、解ってるじゃねーか。お前も少しは成長したって事だな」 自然に笑っているシオンの顔を見て、少しだけ安心した自分がいた。 「何笑ってんだよ?」 「何って、シオンだって笑ってるじゃない」 「ははっ、そういやそうだ」 その瞬間、ドアの方からノックする音が聞こえてくる。 「あの……お義兄様、ミトです。入ってもいいですか?」 先程王妃の隣に座っていたミト王女だった。 「……ああ、構わない」 シオンの顔は少しだけ強張っていた。 しかし、それは王妃を前にしたあの時とは違っているように思えた。 「お義兄様……さっきは……ごめんなさい」 部屋に入るなり、ミトは今にも泣き出しそうな顔をしながらそう切り出した。 一方のシオンは先ほどまで強張らせていた顔を緩ませると、少しだけ笑みを浮かべてミト王女に向かって歩いていく。 「お前が気にすることじゃない。それに……こうやって来てくれるだけでとても嬉しいよ。見つかると色々言われるだろ?母上に」 「そんな事どうだっていいんです!私はお義兄様がご無事で、こうやって戻ってきてくだされば――」 言葉を遮り、シオンはミトの身体を抱きしめていた。震える彼女を抱くその姿は、今まで一度として見た事の無い物だった。 だけど……不思議と心がポカポカして行くのを感じていた。 「お前は元気にやってるのか?何か嫌な事とか、辛いことはないか?」 やわらかなシオンの声が部屋中に響いていた。それが嬉しくて、気がついたら私までもが自然と笑みを浮かべていた。 「ええ、私は大丈夫です。でも…………」 「どうした?」 「でも……お父様が……」 その瞬間、シオンの身体が微かに震えたのを私は見逃さなかった。 「父上は…………」 「私達の前では気丈に振る舞っておられます。でも、すっかり元気を無くされて……全権をお母様に渡して、今は部屋に閉じこもったまま。殆ど誰とも口をお聞きにならないで……」 「……会えるか?」 「はい。そのつもりで来ました。お義兄様とお会いになればきっと……きっと元のお父様に戻ってくれると、そう信じています」 ミトを抱く手を放すと、シオンは私の方に向きかえって意を決したかのように口を開いた。 「ウリック……来てくれるよな?」 私は静かに頷く。それ以上の説明は必要無かった。 そしてシオンは薄らと笑みを浮かべると、身を翻して歩き出した。
アドビス城の奥まった場所に王の部屋はあった。 まるで回りから隔絶されたかのようなその空間は酷く冷たい印象を与え、背筋を冷たくさせた。 「ここに……こんな所に父上が……?」 シオンの声は震えていた。 怒りと悲しみに満ちたその声は私の心をも捉え、その色に染めていく。 「お母様が命じられて……私は反対したのですが」 ミトの言葉に応える事無く、シオンは二回ほどドアをノックすると、無言のまま部屋に 入っていった。
カーテンは全て閉められ、辛うじて光を与えていたのは一本の蝋燭の灯火だった。 部屋中に停滞した空気が垂れこめ、その雰囲気に似つかわしくない大きな屋根付きのベッドに、王は横たわっていた。 そして微かに頭をあげると、私達の顔をじっと見詰めた。 「誰かね?新しい…………!?」 その瞬間に王の瞳がカッと見開かれる。皺だらけの顔が更に歪んで、あっという間にどろっと濁った瞳に大粒の涙が溜まっていった。唇はぶるぶると震え、それは次第に身体中に広がって行く。 「シオン…シオ……シオン……シオン…!!」 その名を必死に繰り返しながら、王はぎこちない動作で上体を起こすと、そのままベッドから降りようとした。 しかしバランスを崩したその身体はドスッという鈍い音と共に地面に叩きつけられる。 「父上!!」 擦れた叫び声をあげながらシオンは走り出していた。 そして地面に這いつくばったまま、未だにシオンの元へ行こうと必死になって手を伸ばす王の身体をいだき、きつく抱きしめていた。 「父上……すみません……私のせいで…………」 シオンに抱かれるアドビス王の顔はとても安らかに見えた。そう、前に会った時に見たその顔のように。 「もうよい……シオン、お前が生きていてくれただけで…………私は……私は嬉しい………」 「父上………」 ミトの肩に触れた瞬間、二人の視線が絡み合った。そして互いに頷きあうと、私達は静かに王の部屋を後にした。
夜の帳が下りてから暫くの時が経っていた。 シオンの言葉ではないが、何となく広いベッドに寝付けずにいた私は寝巻きに上着を羽織ると城の中庭へと向かって行った。 このままベッドの上に横たわっていても眠れそうに無かったし、以前シオンから中庭から見える月の美しさについて聞いていたからだ。 前は月を見る度に異世界の恐怖が頭を過った物だが、シオンと再会してから不思議とそのような恐怖は消えて行った。 きっと、月そのものが怖いのではなく、月のような妖しい光を纏ったイールズ・オーヴァの瞳に恐怖を感じていたのだろう。 全てが終わった今、もはやそのような恐怖を抱く必要などどこにも無かった。
中庭は蒼白い月光に染められていた。 全てがやわらかな光に覆われ、独特の幻想的な世界を形作っていた。 そしてその中に……私のよく知る者の姿を見つけた。 「……シオン」 彼に聞こえる事の無い小さな声で呟く。 芝生の上に座った彼は、遥か空の彼方で輝く月を見つめていた。 翡翠色の瞳は蒼白い月の光を映し出し、硝子玉のような冷たい輝きを持っていた。そして絹のように白い肌はまるで陶器で出来た人形のように透き通っていた。 何て哀しそうな目をしているの――心の中でその台詞を噛み締める。 私の目に映るシオンは、まるで子供のように純粋な存在に見えた。 そして同時に、酷く脆弱な存在にも見えた。 このアドビスという国で、彼は自分の色を失って行く。主張する事も、あまつさえ存在する事さえも許されず、彼はこの国に、そして人々に侵されてきた。彼らの望む存在になどなり得ないというのに、そうなる事を強制されてきた。そして何時の間にか……この夜を覆う蒼白い光に染まっていったのだ。 私の目に映る哀しげな彼の瞳がそれを訴えていた。 「シオン」 もう一度彼の名を呼ぶ。今度ははっきりと、彼にも届くような声で。 突然の来訪者に驚いたのだろう。シオンはその身体をびくっと震わせると、ゆっくり私の方に向きかえってみせた。 「イリア……どうした?こんな時間に」 求められている――不思議とそう感じた。 私は後ろで手を組むと、ゆっくりとシオンに向かって歩いて行った。 「寝付けなかったの。だから。昔話してくれたでしょ?ここの事」 一瞬、シオンの口元が緩んだように見えた。 「そう……か。覚えていたんだな」 「うん。一度見てみたかったんだ。シオンが……子供みたいに目を煌かせて話してくれたこの月を、ね」 「悪かったな。子供みたいで」 まるで拗ねた子供のように、シオンは口元を歪めてみせた。 刻が止まったかのようなこの幻想的な世界の中で、私達は唯一互いを共有し合い、そしてここに存在していた。 「いいんだよ、子供で。子供でいられる時間……無かったんでしょ?」 シオンの背中に胸をつけると、彼の首に腕を回した。その瞬間、彼はびくっと震えたけれど、決して拒みはしなかった。 私は……それが嬉しかった。女を嫌うシオンが、女としての私<イリア>を認めてくれた――それは多分、私を必要としてくれているのだと思う。 「なあ……アドビスを出て、おまえの家に行かないか?ほら、ザードと暮らしてたあの家にさ」 「……うん、いいよ」 「本当に?ここにいればうまい食べ物だって食えるし、フカフカのベッドで寝る事だって出来るんだぜ」 「おいしい食べ物にフカフカベッドかぁ……」 「チェッ……お前って奴はさぁ」 「……要らないよ。おいしい食べ物も、フカフカのベッドも。私はね、シオンがいてくれれば……傍で笑っていてくれたら……他には何も要らないんだ」 「イリア……本当に……それでいいのか?」 「ここにいるとシオンが辛い思いをする事になる。そんなの嫌だよ。それに……私の為に我慢させるのも……嫌」 「ありがとう……イリア」 「ううん。私達は二人で一つだから」 「……ああ」
「何か探検してるみたいだね。こうやって夜の城の中を歩くのって」 「探検なんて年中やってるだろ?誰かさんがお節介焼くおかげでな」 「む〜〜そんな言い方って無いでしょ?」 このような和やかな雰囲気でいられる事は随分と久しぶりであるように思えた。 シオンと一緒にアドビスに帰ろうという話をした時から、ずっと二人の間に言葉にしがたい暗雲のような物が垂れ込めていたのも事実だった。彼が進んでアドビスに帰りたがる筈が無い――それを知っていたから、なおさら私も気を使っていたのだ。 「ほら、ぼけーっとしてると壁にぶつかるぞ?」 「痛ッ!!」 「ったく……言ってる傍からボケかます奴がいるかよ……」 「だって暗いんだもん。仕方ないじゃん!」 「大体にしてお前には集中力って物が――――」 そこでシオンの声が止まった。彼は驚きを隠せないような顔をして立ち止まり、そして暗がりの先のある一点を凝視していた。 「どうしたの、シオン?」 「父上……」 私は思わず声を漏らすと、シオンの視線の先をじっと見つめた。 薄らではあるが、誰かの人影が見える。 しかしそれがアドビス国王であるかどうかは解らなかった。 「シオン……やはり行ってしまうのか?」 その声は紛れも無くアドビス国王の物だった。微かに擦れていた物の、その力強い声は嘗てのそれと何ら変わりはしなかった。停滞した刻が流れ出した……きっとそういう事だと思う。 「……申し訳ありません。しかし私は……この国で………」 「何も言わずとも良い。お前をそこまで追い詰めてしまった罪……それはこの父にある」 「そのような事はありません!断じて!!」 「私は……一瞬でもお前の事を疑ってしまった。ウィザードであるお前を……疑ってしまった。その罪は決して許されざる物」 「…………」 「ウリック殿。息子の事を宜しく頼みます。そなたの前なら、シオンは全てをさらけ出す事が出来る。この国では……そうは出来なかった」 「私こそ……しかし、シオンは決して国王の事を怨んではいません。それどころとても大切に思っています。一緒に旅をしてきて……その事だけは確信を持って言えます。だから、そのようなお辛い顔をなさらないで。お願いです」 「ウリック……」 「シオン、お前は本当に良い仲間を持ったな。これからも、自分の選んだ道をしっかりとその足で踏みしめていくのだぞ」 「……はい」 「それから……ルハーツの事、悪く思わんでくれ。あやつも……この国の古い体質から抜け切れぬだけなのだ」 「解っています。いつか……いつかウィザードとクレリックが手を取り合う日が来たならその時は――」 「最後に、これを持っていけ」 そう言って国王がシオンに手渡したのは色褪せたウィザード用のローブだった。そして胸の所には、アドビスの国印が刻まれていた。 「父上……」 「お前が成人した日に渡そうと思っていた。お前は間違い無く私の子供だ。誰が何と言おうと、私の子供だ。こんな父を許してくれるのなら……これを受け取ってくれ」 シオンは手にしたローブを胸に押し当てると、一筋の涙を零した。 「ありがとう……ございます。私の生涯の宝として……宝として…大切にします……」 「さあ、行くがいい。守衛には伝えてある。ルハーツはお前を……いや、いい。日が明けぬうちに行くのだ。そしてお前達の刻を、お前達だけの刻を見つけるがいい」 「……はい」 そして二人で一礼をすると、闇に包まれた回廊へと足を踏み入れて行った。
アドビス城を後にした時、東の空からは薄らと太陽が顔を出していた。 私達は互いに手を取り、そしてこの足で懐かしの大地を踏みしめる。 これから始まる二人だけの刻に期待と、そしてほんの少しの不安を抱きつつ、二人は歩き出していた。 そして数刻の時が経った頃、日の光を浴びたアドビス城からはけたたましい鐘の音が聞こえてきた。 |
fin
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