a p o t o s i s # 5 r e s o l u t i o n < 後 編 >
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薄暗い廊下に二人分の足音が木霊している。
対照的な二人をよく現した二つの音。一つはかかとを叩きつけるような低い音で、もう一つは、つま先が床を弾いた高く澄んだ音。普段ならば不協和音を奏でるそれも、今日はゆっくりと同じリズムを刻んでいる。
部屋の支度が出来るまで城の中を歩いて回ろう、そう言い出したのは俺だった。しかし、ここに見て楽しい所などあるわけがなかった。ここにあるものと言えば、一様に変わり映えのしない廊下とドアの連なりくらいなのだから。よく知っていた筈なのに、どうしてそのような事を思いついたのだろう。一歩一歩足を進めるごとに「カイについて行けばよかった」という後悔の念が沸き起こってくる。ただ植物が生い茂っているだけとはいえ、ここに比べれば、中庭の方がいくらかマシだったに違いない。
「ねえ、何か聞こえなかった?」
俺の背中を突っつきながら、不意にイリアが口を開いた。
「んん? そっか?」
そう応えながら足を止める。お約束と言わんばかりにぶつかってくるイリアの身体。ドスンと鈍い音が響いて、蛙を握り潰したような間抜けな声が後に続いた。
「うぅ……痛い……」
「って、何で俺の背中にくっついて歩いてんだよ?」
「だ……だって……」
「もしかして怖いんじゃないだろうな?」
「そ……そんな事ないもんっ!」
「まあ古い城だからな。いつどこから幽霊が出てきてもおかしくねぇよな」
「や……やめようよ?」
「もしかしたらあそこの角から……」
そこに誰かの気配を感じて、咄嗟にイリアの口を押さえつける。
「シッ……やっぱり誰かいるみたいだ」
当然応えはない。その代わりに、掌で押さえつけた唇は、何かを訴えようとばかりにモゴモゴと動いている。今にも噛みついてきそうな程に。
「手離すけど騒ぐんじゃねぇぞ?」
一応念を押してからゆっくりと手を離した。
真っ赤な顔をして俺を睨み付けるイリア。どうやら、息が出来なかったというわけでもないようだ。唇だけを激しく動かしながら、せめてもの抵抗にか、俺の身体をポカポカと叩いている。俺が言った通り声を出していないのは感心だが……なになに、し・お・ん・の・ば・か、だと? 普段ならたしなめてやる所だが、その様子があまりに滑稽で、噴き出すのを堪えるのがやっとだった。
「シッ」
パクパクと動いている口に人差し指をあてる。彼女は未だ不満そうではあったけれど、取りあえず抵抗する気は失せたらしい。しかめっ面をしながら、今度は頬をぷぅっと膨らませている。おまけで頭をくしゃくしゃに撫でて、それからやっとの事で奥の部屋へと歩き出した。音を立てないように気をつけながら。
どうやら、ドアの向こうにいるのは男と女の二人らしかった。話の内容までは解らないが、言い争っているのか、その語気はかなり荒いものだった。
吸い寄せられるようにドアに耳をつける俺。
盗み聞きをするなんて最低だ。そんな事は解っている。だけれど、そうせずにはいられなかったのだ。妙な胸騒ぎとでも言おうか、一枚の扉を隔てた先にある「何か」が猛烈に気になっていた。イリアは服の裾を引っ張って制止していたけれど、それを受け入れるつもりなどありはしなかった。
「どうしても引くおつもりはないという事ですね?」
「そちらにもそのつもりは無いのでしょう?」
「ええ」
「では交渉決裂ですね」
「そうですね」
「私は忠告しましたよ」
「忠告? 面白い事を仰るのですね」
「そうは聞こえませんでしたかな? まあいいでしょう。どの道これ以上あなたとお話しする事はありません」
ドア越しに足音が近づいてくるのが解った。どこか隠れる所はあったか? そう思いながら、辺りを見回してみる。しかし、それらしい所はどこにもない。どうやら偶然を装うのが得策らしい。
そう決め込んだ直後にドアが開いた。そこに現れたのは初老の男だった。いかにも怒った風に肩を揺さぶっている。この顔……どこかで見た覚えがあるな。そうだ、俺はこの男を知っている。名前は何だったか? ルーファス……そう、ルーファスだ。いつも嫌みな笑みを浮かべながら俺を見つめていた。そうだ、俺はこの男の事をよく覚えている。
俺の顔をチラッと見つめた彼は、さも不機嫌そうに喉を鳴らしてみせた。それから何事もなかったかのように、俺達が来た方向へと立ち去っていく。その後を追うようにもう一人も姿を現した。
「お兄様……」
驚きを隠せない様子で立ち止まるミト。バツが悪そうに「すみません」と吐き捨てると、すぐに俺達の横をすり抜けていった。時間にしてみればほんの僅かな間だ。しかし、充血した瞳に浮かんだ涙を決して見過ごしはしなかった。
心が酷く掻き乱されていた。その瞬間、良心の奥底に眠っていた「俺」自身は、ある傷みを伴いながら目を覚ましたのだ。長い間忘れていたその傷みは、もしかして俺が俺である事の証だったのかもしれない。たとえどれだけそれを否定し、そこから逃れようとしても。
「……悪い、先に戻ってる」
応えを待たずに振り返っていた。奥歯をガリッと噛みしめて、それから勢いよく走り出した。
一刻も早く、ここから立ち去りたかった。彼女の目の届かない所へと行きたかった。この身を蝕む不安を悟られたくはなかったのだ。
「あっ、シオン!!」
驚きと戸惑いの混じり合った乾いた声が響き渡る。しかし、それに応える余裕などどこにもありはしない。俺はその視線から逃れようと、ただひたすら走り続けていた。
乱暴にドアを開けて、部屋の中へと滑り込んでいく。ぜいぜい言いながらドアにもたれかかっていた。それから思い出したように後ろに手を回して、手探りでノブを握りしめる。
酷く混乱していた。いや、混乱と言うよりむしろ混沌と言った方が正しいのかもしれない。頭の中を飛び交っていたのは、必死になって忘れようとしてきた夥しいアドビスの記憶。それは一気に頭の中へと降り積もっていって、俺自身をも飲み込んでしまうのではないかとさえ思えた。
怖かったんだ。自分を手放してしまうその瞬間が。魔力を暴走させてしまったあの時のように、そんな姿をイリアに見せたくはなかった。
「あ……うぐ…………」
酷い圧迫感が体中に襲いかかってくる。
喉が締め付けられるような感覚に、呼吸すらまともに出来なくなってしまう。
視界がどんどん狭まっていく中、反射的に仰け反った背中が勢いよくドアにぶつかった。肺に溜まっていた大量の空気が、喉元まで一気に込み上げてくる。それを何とか吐き出そうとするのだけれど、何故かうまく出来なくて。焦れば焦るほどどうしていいか解らなくなって。目の前の景色がぐらりと揺れたかと思うと、俺の身体は為す術もなく床に倒れ込んでいた。
床に爪を立てながら何とか息を落ち着けようとする。しかし、息を吐き出そうとすればするほど、大量の空気は容赦なく喉の奥へと飛び込んでくる。瞳の奥には白い光の粒がちらついて、いくらまばたきをしても消えようとはしない。
震えが止まらなかった。どうしていいか解らなかった。何も考えられなかった。酷い混乱の中で、恐怖を感じる余裕すら無かったはずだ。それなのに、突然飛び込んできたその声は、一瞬のうちに俺を我に返らせていた。
「シオン! ねえ、どうしたの!? シオン!!」
大丈夫だ、その一言を口に出来たならどれだけ良かっただろう。しかし、俺に出来た事といえば、せいぜい床の上でのたうち回るくらいで。
「ごめん、入るからね!!」
次に聞こえてきたのは勢いよくドアを開ける音。それを呆然と聞きながら、ただ「しまった」という言葉だけが頭の中でぐるぐると回っていた。
「な……シオン!!! シオンッ!!!!!」
視界の中に、いびつに歪んだイリアの顔が現れては消えていく。その度に首の辺りがこすれて鋭く痛んだ。
「私誰か呼んでくるから! すぐに戻ってくるからね!!」
背を向けた彼女の服を反射的に掴んでいた。びっくりしたような顔を向ける彼女。その姿を辛うじて視界におさめながら、ブルブルと首を横に振っていた。その瞬間、ここにいた頃に何度もそうしてきた筈の「ある事」が頭を過ぎったのだ。
「大丈夫って……そんなわけないでしょ!?」
握りしめた彼女の服を離さぬまま、もう片方の手で背中のマントをギュッと掴んだ。それを喉の奥まで押し込んでいく。さっきよりも息が苦しくなって、何かに縋り付きたくて、俺はただひたすら彼女の腕をギュッと握りしめていた。
イリアは腕と俺を交互に見返してから、意を決したように俺の手を握りしめてくれた。
「ここにいた頃にはよくなっていたんだ。ストレスが溜まってたり、精神的に追いつめられてた時にな」
「どうして言ってくれなかったの?」
「アドビスを出た後になった事はなかったし、敢えて言う必要は無いと思ったんだ」
「違うよ。辛いの、何で言ってくれなかったの?」
「わざと言わなかったんじゃない。自分の中で色々な事が一気に沸き起こって……俺自身混乱してたんだと思う。自分でも気付かないうちにさ。大丈夫だと思ってたのに」
「……ごめん」
「どうして謝る?」
「追いつめるつもりじゃなかったの。ただ……」
「解ってるよ。俺を誰だと思ってる?」
「ふふっ、そうだね」
「ああ、でもありがとう」
「うん。私には大したこと出来ないかもしれないけど、いつも側にいるからね。辛い時もそうでない時も。だから甘えてくれていいんだからね?」
「頼りにしてる」
「まかしといて!」
「なあ」
「なに?」
「今夜……ずっと側にいてくれるか?」
「もちろん! シオンが嫌って言ってもそうするつもりだったから」
「ははっ、お前らしいな」
仄暗い部屋の中で、互いの吐息を間近に感じていた。不自然なまでに規則正しい息遣いを聞きながら、こいつもまだ眠れないのか、と心の中で呟いてみる。
グラスの水に落ちた月明かりが天井に反射していた。
蒼白い光の波が揺らいで、それは宵闇に浮かぶ海のようにすら思えた。イリアもこれを見ているだろうか? ふとそのように思ったけれど、彼女の顔をこんなにも間近に見るのは、何となく気恥ずかしくて。その代わりに、伸ばした手をゆっくりと横に動かしていく。彼女の小さな掌をそっと握りしめた。
「綺麗だね」
透き通った声がすぅっと闇に溶け込んでいく。
こんな時でさえ気の利いた科白一つ言えない自分が怨めしかった。カイならどんな風に言っただろう? いくつか思いついたものはあったけれど、とても俺に言えそうなものなどなくて、喉の奥に引っかかった歯の浮くような科白をごくりと飲み込んだ。
「ああ、そうだな」
結局、これが俺の言葉なのだと思う。こいつの前では気取る事なんてない、ただありのままの自分でいればいいのだと。それは決していつまでも変わらなくていいわけではないけれど。
「なあ」
「ん?」
「お前が側にいてくれて良かった」
「私も、シオンが側にいてくれて良かった」
そう言って、彼女は重ねた手をギュッと握り返してくれた。
久しぶりにゆっくり眠る事が出来た、というのはかなり誤魔化した言い方になるだろう。実際の所は「寝過ごしてしまった」と言うのが正しい。開け放たれた窓からはさんさんと陽の光が差し込んできて、太陽は随分と高くまで昇っているようだった。あまりの目映さに腕で目を覆い隠した瞬間、誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。
「ああ」と応えながらゆっくり起きあがる。床に脱ぎ散らかしたローブを羽織って、のそのそとドアの方へと歩いていった。
「おはよう御座います。あ……まだお休み中でしたか?」
目の前に立っているのは、この城の兵士とおぼしき男だった。俺の顔と服を交互に見つめてから、申し訳なさそうにそう付け加えた。
「いや、いいんだ。それで、一体どうしたんだ?」
「女王から伝言を承って参りました」
「ああ」
「はっきりとした時間は申し上げられませんが、昼過ぎの所でお会いになられるそうです。多忙故にご理解頂きたいと」
「それは構わない」
「それから、本日城下にて祭りが催されております。お時間までそちらに行かれても宜しいかと。カイ様には既にお伝えしましたが、イリア様のお姿が見えないようでして……」
「あ……ああ、アイツには俺から伝えておくよ」
「そうですか。それでは宜しくお願いします」
「わざわざすまないな」
「いえ、それでは失礼致します」
ドアを閉めてから、今更ながら心臓が高鳴っている自分に気がついた。全く、変な事をしていたわけでもないのに、俺って奴は……そんな事を考えながらイリアの方へと顔を向ける。
幸せそうな顔をしたアイツは、未だ布団にくるまったまま、唇から可愛い吐息を漏らしていた。やれやれ、今日はどうやって起こしてやるかな。
「イリア、起きろよ。もう朝だぞ?」
当然身体を揺さぶったくらいで起きる筈がない。こいつの寝坊は筋金入りなのだ。仕方なしにふっくらとした頬をつまむと、左右にびよーんと引っ張ってみた。
「おーー伸びるのびる」
言ってる自分が馬鹿に思えるが、これがやってみてなかなか面白い。そんなこんなをしばらく続けていると、不意に彼女の目がパチッと開いた。虚ろな瞳で俺を見つめながら、小さな唇からは間の抜けた声が聞こえてくる。そして二三度目をパチクリさせて、妙に低い声で「いーーたーーいーー」と唸ってみせた。
「ようやく起きたか?」
「起きたか? じゃないよ〜女の子のほっぺつねったりしていけないんだ〜」
「誰かさんがきちんと起きないからだろ?」
「うぅ……今何時くらい?」
「さあな、でも結構遅くまで寝てたみたいだぜ」
「何だよ〜シオンだって寝てたんじゃんか」
「でもお前より早く起きただろ?」
「さっきの人に起こされたくせに」
「何だよ、お前起きてたのか?」
「ううん、一度起きたけどまた寝ちゃったの」
「全く……お前って奴は」
「それで、何だって?」
「ああ、昼過ぎにミトと会えるそうだ。あと、城下町で祭りをしてるらしいぞ」
「わーーお祭り? 行きたいな。ね、行こうよいこうよ!!」
「そうだな。じゃあさっさと準備してこいよ」
「うん、解った!」
そうして鉄砲玉のように部屋から飛び出していく彼女。やはり、こういう時の行動力は並大抵ではないようだ。
城下はかなりの人でごった返していた。昨日見た様子からは想像できない程だ。
マーチングバンドの陽気な音楽にあわせたパレード、数え切れないほどの出店、街中に響き渡る歓声ーー行き交う誰もが楽しそうな顔をしていて、この国にもまだこんな活気が残っていたのかと、心の中でほっと息をついている自分がいた。
「うわーー凄い人だね!」
「迷子になるなよ?」
「ふふ〜ん。シオンがちゃんと付いてきてくれたら迷子になんてならないよーだ」
「ああ、そう言えばそうか」
「へへ、納得した?」
「ん……まあ取りあえず納得しといてやるよ」
それから二時間くらい経っただろうか。
俺達は出店で買い物したり、ゲームをしたり、本当にこれでもかっていうくらい遊びまくった。子供みたいにはしゃいで、こんなに楽しかったのは久しぶりだったと思う。イリアも本当に楽しそうで、そんな彼女の顔を見る度に嬉しくて仕方がなかった。
しかしさすがの彼女も疲れたのか、満足だ、という風な顔をしながら、今は道ばたに置かれた椅子にぐったりと座りこんでいる。一方の俺は、壁に背をつけて休みながら、行き交う人々の波をじっと見つめていた。人種から何から本当に様々であったけれど、その顔には一様に楽しげな笑みが浮かんでいた。そんな幸せそうな光景が移り変わっていく中、ある少年が視界に入った瞬間、俺の目はぴたっと動きを止めた。茶色いフードをかぶった彼は微動だにせず、一人立ち竦んだまま、彼の周りだけが異様な空気に包まれていた。
俯いているせいで顔を見る事は出来ない。しかし俺は彼が「彼」である事を知っている。理由など無い。ただそう確信しているのだ。そして彼がゆっくりと顔を上げた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような激しい衝撃が体中を走った。
そこにいたのは紛れもなく幼い頃の俺自身だった。
「どうして」と呟きながら、躊躇いがちに右手を差し出す。
彼は幾度か唇を動かして、その幼い顔に、冷たい微笑みをフッと浮かべた。
「王子」
いきなり飛び込んできた声にハッと我に返った。
「それにイリアちゃんも。ここにいたんですね」
一瞬の躊躇の後、ぎこちない動きで声のした方へと振り返っていく。不思議そうな顔をしたカイは、俺を見つめたまま、微かに首をかしげていた。
「ああ、どうしたんだ?」
「すぐに見つかって良かった。女王がお会いになるそうです」
「そう……か」
それからゆっくりと視線を戻していった。しかし、そこに彼の姿を見つける事は出来なかった。
「単刀直入で申し訳ないのですが、早速本題に入らせて頂きます」
俺達の顔を見るや否や、早速話を切り出してくるミト。その顔には色濃い疲労が浮かび上がっている。心なしか、声にも張りがないように聞こえた。
「まずは情報の整理と共有をしておいた方が宜しいでしょう。昨日簡単にはうかがいましたが」
「ああ、そうだな。それじゃあ俺からもう少し詳しく話しておこう」
「お願いします」
「リルハルトの街がドラゴンに襲撃されたのは知っているな?」
「ええ」
「あの街が偶然選ばれたわけじゃない。ドラゴンはある意志をもってリルハルトを襲った。正確に言えばその意志はイールズ・オーヴァのそれという事になるのかもしれない。そしてその目的はジェンドをあぶり出して手中におさめようという事。それが今から9日前の事だ。しかし俺がドラゴンを倒した事によって、取りあえず奴の企みは頓挫した事となる。そしてカイからアドビスで起こった例の事件について聞いて、それと何らかの関わりがあるのではないかと思った。ダークエルフとアドビス……この二つはある一本の線上にあると考えたわけだ。それでこの国を訪れる事にした。しかし旅の途中でイールズ・オーヴァが現れて…… 彼女はさらわれてしまった。それが今までの経緯だ。お前の方はどうだ? ここ最近アドビスで何か変わった事はなかったか?」
「そうですね……直接の繋がりがあるかは解りませんが、魔導研究所の方からいくつか報告は受けています」
「というと?」
「詳しい話は後ほど研究所の方で聞いて頂くとして、私の方からは簡潔にお話ししたいと思います。アドビスに限定された事ではないのですが、オッツ・キイム全域で凶暴化した魔物が町や村に対する攻撃を激化させているとの事です。しかも魔物の存在が殆ど確認されていない地域でも」
「魔物の凶暴化か。確かに何かありそうだな」
「それから、ここ数日の間に著名な魔導士達が次々と失踪しています。いずれの場合も状況証拠から自宅にいる時に誘拐された線が濃厚ですが、特に争った形跡も残っておらず、目撃者もいません。彼らほどの力を持った者が抗うことなくやられてしまうというのは不自然極まりないというのがこちらの見解です」
「かと言って自らの意志でそうしたと考えるのはもっと不自然だと」
「ええ。取りあえず私から提供できる情報はこの位ですね。ジェンドさんの件はアドビス、ひいてはオッツ・キイム全体に関わる大きな問題であると認識しています。ですので、私としても出来うる限りの協力は惜しまないつもりです。アドビスの元首として、そして一個人としても」
その時だった。外から言い争うような声が聞こえて、直後に勢いよくドアが開け放たれる。続いて、何人もの兵士を引き連れた男が部屋の中へと押し入ってきた。ミトは男をじっと睨みながら、その顔には明らかな不快の念が浮かび上がっている。
「どういうつもりですか、ルーファス? 私は今大切なお客様とお話しているのです。即刻立ち去りなさい!」
「私がどういうつもりかなどご存じでしょう? 忠告した筈です。それをお聴きにならなかった貴女が悪い」
「その話ならば後ほどうかがいましょう。ですから今はーー」
「まだ状況を理解されてないようですな。全ては動きだした……今更足掻いたところで手遅れなのです。我々は沈みゆくアドビスで貴女と共に心中するつもりはない。我々星室庁に全権を委譲してもらいましょうか。女王、貴女は無力だ。貴女には何も出来やしない」
鋭い抜剣の音が響き渡り、ルーファスの兵士達は、既に俺達を取り囲むように展開していた。広い謁見の間の奥にはミトが、彼女の横には二人の、そして俺達の前後脇にはそれぞれ左右二人ずつの護衛がいる。入り口にいる二人の兵士は既に取り囲まれて、こちらが圧倒的不利な状況にあるのは明らかだった。
「馬鹿な事はやめなさい! 今ならば何もなかった事として済ませてあげましょう。しかし、これ以上たてつくというならば、こちらとしても看過するわけにはいきません」
「……だから貴女は甘いと言っているのですよ」
ルーファスの剣は緩やかな弧を描き、風を切る鋭い音と共に、肉と骨を断ちきる鈍い音が響き渡った。鮮やかな血飛沫が舞い上がって、彼の傍にいた護衛がその場に崩れ落ちる。
「ルーファス!!」
ミトの悲痛な叫び声が響いた頃には全てが終わっていた。立ち上がった彼女はわなわなと震えながら、血にまみれた兵士を凝視していた。その顔からは血の気が失せ、紫色に染まった唇をただパクパクさせているだけだった。
「あなたという人は……自分で何をしたか解っているのですか!?」
「ふん、大げさに騒ぎ立てるのは止しなさい。一人の犠牲で全てが変えられるならば、その対価としては安かろうに。後は貴女の出方次第ですよ、女王様?」
「……言いたい事はそれだけか?」
「何?」
「言いたい事はそれだけかと訊いたんだ、ルーファス」
ゆっくりと顔を上げながら、奴の顔を思い切り睨み付けてやる。ようやく俺の存在に気付いたのか、奴は口元を微かに歪め、フッと嘲るように笑ってみせた。
「おやおや、誰かと思えば我らが王子様ではありませんか。お亡くなりになった筈の貴方がこの国で何を?」
「お前は昔からそうだったな。愛想笑いを振りまきながら腹に一物あったってわけだ」
「何を今更……男たるもの野心の一つや二つ抱いて当然で御座いましょう?」
「慢心は身を滅ぼすと言うぞ。一体お前に何が出来る? 何を変えられると言うんだ?」
「この国の全てを。それを邪魔だてする者は例え王とて許しはしませぬ」
「一つ忠告してやろう。妹に指一本でも触れてみろ、ただでは済まさんぞ!」
「どうすると言うのです? 貴方こそ周りをよくご覧になった方がーー」
その瞬間、指先に集中させていた気を一気に解き放った。一条の矢と化した光の刃は、甲高い音をたてながら空を切り、奴の頬を鋭く抉っていった。少し遅れて、一筋の血が頬を零れ落ちてゆく。
「っ……!?」
「次は外さんぞ。お前達がどれだけ数で勝ろうとも、ウィザードを一突きする術をも知りはしまい?」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるルーファス。一度だけ震えた手で握りしめた剣を俺達に向けたが、舌打ちをすると、それをすぐさま収めてしまった。
奴らが一気に攻めてきたなら、きっと術を唱える間もなくやられていただろう。しかし今回ばかりは、ウィザードに対する偏見に救われたようだ。
「一旦引くぞ!」
その言葉を合図に退却を始める兵士達。その様子と俺達を交互に見つめてから、奴は再び舌打ちをして、謁見の間から立ち去っていった。
ミトの護衛は依然として陣形を崩すこともなく、ただ事態の行く末を見守っているようだった。後を追った所で、勝機がないのは明らかだったのだ。
しかし、安心したのも束の間だった。俺達の側にいた護衛兵が剣を抜いて、奴は奇声をあげながら、ミトめがけて勢いよく走り出したのだ。
「ミト!!!」
「女王!!!」
俺とカイの叫び声と共に、剣と剣がぶつかりあう鋭い音が鳴り響く。ミトの側にいた護衛兵の振り上げた刃は叛乱者のそれを弾き飛ばし、返す刀で奴の首筋を切りつけていた。
獣の咆吼のような断末魔の叫び声が響きわたる。男は為す術もなく崩れ落ちて、その鈍い音の後に、異様な静けさが訪れた。
ミトは力なく椅子にへたりこんで、紫色に染まった唇を震わせながら、カチカチと歯を鳴らしていた。目玉をギョロギョロさせながら、その視点は決して定まろうとはしない。
「大丈夫か、ミト!?」
その問いかけに声もなくガクガクと頷くミト。
しかし静寂が長く続く事はなかった。追い打ちをかけるように、城のどこからか爆音が鳴り響いて、それに無数の悲鳴が後に続いた。
「な……何が起こったというのです!? あ……あの音は…………一体何が……」
痛々しいほどに震えた声を漏らすミトを尻目に、カイの顔をじっと見つめる。彼も同じ事を考えていたらしい。互いに頷きあうと、ミトを助けた兵士の方へと視線を向けた。
「俺達が様子を見てくる。後の事は頼んでいいか?」
「ええ、お任せ下さい」
「私も行くからね!!」
割って入ってきたイリアは、懇願するような目で俺を見つめていた。しかしそれを受け入れる訳にはいかない。どんな危険が待っているかも解らないのだ。そんな所に、どうしてコイツを連れて行けようか。だが、そんな事を言った所で素直に頷くような奴でもないだろう。
「ダメだ。お前はここに残れ」
「何でだよ!!」
「妹の事を頼む。お前を信用しているから言ってるんだ」
ギリッと歯を噛みしめながら顔を伏せるイリア。その言葉には抗えないと悟ったのだろう。それを見越して、俺がそう言ったのだという事も。
彼女の肩をトントンと叩いてからカイの方へと顔を向けた。そして再び頷きあうと、俺達は爆音の聞こえてきた方へと走っていった。
逃げ惑う人々の間をかいくぐりながら、その先に飛び込んできた光景に言葉を失ってしまう。
石煉瓦の側壁は叩き割ったように崩れ去って、そこに立っていたのは、薄ら笑いを浮かべたルーファスと、彼の背の三倍はあろう巨大な魔物だった。熊のような身体、それに見合わない長く太い腕、鋭い爪と牙ーーそれはアドビスにいる筈のない魔物であり、まして、その凶暴性をもって人間の言う事をきくなど、信じられようはずがなかった。
「お前達が悪いのだぞ。私はこれを使うつもりなどなかったのだ。しかし……まあいい、ヴァルダン、やってしまえ!!」
ルーファスの叫び声に応じて咆吼をあげる魔物<ヴァルダン>。しかし、それは決して服従の意をあらわしたものではなかった。長い腕を勢いよく振り下ろしてルーファスをなぎ払ったかと思うと、続いて奴の首と足を乱暴に掴んで、頭の高さにまで持ち上げてしまう。
「な……何をする!? 止せっ!! 私の言う事がきけないのか!?」
再び耳をつんざくような咆吼が響き渡る。それが答えだと言わんばかりに、ヴァルダンはいとも容易くルーファスの身体を折り曲げてしまった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
断末魔の叫び声にグシャッという嫌な音が重なる。もはや人間の面影も無い程変形した奴の身体は、無惨にも、硬い床に叩きつけられていた。
ピクリとも動かない獲物を一瞥したヴァルダンは、今度は周りの人間へと興味を移したようだった。腕をブラブラさせながら、逃げ惑う人々の後を追って、ドスンドスンと大股で歩いていく。
「どうしますか!?」
「お前の剣じゃリーチが短すぎるよな……よしんば懐に入り込む事が出来たとして、あの腕にやられるのがいいトコか」
「良くて差し違えでしょうね。それよりも王子の魔法で一気に片付けた方がーー」
「ここで使ったら他の者まで巻き込んでしまう」
「あ……」
「そうだ、中庭だ! あそこなら大技が使える。誘き寄せられるか?」
「ええ、何とかやってみます」
「よし、それじゃあ俺は先に中庭に行って魔法を展開させておく。後は頼んだぞ?」
「解りました!」
中庭までやって来た俺は、ヘキサグラムを描くよう、その頂点に次々と印を結んでいった。出来うる限り素早く、小さな声で呪文を唱えながら、空を切るようにして古代文字を刻んでいく。
その間にも、どこからかヴァルダンの足音が聞こえてきていた。ドスンドスンと、少しずつ大きくなっていく地響きは、奴が近づいている何よりの証だった。
「くそっ……」
どうしようもなく焦ってしまって、感覚を失った指先がブルブルと震えだしていた。そんな益体もない手で空に印を切る俺。また一つ結界が完成して、そこから、赤く染まった光が天に向かって伸びていく。それはあっという間に空を覆い尽くして、差し込んでくる陽の光すら紅に染まっていた。
そして魔法陣が完成したのを見計らったように、両手を振りかぶったヴァルダンの姿が視界の中へと飛び込んでくる。
「カイ、後は俺に任せて魔法陣の外に出てろ!!」
魔法陣の中心に立った俺は、両手を前に突き出すと、素早く術の詠唱に入っていった。
皮膚の上をピリピリとした感覚が駆け抜けていく。髪の毛やマントがブワッと浮かんで、俺を中心とした一つの磁場が出来上がっていく。
それに気づいたのだろうか。鼓膜が破れるような雄叫びを上げると、奴はこちらに向かって、物凄いスピードで走り出していた。徐々に迫ってくる奴の姿が、まるでスローモーションをかけたようにゆっくりと見えていた。その姿を呆然と見つめながら、俺はいつまでも終わらない詠唱を必死になって続けていた。
地面が揺れるごとに脂汗が垂れて、何とも言えない焦りと恐怖がこの身を蝕んでいく。逃れる事など出来よう筈がないのに、どうにかして逃げ出したいと思っている。極限状態の中で、混沌とした思考が俺を支配していた。
「王子! 危ない!」
カイの叫び声に顔を上げると、目の前には大きく腕を振りかぶったヴァルダンが、その巨大な目で俺を見下ろしていた。体中がガクガクと震えて、それが唇にまで及ぶのは時間の問題であった。
歪な言葉達が次々魔法陣の中へと飲み込まれていく。命を吹き込まれたそれは淡く輝き、奴が腕を振り下ろそうとした瞬間、俺は最後の一言をあらん限りの大声で叫んでいた。
術の発動と同時に、中心から周縁に向かって赤く染まる魔法陣。鮮やかな紅の光は一瞬のうちに頂点へと達し、そこに聳え立っていた光の塔は、硝子が割れるような音を立てながら、一気に砕け散ってしまう。
残像を描きながら、光の欠片は魔法陣の中心へと呑み込まれていく。その直後に張り裂けんばかりの轟音が鳴り響いて、足元から湧き上がってきた赤黒い雷は、天に向かって勢いよく放たれていた。
「うわっ!?」
「グギャァァァァァァァ!!!!!!!」
体中を駆け抜けていく衝撃に思わず目を閉じてしまう。大地震でも起こったかのようにぐらりと揺れる地面。バランスを崩した俺の身体は、為す術もなく地面に叩きつけられてしまう。辛うじて残っていた意識を捕らえるように、手元の草を、ギュッと握りしめていた。指が切れようとも、そんな事を厭いもせずに。
どれくらいの時が経っただろう。それは目瞬きをするくらいに短かったかも知れないし、とてつもなく長い間だったのかも知れない。仄かに甘い混乱に包まれていた俺にとって、唯一の現実はこの静けさの中にあった。全てが終わったであろうその先に訪れる静寂。次に感じたのは、生暖かい液体の上に浮かんでいるような感覚。俺はどうしてしまったんだろう? ぼんやりとした意識の中で、そのような事を考えていた。感覚の曖昧な右手を何度か閉じたり開いたりしてみる。どうやら動かす事は出来るらしい。それだけ確認してから、ゆっくりと手を上げてみた。いや、感覚的には上げると言うより持ち運ぶと言った方が正しいかも知れない。
「血か……」
真っ赤に染まった掌を見て、思わず笑いが込み上げてくる。何がおかしいのか自分でも解らない。ただ笑わずにはいられなかったのだ。体中がカタカタと震えて、おかしいのか怖いのかすら解らないでいた。
「王子! 大丈夫ですか!?」
聞き覚えのある声に少しだけホッとしていた。しかし腰が抜けたか、いくら試してみても起きあがる事が出来ない。仕方なしに、じわじわと痛む身体を、少しずつ横に傾けてみた。そこで見たのは、赤黒い血を吐き続けるヴァルダンの死骸。それは、自分がまだ生きているのだと確信した瞬間だった。
「王子! 王子! 大丈夫ですか!!」
カイの姿が視界に飛び込んでくる。俺は強ばった笑みを浮かべながら、ただ一度だけ、ゆっくりと頷いてみせた。
「何とか……な」
同じように強ばっていたカイの顔がゆっくりと緩んでいった。微笑んでいるとまではいかないものの、ホッと安堵したような表情が、その顔には浮かんでいた。
身体の隅々にまで水が染み渡っていくように、喪われた感覚は少しずつあるべき場所へと還っていく。先ほどとは打って変わってどっしりとした身体の重み。たれ込めていたもやが引いて、輪郭を取り戻しつつある思考。そんな中で、唯一頭の中にあったのはアイツの事だけだった。唯一俺を理解し、そして支えてくれるイリアの事だけ。また心配かけたな、瞳の奥底に浮かび上がった彼女に向かってそう呟いた。
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