ぼんやりと開いた瞳の先に広がるのは果てしない白のイメージ。瞬きをする度に純白に彩られた全ての輪郭が少しずつはっきりとしてゆき、それがカーテンの隙間から差し込んできた陽の光である事に気付いた。何かの夢を見たような気がするけれど良く憶えてはいない。ただ、胸の奥底には何とも言えない後味の悪さがあるだけだった。 肩を竦めて一度だけ身震いをする。体中に走るむず痒い感覚が気持ちいい。まだもう少しだけ眠っていたいけれど、そろそろイリアが起き出して来る頃だろう。そんな事を考えながらゆっくりと上体を起こすと、思い切り身体を伸ばした。 薄手のカーテンの先では真っ白な光に包まれた太陽が起きろと言わんばかりに輝いている。そして太陽の色に染まった森は宝石のようにキラキラと光っていた。寝ぼけ眼の俺にはそれが何だか解らなくて、気だるさの残った身体をゆっくりと動かしながらそっとカーテンを開いた。 目の前に広がっている白銀の世界に一瞬息を呑んでしまう。目に見える全てが真っ白な雪に覆われて、陽の光をその身に受けた一粒ひとつぶの結晶はダイアモンドを散りばめたように輝いていた。全ての音が雪に吸い込まれてしまったかのように、深いふかい静寂の中で雪だけがしんしんと降り積もっていく。そんな荘厳な景色を呆然と見つめながら、俺の頭の中には数日前の記憶が色鮮やかに蘇っていた。しんしんと降り積もる雪に覆われたルクレシアの街でそれは起こった…… |
逃げるようにしてアドビス城を去ってから一週間。俺達は追跡の兵士をまきながら何とか国境沿いの街ルクレシアまでやって来ていた。 アドビスの現状を考えれば俺達に割ける兵士の数など高が知れている。その上に俺は死んだ事になっているのだ。彼ら大々的に動ける筈がなかった。そう考えた俺達は周辺部の交通が整備されていない地域を選んで、何とかこのルクレシアまでやってきたのだ。この先の国境を越えてアドビス領から出れば何とか追っ手から逃れる事が出来るだろう。それは大きな賭けではあったが、この期に及んでそれ以上の策を考える事は出来なかった。
ひっそりと静まり返った裏路地に二人分の足音が木霊している。 ゆっくりと規則的な足音と少し急いだ不規則な足音。その音を聞いただけでイリアの様子が手に取るように解る。それを思い浮かべると酷く滑稽で、少しだけかわいそうで。だが敢えて彼女のスピードに合わせようとはしない。俺がわざとあわせているのだと知ったら、アイツの事だ、きっと一日中拗ねているに違いないだろう。だからいつもアイツの前を歩きながら少しだけ優越感に浸って、必死になってる姿を想像しながら心の中で微笑んでいたりする。そう、いつもなら……だけど今日はそんな気にはなれなかった。言い知れぬ倦怠感と共にただぼうっと足音を聞きながら歩いているだけ。 「ねえ、シオン……」 煉瓦の壁に覆われた裏路地に彼女の声が響き渡った。いつものはつらつとした声とは違う、遠慮がちなくぐもった声だ。ほぼ同時に冷たい何かが肌に触れて、体中に冷水をかけられたような感覚にハッと我に返った。いつの間に降り始めたのだろう。ふんわりとした淡雪が服の上に薄ら積もっている。軽く頭を振りながら雪を落とすと、いやに渇いた唇をそっと開いた。 「どうした?」 応えは返ってこなかった。音もなく降り積もる雪の中で二人の足音が響くだけだ。 彼女を言い淀ませている正体の見当はついている。それが正しいなら敢えて触れたくはない。出来るならばこのままやり過ごしてしまいたい。だけどそれが出来るほど器用でもなかった。 「どうしたんだ?」 もう一度だけ繰り返して後ろに振り返る。 彼女は眉間に皺を寄せながら俺を見つめていた。その表情に怒りなど微塵も感じられない。ただ「何故?」と聞きたくなるほどに悲しげなカオをした彼女がそこにいた。 「……何で黙ってるの?」 俯きがちに呟くその言葉が、視線が、俺の心の中を見透かしているようで居た堪れなかった。 咽がカラカラに渇いている。胸が酷くざわついて、アイツに聞こえてしまうのではないかと思うほど鼓動が高鳴っていた。ここで視線をそらしてしまうと全てを悟られてしまうようで怖かった。その不安を掻き消すように拳を握り締め、そして彼女の目をじっと見据える。 「俺は何も――」 それ以上言葉を続ける事が出来なかった。彼女の目がそれを許さなかったのだ。透き通ったその瞳を欺けるものなど無いと、誰よりも俺自身が良く知っている。 俺はやり場を無くした視線を地面に落とすと、そっと溜息をかみ殺した。それを合図とするように彼女の足音がゆっくりと近づいてくる。 一歩……二歩……三歩。 そこで足音は止まった。 彼女の吐き出した白い息が目の前で消えて、俺はその吐息に引き寄せられるようにそっと顔を上げる。 「シオンの悪い癖だよ。そうやっていつも自分の中に溜め込むの」 「……ああ」 「私はシオンの為にできる事なら何でもしてあげたいのに……黙ってたらどうしていいか解らないじゃない」 「…………」 「何も出来ないけど……シオンが独りで苦しんでるなんて嫌だよ……私……」 薄暗い裏路地に彼女の擦れた声だけが響き渡っていた。唇を噛み締めた彼女は頬を真っ赤に染めて、そのカオは今にも泣き出しそうだ。 「……認めるのが嫌だったんだ」 「…………」 「アドビス城から抜け出したあの夜……一晩中鐘の音が聞こえていた。あれは恐らく――」 背後から聞こえて来た足音に言葉を切る。このような場末の街には相応しくない訓練された者達の足音だ。彼女もそれに気付いたのだろうか。口をぽかんと開けたまま俺の向こう側を見つめている。 「イリ……ア……?」 彼女の名前を呼びながらゆっくりと後ろに振り返った。 煉瓦造りの壁、降りしきる淡雪、雪化粧された路地――まるで止まりかけた時計の針のように、それらの景色はゆっくりと流れていく。そして彼女に背を向けた瞬間、俺達の周りを数人の兵士が取り囲んでいた。 「お解りですね?」 兵士の一人が口を開いた。女にしては少し低い、キリッとした声が響き渡る。目深にかぶった兜にはアドビスの国章が刻まれ、その顔から表情の類を感じ取る事は出来ない。ただその瞳は酷く冷たく、侮蔑的であるように思えた。アドビスにいた頃毎日のように向けられていた視線。ウィザードに対するクレリックの嘲るような視線。俺は腹の底から湧きあがって来る怒りと苦痛を感じながら、低く押し殺した声で「ああ」と応えた。 「……だが大人しく捕まるつもりもない」 彼女の顔を睨みつけながら右手を斜め前に差し出す。徐々に熱を帯びだした掌が青白い光を纏い、更に殺気だった空気がチクチク肌に突き刺さってくる。ほぼ同時に、シュッという風を切るような鋭い音が耳に響いた。恐らく残りの兵士達が剣を抜いた音だろう。 「シオン!!!」 術が完成する間際だった。氷のように冷たい手が俺の腕を掴んで、鋭い叫び声が張り詰めた空気を切り裂いていた。酷く乱れた呼吸を抑えながらゆっくりと後ろに振り返る。そこには俺の腕を固く握り締めたイリアが、今にも泣き出しそうな顔をして小刻みに震えていた。そんな彼女の顔を見ながら顔中の筋肉が強張っていくのを感じていた。渇いた目頭が酷く熱くなって、それでも込み上げてくる涙が零れ落ちる事は決してなかった。 「大人しく従って頂ければ危害を加えるつもりはありません。勿論お連れの方にもです」 先ほどと同じ感情のこもっていない冷たい声。それが頭の中でぐるぐると回っていた。俺は何も出来ない無力な自分に言い知れぬ焦燥感を抱きながら、ただ目を閉じて「……ああ」と応える事しか出来なかった。
「まず初めに次のことをお見知り置きください」 街外れの宿の一室に入ると、女は唐突に口を開いた。他の兵士達は部屋の前と宿の外の見張りについている。従ってこの部屋には俺とイリア、そしてライザと名乗る兵士しかいない。 「私達は貴方を捕らえに来たわけではありません。本国へ送致するつもりもありませんのでその点をご理解下さい」 「……どういう事だ?」 「私達はミト王女の命で動いています」 「…………」 「これをどうぞ」 そう言って彼女が手渡してきたのは国境近辺の地図だった。国境沿いの至る所に赤の×印がついている。 「今回の作戦図です。印のついている個所に兵が配備されています。各関所の他にアルタ、ティアーニ、バルドス沿岸に作戦部隊が展開しています。アドビスを抜けるにはリトアスクへ迂回するルートが宜しいかと」 「……何故だ?」 「追尾に割ける兵は限られています。ですから優先順位に従って……」 「そうじゃない!何故俺達を助ける?ミトに何を言われようがルハーツ王妃の命が優先される筈だ!!」 「…………」 「そして王妃の命は俺を捕獲して本国へと送致する事、もしくは……」 「……その場で暗殺する事」 すぐ隣で息を飲む音が聞こえてきた。それに気付いたのだろう。ライザは一度だけイリアに視線を向けると、再び俺の顔を見つめて話を続けた。 「確かに私達はその命を受けました。しかしそれに従うつもりはありません」 「何故そんな事が解る?口ではその様な事を言いながら背を向けた瞬間殺されるかもしれない。例えこの場から無事立ち去る事が出来たとしてリトアスクに罠が仕掛けられていないとどうして言える?」 「その様な事をして何になるというのです?私たちに貴方を泳がせる利点など何一つない。わざわざ欺く事無くこの場で殺すなど容易きこと」 「だったら……」 「一つの可能性として。貴方も見たでしょう?ルハーツ王妃が実権を握ってからこの国は変わってしまった。今やオッツ・キイムの中心と謳われたアドビスの面影などどこにもない……国王が崩御なさった今この国は……」 「やはりあの鐘は……」 「あなた方がアドビス城から抜け出した直後……国王はお亡くなりになりました」 体中からフッと力が抜け落ちて、今にも泣き出してしまうかと思った。しかしこの場で泣き崩れるわけにはいかなかった。イリアの前だから、という理由もある。だけどライザの前で無様な姿を見せる事は俺の誇りが許さなかったのだ。彼女が俺を否定したアドビスそのもののように思えて、そんな彼女の前で弱みなど絶対に見せたくはなかった。 「フフ……フフフ…………ハハハハハッ!!!!」 「シオン……」 「腐ってもアドビスの王子という訳か……俺をうまく使えばこの国も何とかなるかもしれない、殺すよりも一つの可能性として残しておいた方が利口だと?」 「貴方を認めたわけではない。それでも、王位を継承できるのは血縁関係にある――」 「ふざけるな!!散々人の事を異端者扱いして排斥しようとしておきながら、いざ困ったら助けてくれだと!?お前達はいつもそうだ。いつも自分の保身しか考えていない。法力国家に生まれたウィザード。これは何か悪い事の起こる前兆だ。皆で追い出してしまえ。違うか?今度は身内が暴走しだしたらあのウィザードに助けてもらおう。恩の一つでも売ればきっと手を貸してくれる。この国も安泰だ。そうだろ?」 「…………」 「これは全ておまえ達の招いた事だ。滅びたければ勝手に滅びればいい。助かりたければ自分達で何とかするんだな。俺はアドビスが滅びようと何とも思いはしない。行くぞ、イリア」 そう言いながらイリアの腕を掴むと、強引に引っぱるようにして部屋から出て行った。部屋の外で待機していた兵士達は突然現れた俺達に困惑を隠せずにいる。どうやら俺達の行動は予想外だったらしい。通してよいものかどうか考えあぐねているようだ。その中の一人を思い切り睨みつけてやる。そしてイリアから手を離すと「通せ」と半ば唸りに近い声をあげた。 「しかし……」 「通してやりなさい」 背後から気だるそうな声が聞こえてくる。チラッと見返してみると、腕組みをしたライザが半ば呆れたような顔で俺達を見ていた。 「いいのですか?」 「王子様はそれをお望みよ。みすみす捕まったりするヘマはやらかさないでしょ?」 「は……はあ……」 恐らく、それはライザのささやかな抵抗であったに違いなかった。俺の言葉が正しい事など百も承知なのだ。ただ、彼女が認めたくないのはそれが俺の言葉だから。忌むべきウィザードの言葉だからだ。 「ご無事にと――王女様が仰っていましたわ」 その言葉に応える術をもたず、俺達はただひたすら歩き続けた。
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わずかな窓の隙間から入ってくる風にカーテンが揺れていた。 かなり長い間使われていたのだろう。色がすっかりと抜け落ちたそれは随分とくたびれて見える。きっとザードが生きている頃からこの部屋にあったに違いなかった。 「ザードか……」 ふとこの部屋の主の名前を呟いてみた。 彼の住んでいた家、彼の使っていた部屋、彼の寝ていたベッド、そこにいる自分が妙に思えて仕方がなかった。 ザードとイリアが共に生活していたこの家に今は俺と彼女がいる。ここは全ての始まりなのだ。ここでアイツはペン子本を読んでいて、魔物と仲良く暮らしていて、泣いたり笑ったりして。暗く閉ざされた城の中でいつも彼女の話を聞いていた。それで少しずつ興味を抱くようになって。胸の中にもやもやと変な気持が沸き起こってきて。考えてみると……あの時からずっとザードの後を追ってここまで来たような気がする。アイツにとってのザードみたいな存在になりたかった。それなのにまだザードの足元にも及ばない俺がここにいる。 ここにいれば確かに楽だけれど、いつまでも今の自分から変われないような気がする。そしてあの言葉もずっと、頭にこびり付いたまま離れはしない。アドビスが滅びようと何とも思いはしない――本当にそうだろうか?本当に俺はあの国を忘れられるのだろうか?自分は捨てられたのだと思いながらもどこかで縋りつきたくて、俺の中で何もかもが中途半端なまま途切れていて……自分の中で何一つケリがついてはいなかった。 「シオン、入るよ?」 コンコン、というノックの音に続いて勢い良くドアが開いた。 「おっはよ〜シオン!」 元気良く挨拶して、それから未だ寝間着姿の俺を意外に思ったらしく「今日はゆっくりだね?」と付け加えた。 「まあな」 適当に応えて視線を足元に落とす。さっきまでの自分が嘘みたいに頭の中が冴え渡っていた。コイツの顔を見た瞬間に今まで悩んでいた事は嘘みたいに吹き飛んでしまったらしい。我ながら単純だな、と心の中で笑いながら、ゆっくりと彼女の方に顔を上げた。 「イリア」 口元に微かな笑みを浮かべる。 彼女は依然不思議そうな顔をしたまま俺を見つめていた。 「一緒に……旅を続けないか?」 何だ、そんな事?と言わんばかりに笑みを浮かべる彼女。 「今度はどこへ行くの?」 「そうだな、水晶巡りの旅なんてどうだ?」 「何それ?」 「オッツ・キイム中の古代神殿を歩いて回って水晶の知識を得るんだ。この世界の真実とか解るかもしれないぜ?」 「また難しい事を言うだから……でもね」 「ん?」 ベッドの上に飛び乗ってくる彼女。そして俺の額に自分のそれをくっつけると、満面の笑みを浮かべながらこう囁いた。 「私はシオンと一緒ならどこにでもついていくよ」 きっと恥ずかしさのあまり馬鹿みたいに赤くなっていたと思う。それでも……この刻は俺が今まで生きてきた中で最高の瞬間だった。 |
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fin
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