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ユリアの部屋を後にした俺は、すぐさまシェーナの部屋までやって来ていた。 窓からは太陽の光がさんさんと差し込んできて、部屋の中に明かりが灯っているかどうかは判然としない。耳を澄ましてみるものの、音らしい音も聞こえては来なかった。俺が見たものが間違いないなら、今頃はニールとお戯れの最中だろうから。いや、そんな事を考えるのは止そう。俺には関係のないことだし、第一、いかにも意地が悪いじゃないか。 「どうせいないだろうな」と思いつつ、二度ほどドアをノックしてみた。中からがさごそ音がして、「誰?」というぶっきらぼうな答えが、唐突に返ってくる。 「俺だ。シオンだ」 「ああ……貴方。鍵は開いてるから、勝手に入ってきて頂戴」 言葉まで随分ぶっきらぼうだなと思ったが、取り敢えずは気にせずに中へと入っていく事にした。 シェーナは椅子に座ったまま、机の上の書類を整えながら、気だるげな視線を投げつけてくる。心なしか、口紅の朱が随分と薄らいで見えた。肌には張りがないし、眉間には深い皺が刻まれている。まるでそれが当たり前であるかのように。 「どうしたの?」 そう言って、いかにも不機嫌そうに唇をへの字に歪めてみせた。凝視されているのが気にくわないのか、それとも話を切り出さないのがじれったいのか。女心は複雑だと言うが、よもや彼女に思い知らされようとは、思ってもみなかった。ともかく、これ以上沈黙を守るのは得策ではないだろう。 「そっちこそどうしたんだ? 酷い顔してるぞ」 ハッと息を吐き出して、口元に微笑を浮かべるシェーナ。しかし、その目は決して笑ってはいない。 「何ですって?」 「いや、だから、随分くたびれた顔をしてるな、と思っただけだ」 その切り返しがまずかったと気づいたのは、彼女がもう一度だけハッと息を吐き出した瞬間だった。まったく、どうして彼女のご機嫌を伺わなければならないのか理解に苦しむ所だが、目の前の女性はその事で随分とご立腹らしい。その顔はみるみるうちに鬼のような形相へと変わっていく。 「一つだけ教えておいてあげるわ。女の子にそんなことを言うもんじゃないわよ」 「女の子?」 「私が女の子かどうか議論するつもりはないし、そんなことをしている時間はないのよ。私は忙しいの。そんなことを言いに来たのなら、さっさと帰って頂戴」 「そんな訳ないだろうが」 「だったら何なの」 一人で怒っているシェーナをじっと睨み付ける。少し間をおいて落ち着かせようというつもりだったが、それすらも苛立ちの対象にしかならなかったらしい。眉間に皺を寄せたまま、「ねえ」と先を促そうとしている。 「襲われたんだ」 「イリアちゃんに? あのねぇ、そんな事今話してる暇なんて……」 「まじめな話だ」 彼女の顔から徐々に険しさが消えていく。一度だけ机の上に視線を落として、再び俺の顔を見上げてみせた。今度は真剣な顔つきをしていた。 「……襲われた?」 「ああ」 「いつ?」 「昨日の晩だ」 「犯人に心当たりは?」 「ない」 「特徴は?」 「声は変えていたが、あれは間違いなく男だな。背は俺よりも一つぬきんでた程度だ。顔は見ていない。途中で乱闘になって、太ももの所に手傷を負わせてやった」 「貴方は無事だった?」 「ああ、何とかな」 「それで、何か言っていたの?」 「犯人か?」 「ええ、もちろん」 「例の件から手を引け、と」 それが何を意味するかくらい、彼女に解らぬはずがなかった。それを裏付けるように一度だけ、大きなため息を吐き捨てる。下唇を噛みながら俺の顔をじっと見ていた。 「そうすべきだわ。今手を引いたなら、貴方にこれ以上の危害は及ばないでしょう。私がそう判断した理由、貴方になら解るわよね」 「ああ」 「だったら」 「俺は引かない」 「シオン……」 「説得しようとしても無駄だ」 「今なら引き返せる。でも、ここから先に進むつもりなら、彼女にだって」 「解ってる。あいつは俺が守ってみせる。絶対に」 「……ねえ、一つだけ訊いていい?」 「俺に答えられることならば」 「あなたの事は知っているわ。この国は貴方にとって好意的な対象とはなり得る筈がないと言うことも。私には、貴方がそこまで固執する理由が理解できない。ねえ、どうして? どうしてそこまで?」 それはまさに核心をついた質問だった。俺は内心でハッとしていたが、それを表に出すわけにはいかなかった。だから、彼女を睨み付ける目を決して逸らしはしなかった。決して動揺を悟られないように。出来うる限り平然を装っていた。 「俺はもう逃げたくないんだ。もう二度と、逃げたくはない」 不意に彼女の視線が落ちる。彼女は俺の腹の辺りをぼうっと見つめながら、その瞳に虚ろな光を宿していた。 「貴方も……囚われているのね」 「え?」 「既に事態は私達の手から離れてしまったのかも知れない。くれぐれも気をつける事ね。私達はあまりに無力だわ」 「何を知っている」 「警告はしたわよ。ここから先は貴方の自己責任。解ってるんでしょ?」 シェーナは何か知っている。一連の事件の核心に迫る何かを。彼女の忠告は一体何を意味しているのだろうか? それは味方としてのものか? それとも敵としてのものなのか? 彼女とニールの繋がりは何を意味している? 疑心暗鬼に陥っていた俺は、そのような事を延々と考えながら、いつの間にか部屋に戻ってきていた。部屋の中にはイリアが、ずっと俺の帰りを待ち侘びていたらしい。ドアを開けた時には笑顔だったその顔も、今は不思議そうな面持ちへと変わってしまっている。きっと、そうさせてしまうような顔をしていたに違いなかった。 「どうかした?」 恐る恐るといった風にイリアが口を開く。俺はベッドの上にドスンと座ると、「いや」と何もなかった風に答えを返した。 その答えに納得しなかったのだろう。俺の前に立ちはだかったイリアは、怒ったような顔をしながら「そんなわけないでしょ」と続けた。きっと、そう返して欲しかったんだと思う。この時の俺は、話し出すことの出来ない話題を、こいつに振って欲しいと思っていたのだろうから。 「お前に……迷惑をかけるかもしれない」 イリアは何も答えなかった。ただじっと俺を見つめて、その先を促しているようだった。 「あの時、俺はこの国から逃げ出したんだ。何もかも嫌になって、耐えられなくなって。尻尾を巻いて逃げてしまった」 「シオン……」 「もう逃げたくないんだ……もう二度と……じゃないと、一生この国の影に追いまわされるような気がする」 イリアの暖かい掌がそっと頬に触れる。その手を頭の後ろまで回すと、柔らかな胸で緩く抱いてくれた。 とくんとくん、と心音が聞こえてくる。とても穏やかで優しいリズムは、俺の心を優しく包んでくれていた。その音を聞きながら、俺はこの上なく安心していた。 「私は傍にいるよ。何があろうと、ずっとシオンの傍にいるからね。だから心配しないで」 応える代わりに、彼女の背中をギュッと抱きしめていた。 翌日、俺達とヒルダはユリアの研究室に集まっていた。王位継承の儀を一週間後に控え、これ以上結論を先延ばしには出来ないだろうと、こういう訳だ。 「それで、何か新しい進展は?」 舵取り役のヒルダが口を開く。 「あったわ」 そう言って「まだ仮説の段階だけど」と付け加えるユリア。ずっと眠っていなかったのだろうか。目の下には酷い隈ができて、心なしか顔色も良くはなかった。 「何です?」 「私がここに来た時、解剖に立ち会って貰ったわね」 「ええ」 「あの時に脳が収縮していたと言ったけれど、覚えている?」 「もちろん」 「あれは恐らく、過剰な薬物の投与によるものだと考えられる。それならば、ある一定レベル症状が進行した所で、脳の正常な機能は失われてしまうでしょうね」 「というと?」 「端的に言えば暴走を始めるわね。意志が介在する余地もなく、ただひたすら破壊的行為につきはしる。クーデターの時に暴走した魔物がこれに該当するものと考えているわ」 「まさに手に負えなくなると?」 「ええ。それを想定はしたわけではないでしょうけれど。そのような個体が大量に発生すれば、あなた達にとって愉快ならざる事態に陥るのは間違いないでしょうね」 「そんな……他人事みたいに言わないでくださいよ! あなたが来てからも、城下に現れる魔物の数は一向に減る様子はない。それどころか増えてさえいるんですよ? どうにかしないとまずいでしょう!?」 「勘違いしないで。私はあなた達の尻拭いをしに来たわけではないのよ。私の仕事は、その現象の分析と解明にあるの。そこをお忘れなく」 「そんな無責任な!」 「無責任なのはあなたがたの方でしょう。こんなになるまで放置しておいて。いい? 自分たちの取った対処を思い返してみて。城下への出入りは完全に管理されている。そうでしょ? 24時間、兵士が見張っているんですからね」 「その中に裏切り者がいたとしたら」 「いたとしても私の責任ではないわ。でも、現実的になりなさい。監視にあたる兵士達はランダムに選ばれる。そして一定時間ごとに組み替えられている。そこに不正の痕跡を探る暇があったら、他に考えることがあるでしょう?」 「他にって、一体何の事を言ってるんです!?」 「怒った顔も素敵ね」 「冗談はよしてください」 「あなたこそ、ピリピリしてるのは解るけど、私にあたるのはよして頂戴」 「…………」 「解ってるんでしょ? 外からの侵入なんて不可能だわ。それに、魔物の数が増えていると言ったわね?」 「……ええ」 「それはとても不自然な事よ。第一に、それだけの数の野生の魔物を捕まえるだけで一苦労だし、その全てに手技を施すなんて現実的ではないわ。全てが管理下で行われたとしたら話は別だけど、それにはかなり高度な技術が必要となる筈だからね」 「その個体の発生から……という事ですか?」 「そういうことになるわね。ただし、私にはそれを可能とする方策など思いも寄らない」 そう言って視線を落とすと、彼女は一つだけ、大きなため息を吐き捨てていた。己の無力さを悔いているのか。それとも疲れ果てていたのだろうか。そんな彼女を見たヒルダもまた、その顔に暗い影を落としていた。下唇を噛みしめて、視線を宙にさまよわせている。 「……先程はすみませんでした」 「何が?」 「怒鳴りつけてしまって」 「ふふっ、別にいいのよ。こういうのは慣れているからね。いえ、そういう事じゃなくて、つまり、議論には慣れていると言うこと」 「すみません」 「もう謝らないで」 「すみま……あ……」 「少し休憩しましょう。そうした方が良いわ」 「そういえば……あ、この件とは関係ないんだが」 黙っているのが性に合わなくて、取り敢えず会話に参加してみたものの、先の二人とのトーンの違いに思わず口を噤んでしまう。だが、二人ともそんなことはお構いなしといった風だ。気分転換になるとでも思ったのだろうか。ユリアは「どうぞ」と言って先を促してくれた。 「シェーナの事なんだが、最近様子が変だとは思わないか?」 「シェーナって、あのシェーナ?」 明るい口調でユリアが言う。少なからず喜んでいるようだ。まあ、あれだけ反目していれば無理もないのかもしれないが。 「他にシェーナがいれば別かもしれんが、取り敢えず俺達が知ってるシェーナだよ」 「あら、一体どうしたというのかしら」 「あのなぁ……」 「シェーナがどうしたんです?」 「いや、最近妙に疲れた風じゃないか? いつもピリピリしてるし」 「彼女は女王の補佐官として、今回王位継承の儀を取り仕切ってるんです。ストレスもたまるでしょうし、ピリピリしても仕方がないと思いますが。だから、少しぐらいあたられても受け入れてあげないと」 「いや、それは解ってるんだが……何か違うんだよ。何て言うか、ほら、自暴自棄になってるみたいな感じがしてさ」 「そうですか?」 「そうだよ。お前、シェーナとは仲がいいんだろ?」 「私が?」 「ああ」 「い、いや、別にそんなことはありませんけど」 「何でどもるんだ?」 「べ、別に」 「またどもった」 「い、いいですから、話を続けてください」 「ああ、そうだったな。だから、ちょっと話してみたらどうだ? それとなくな。訊き出してみるんだよ」 「訊き出すって、何をーー」 その時だった。ドアをドンドンと叩く音が聞こえてきて、「失礼するわ」という言葉と共に入ってきたのは当のシェーナだった。 「何よ? 人の顔じっと見つめちゃって」 「い、いや、何でもないんだよ」 「それより、どうしたの? あなたがここに来るなんて珍しいと思うけど」 すかさずユリアが口を挟む。何となく意味深な言い方だが、シェーナの方には挑発に乗るつもりはないようだった。 「三人がここにいると聞いて来たのよ」 「何かあったのかい?」 「ええ、そうなのよ。例の兵士達のリスト、あらかた洗い出してみたんだけどね」 「当たりか?」 「かもしれない。リストに載っていた中の三名が、一昨日から姿をくらましている」 「名前は?」 「ええと、ちょっと待って頂戴ね。一人目がアリシア・トリアティ。二人目がウェイ・ラズロー。最後が……」 唾をゴクリと飲み込んでいた。胸がざわついてる。きっと奴ではないかと思っていた。だとしたら、あの時に逃がしてしまったのは手痛い失態に違いなかった。 「そう、ユーリ・カルバよ」 胸の底から沸き起こってくる悔しさに、俺はただ歯を噛みしめるしか出来ないでいた。 次の一週間はあっという間に過ぎていった。そして今日、ついに王位継承の儀が執り行われる。アドビスの未来はこの日を境に変わると言ってもいい。それだけ大きな意味を持っている儀式なのだ。 パレード開始の六時間前。俺達はお馴染みとなった会議室へとやって来ていた。ここで最後の調整をすることになっていた。しかし、いつになっても責任者が姿を現そうとしない。何かあったのかと、周囲がざわめきだしたその時だった。 「おかしいですね……シェーナがまだ来ないなんて」 呟くようにミトが言う。それに呼応するように、誰もがお喋りをやめて、一気に静寂が訪れた。待っていたと言わんばかりに、今度はニールが口を開く。 「大分時間もおしています。そろそろ始めませんか?」 ミトの方には抗いたい気持ちがあったのだろう。少しだけ俯いて、どうしようか考えているようだった。だが、彼が言っていることにも一理あると、そう結論づけたらしい。すっきりしない顔をあげると、「そうですね」と呟いてみせた。 「それでは、シェーナもいないことですし、私が音頭を執らせて貰いましょうか」 「ええ、お願いします」 ミトの言葉と重なってドアが開け放たれる。そこに姿を現したのはシェーナだった。ミトの奴も、一瞬ほど嬉しそうな顔を見せたものの、すぐさま異変に気づいたようだった。 「な……シェーナ、その腕はどうしたのです!?」 そう、シェーナの腕は真っ赤に染まっていたのだ。刀で斬りつけられたのだろうか。殆ど血は止まっていたようだったが、肘から手首に向かってパックリと傷口が開いている。それにも増して異様だったのは、その様な手傷を負いながらも何食わぬ顔をしているシェーナ自身だった。彼女の顔から表情の類を感じ取ることは出来ない。ただ、その瞳はいつになく鋭さを増し、殺気のようなものすら感じられたほどだった。そして無事な方の手には、何やら書類の束のようなものを握りしめている。 「私ならば大丈夫です。ご心配には及びません」 「でも……」 「それよりも、お話ししたいことがあります」 そこにニールが割って入る。普段よりも低く野太い声で「ちょっと待ってくれ」と言った彼は、立ち上がって、シェーナをじっと睨み付けていた。 「何かしら」 「君が遅れてきたせいで時間がおしているんだ。余計な話は慎むべきだ」 「大丈夫の一言もないの?」 「さっき自分で大丈夫だと言っただろう」 「そうね。だけど、私の話が『余計』かどうかを判断するのは貴方じゃないわ」 「だがーー」 そうしてミトの元へと視線を戻す。ニールのことなど眼中にないといった風に。 「儀式に関わる情報が流出してしまいました。恐らく、警備プランやパレード経路などに関わる情報の一切が」 一同が騒然とする。眉間に皺を寄せたミトは、一層厳しい表情をして、シェーナを睨み付けていた。 「どういうことです?」 「この中に裏切り者がいます」 「馬鹿なことを言うんじゃない!」 立ち上がったままのニールが声を荒げる。それから机をバンと叩いて、苛立ちを露わにしているようだった。 「顔色が悪いわよ。一体どうしたというの?」 「どうしただと? 決まってるだろう。君がそんな無責任な事を言い出すからだ。そんな茶番に付き合ってる時間など無いと、君がよく知ってるはずだろ」 「あなた……私の顔を見た瞬間、狐につままれたような顔をしたわね」 「何を言ってる」 「ここに来るはずがないと、そう思っていたんでしょ? 来れるはずがないと。だって、私を殺すよう仕組んだのは貴方だものね」 「ふざけたことを……」 「だから予め護衛をつけていた。この程度の手傷ですんだのは幸いと言うべきかしらね。ニール……貴方は金と引き替えに私達を売った。違う?」 突然の告発に唖然としてしまったようだ。ミトはシェーナとニールを交互に見つめ返してから、ぼそりと彼の名を呟いていた。当のニールは、敵意剥き出しの瞳でシェーナを睨み付けたままだ。 「証拠もなしにそんな無責任な事を言うんじゃない!」 「証拠ならあるわよ!!」 そう叫んで書類の束の一つを投げつけるシェーナ。まるで紙吹雪のように、無数の紙が宙を舞い踊っていた。その一枚がニールの手元に舞い落ちてくる。それに一瞥をくれた彼は、再びシェーナを睨み付けると、先程より大きな声で「でっちあげだ!」と叫んでみせた。 だがシェーナは口を開こうとしない。無言のままニールを睨み付けたままだ。それに気圧されたか、少しずつニールの顔に焦りが見え始める。 「そうじゃない! 違うんです、これは、これは彼女が仕組んだことだ! あ……その、こんな事は言いたくないですが、僕と彼女は、だから、そういう関係だったんですよ。だけれど、一方的に僕が振った。だから、だから彼女はその復讐にとこんな事を……でっち上げだ! こんなの……でっち上げに決まってる! 僕を貶めようとしてるだけだ!!」 その様子を見つめながら、口元にフッと笑みを浮かべるシェーナ。だが、その瞳は決して笑ってはいない。それから凛とした声で「入りなさい」と叫ぶと、兵士達に脇を固められた一人の男が入ってきた。 「も……申し訳ありません、ニール様」 恭しく頭を垂れる男を尻目に、ニールの奴がチッと舌打ちをする。 「彼のこと、知らないとは言わせないわよ」 「いいや、知らないね。そんな男の事!」 「彼は貴方の指示を受けて動いていた、いわば実働部隊の一員というわけ。そうね?」 「知らんっ! もしもその男が関わっていたのだとすれば、それはそいつが勝手にやったことだ! 俺には何の関係もない!」 「な……なんと言うことを仰るのですか!? 私はただ貴方に従っただけだ! 仕方がなかった。逆らえなかったんだ。私には四人も子供がいて、家族を食わせていく為には金が必要だった。だから……」 「哀れだわね。貴方の築き上げてきたものは、こうやって音を立てて崩れ去っていく。ふふっ、まさか、私が何の目的もなく貴方に近づいたなんて思っちゃいないわよね?」 「黙れっ!!」 そう叫ぶや否や、ニールは帯剣を引き抜いていた。それを大きく振りかぶって、男とシェーナがいる方へと駆けだしていく。 「ニール!!」 ミトの叫び声が響き渡った瞬間だった。シェーナの傍にいたホレースが剣を引き抜くと、彼はそれを片手で振り上げ、ニールめがけて勢いよく振り下ろしていた。予想外の相手に焦ったニールは、剣を横に構えて攻撃を受け止めようとする。しかし、彼の力が及ぶ相手ではなかった。 剣と剣が触れあった瞬間、ギンッと重たい音が鳴り響いて、ニールの身体は思い切り弾き飛ばされていた。 「ふんっ……堕ちる所まで堕ちたな、ニール」 吐き捨てるようにホレースが言う。それから剣を鞘にしまうと、やれやれといった風に、ドスンと椅子に座り込んだ。一方のニールは、壁に打ち付けた背中が痛んだか、床にうずくまったまま動けないでいた。それをあっという間に兵士達が取り囲んでいく。 「地下牢にでも入れとけ」 誇らしげにホレースが続ける。長年の敵を我が手で葬り去れたのだ。これ以上気持ちの良いことはないだろう。その一部始終をじっと見つめていたシェーナは、一段落ついた頃を見計らって、徐に口を開いた。 「進言します」 「ええ」 「本日のパレードは中止すべきです」 「シェーナ」 「危険すぎます!」 「もう決めたのよ。後戻りは出来ないわ」 「……どうしても、聞き入れては下さらないのですね?」 「ええ」 「それでは、これをお納め下さい。予備プランです」 彼女がテーブルの上に置いたのは、びっしりと文字で埋まった紙の束だった。なるほど、だから後生大事に持っていたというわけか。今更ながら納得しながら、ミトの方へと視線を移してみる。 ミトはシェーナの書いた計画書にじっと目をこらしていた。一文字も見逃すまいと、食い入るように見つめていた。 「お前一人で書いたのか?」 やけに改まったように言うのはホレースだ。先程ニールに投げつけた言葉とは明らかに違う、一言一言を噛みしめるような言葉だった。 「そうよ。どう思う?」 「よう出来とる……ああ、素晴らしい出来だ。これなら前のものと引けを取らんぞ」 「近衛騎士団の成員は一切を排除している。メインの警備はあなた方王国騎士団に、近衛騎士団の穴は傭兵で埋めさせるわ。やってくれる?」 「もちろんだ。任せてくれ。そうと決まったら、早う準備をせんとならんぞ」 「そうね。取り敢えずは散会しましょう。それぞれが準備をして、五時間後にもう一度ここに集合しましょう。良いわね?」 皆が部屋を去っていく中、俺とミトはずっと椅子に座ったままでいた。ちらっと視線を横に流すと、その意図を悟ったか、イリアは「先に行ってるね」と言って足早に部屋を去っていった。そして皆が立ち去っていって、だだっ広い会議室の中には俺達二人以外誰もいなくなっていた。 「どうしてもやるのか」 乾いた唇を開いて沈黙を破る。 「ええ」 ミトはじっと俺を見つめたまま、目瞬きすらしようとはしない。 「危険だ」 「解っています」 「どうして……」 「前にも言ったはずです。この世界に安全な場所などありはしないと」 「それでも、少しはリスクを減らすことが出来る」 ミトの口元に笑みが浮かぶ。儚げで自嘲的な笑みだ。もう何度見ただろう。だが、何度見ても慣れることはない。その度に俺の胸はギュッと締め付けられて、何とも言えず悲しい気持ちになるのだ。 「その様なことをして何になるというのです? 僅かばかり我が身を長らえさせることで大局を見失ってしまうなど愚かなことです」 「お前は……女王だもんな」 「それを誰よりお兄様に認めて貰いたい」 「認めているよ。お前は立派な女王だ。誇りに思う。この言葉に偽りはない」 彼女は俺の瞳をじっと見つめて、「ありがとう」と、そう言ったんだ。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。この上なく幸せそうな顔をしていた。今の俺達に、それ以上の言葉は必要なかった。 「それでは、行きましょうか」 ミトの合図と共に楽隊の演奏が始まる。そして彼女を乗せた馬車はゆっくりと動き始めた。その周りには王国騎士団の兵士達が、前後にはクレリックの僧兵達が列をなしている。その誰もが真っ白な法衣を身に纏い、ある種厳かな雰囲気を醸し出していた。こう言えば聞こえは良いが、その実、彼らはミトを護る楯に他ならない。そして俺もまた、その役目を進んで買って出た一人だった。 「無理だけはするんじゃないぞ」 振り返りはしなかった。頬を撫でる風はその身に言の葉を乗せ、後ろを歩くあいつが「うん」とだけ答える。連れて来るべきではなかった。出来ることならば、どこかに閉じこめておきたかった。だが、彼女がそれを承伏する筈がなかったのだ。その瞳に宿った強い意志にも、俺は逆らうことが出来なかった。 何事もなければいい。祈るようにそう思っていた。今日さえ乗り切ることが出来たなら、この国は何とかなるだろう。きっと大丈夫なはずだ。だが、それが如何に難しい事であるかも俺は知っている。だから、この胸に渦巻く不安を消せはしなかった。そう、胸の底に渦巻くどす黒い不安を。それは歩みを進めていくごとにむくむくと大きくなって、この俺を内に取り込んでいく。楽隊の陽気な音楽とは裏腹に、それは少しずつ俺を呑み込んでいく。その正体を探るように、パレードの観客達の中に視線を落としていた。 そこにいたのは、人種も年齢も関係ない、女王の即位を心から喜んでいる者達だったのだ。どの顔にも笑みが浮かんで、もげそうになる程に大きく手を振っていた。まるでスローモーションをかけたように、周囲の景色がゆっくりと流れていく。多くの笑顔が、視界の内に入っては消えていく。そして彼の姿を捉えた瞬間、俺は思わず息を呑んでしまった。 「あ……」 背中にイリアの身体がぶつかってくる。 彼女が間の抜けた声を漏らして、列の後ろからはやじるような声が続けざまに飛び込んできていた。 「行くぞ!!」 「え……あ、うんっ!」 そうする事に何の戸惑いをも抱きはしなかった。勢いよく列を飛び出した俺達は、滑り込むようにして観客の中へと入っていく。予想はしていたことだが、あまりの人の多さに、なかなか先に進むことが出来ない。それどころか、俺達の様子を不審に思った兵士まで駆けつけてくる始末だ。 「ちょっと待ちなさい」 あっという間に4、5人の兵士達に取り囲まれてしまう。何とか奴を見失うまいとするが、視界を遮られてしまって、それすら叶いはしなかった。 「離せっ!! 早く追いかけないと!!」 「こらっ、暴れるんじゃない!」 「俺の顔が解らないのか!!」 「何を言ってる! さっさと来るんだ!」 兵士の一人がぐいと腕を掴んでくる。せめてもの抵抗にと腕を振り回してみるが、がっちりと掴んだ大きな手の前で、それは無駄な抵抗に過ぎなかったようだ。 「お……おい……」 「何だよ?」 「そ、そのお方は、この前女王の傍にいた……」 「何だと!?」 反射的に手を離して、俺とイリアの顔を交互に見返す兵士。その顔には驚きと恐怖の入り交じったような表情が浮かび上がっている。俺にどうにかされるのではないかと思ったのだろう。そんなことをしている暇はどこにもないが、あったなら厳罰を食らわしてやりたい所だ。 「も、申し訳ございませんでしたっ!! その、自分は、あの……」 「そんなことはどうでもいい! それより、女王の警備を固めろ! 今すぐにだ!!」 「はっ!!」 「イリア、行くぞっ!!」 応えを待たずに走り出していた。しかし、奴の姿はどこにも見あたらない。さっきの足止めですっかり見失ってしまったらしかった。 「くそっ……どこへ行った!?」 「シオン、あっち! あの家に入っていくのを見たんだ!!」 「でかしたぞ! よし、行こう!!」 人混みの合間を縫いながら、彼女の指さした家へと走っていった。しかし、正面玄関には鍵がかかっているらしい。引っ張っても捻っても、ドアは一向に開こうともしない。 まさかここで手荒な真似をするわけにもいかないから、俺達は仕方なしに裏口へと向かっていった。 「駄目。やっぱりこっちも鍵がかかってるよ!」 「よし、それじゃ離れてろ。いいな? ……ソエル・イス・ウィルド!!」 掌に青い光が浮かび上がって、次の瞬間、ドアノブがあった所には大きな穴が開いていた。今度は押しただけで扉が開いていく。頷きあった俺達は、それを合図に家の中へと駆け込んでいった。 「あれ……誰もいない!? でも確かに見たんだ、私!」 動揺を隠せない彼女を尻目に、あちらこちらに目を凝らしていく。天井、ドア、窓、炊事場、不審な点は何一つありはしない。だが床に視線を落とした瞬間、テーブルの脚の前後についた傷跡を決して見逃しはしなかった。 俺は無言のまま机に触れると、その手に少しずつ力を込めていった。 ゴゴォ、と音をたてながら動いていくテーブル。その下に階段が姿を現す。 「さっすが……」 イリアの奴は感嘆のあまり言葉もないようだ。そうだろうそうだろう。誇らしげに喉の奥で笑ってやると「行くぞ!」と言って階段を駆け下りていった。 どうやら地下はカタコンベになっていたらしい。話には聞いていたが、まさか本当にあるとは思わなかった。もっとも、墓地としての機能は随分前に失われてしまったようだが。 「ねえ、シオン」 「解ってる」 彼女の言葉を遮って、暗闇の先に目を凝らしてみる。そこから聞こえてくるのは、何者かが足を引きずるような音と、獣が呻いたような声。それはカタコンベ中に響き渡って、その不気味さに一層の彩りを加えていた。 「気をつけるんだぞ。絶対に俺よりも前に出るな。いいな」 彼女はゆっくりと頷いていた。その大きな瞳が一瞬程暗闇の中に呑み込まれていく。それを逃さぬように頬に触れると、俺の方へと顔をあげさせた。 「大丈夫だ。心配しなくて良い」 もう一度だけ頷きあって、俺達はカタコンベの奥へと駆けだしていった。普通ならば追いつけはしないだろう。だが奴ならば、もしくは、そういう期待を胸に抱いて。 「ユーリ!!」 視界の内に奴を捉えた瞬間、俺はあらん限りの大声でその名を叫んでいた。壁にぶつかり合った声は、少しずつ歪みを増しながら、通路の奥へと反響していく。それが聞こえぬわけがなかったし、他の誰に向けられたものでもないことは明らかだった。 ユーリが徐に足を止める。ひとたびの静寂が訪れるが、それも長くは続かなかった。どこからともなく、苦しげな呻き声が響き渡ってきたのだ。きっと魔物のものであろう。全ての元凶となったそれが、このどこかに潜んでいるのだ。 「どうしてこんな事をした」 背中から生ぬるい風が吹き込んできた。それはユーリの髪の毛をユラユラと揺らし、身に纏ったローブをその内に孕ませていた。原色の糸で織られた衣装は、きっと、彼の故郷のものなのだろう。 「何を仰っているのやら」 「ふざけるんじゃない! 何故こんな馬鹿なことをしたんだ!!」 暗闇の中を、俺の声が木魂していく。「何故?」と問いかけるように呟いた彼は、その身をおもむろに翻すと、俺の目をじっと見つめてきた。白目の部分が蒼白の光を宿して、ヌラヌラと妖しい輝きを放っている。 「お前達が余計なことをしなければ、この国の覇権は今頃我々が握っていたものを」 「そんなことの為に……そんなことの為に無実の人々の命を奪ったというのか」 「無実だと? 本気でそんな風に思っているわけじゃないんだろ?」 「俺は至って本気だ。お前らのエゴを満たす為に犠牲にしていい命なんてありはしない」 「ハッ、俺があのもうろくじじいの理想に共鳴したとでも思っているのか? ふふっ、それこそ馬鹿げてる。お前に虐げられた者達の気持ちがわかるのか? 為す術もなく、むざむざと殺されていった者達の気持ちが。それを黙って見ていた者達も同罪だ。無実だと? 笑わせるんじゃない! これは罪人に対する復讐だ。俺達はその死刑執行人となる」 奴の口元が醜く歪んで、その瞬間だった。頭上から物凄い爆音が聞こえてきて、地面がぐらりと大きく揺れる。天井からはパラパラと小石が落ちて、あっという間に四方へと細い亀裂が走っていった。 「彼らは解き放たれた。まもなく暴走を始めるぞ。こんな所にいていいのか?」 手をギュッと握りしめていた。爪の間から火傷しそうな程の熱気が洩れて、拳が蒼白い光に包まれていく。しかし、決してその力を解き放ちはしなかった。 「行くぞ、イリア」 そして身体を翻した。イリアと視線が交差する。今にも泣き出しそうな瞳で俺を見つめていた。それを振り解いた俺は、彼女の手を取ると、乱暴に引っ張って歩き出していた。 その判断が正しかったかどうかは解らない。だが、俺に刑を執行する権利はないと、そう確信していた。決して境遇からではない。彼を裁く権利など、神を除いて、誰にもありはしないのだ。この瞬間、俺は初めて神の存在を信じていた。 地上に戻ってきた俺達がまず目にしたのは、ロッドを天に振りかざした神官達の姿だった。詠唱の言葉が幾重にも連なって、その術が発動した瞬間、空を覆う巨大な結界が姿を現す。頭上高くで群れていたガーゴイル達は、結界に阻まれてなかなか地上に降り立つことが出来ない。しかし奴らも頭を使ったか、すぐさま結界の及ばない場所まで飛んでいくと、そこから獲物を目掛けて滑空しようとする。それをまた神官達が止めて、その繰り返しだ。地上にも多くの魔物が放たれていたようだ。鉈のような大剣を持った傭兵達が、猛撃を食い止めようと必死に戦っていた。目前に広がっていたのは、まさに人間と魔物のタペストリーであったのだ。混戦を繰りかえしていく中で、積み上げられていく死肉は、もはや人間と魔物の別も解りはしない。その様な惨状の中で、俺達はただひたすらミトの姿を探していた。逃げ惑う人々の間を縫って、見慣れたはずのその姿を必死になって探していく。シェーナの計画通りに動いていれば、一行はこの先にいるはずだ。そう思って角を曲がると、はたして、そこにミト達はいた。 ミトは幌のない馬車の上にすっくと立って、掌に水のようなものを垂らしていた。それをギュッと握りしめ、腕を前に突き出すと、地面に向かってパッと手を開く。零れ落ちた水はあっという間に土の中へと呑み込まれていって、その直後、この地に刻まれた結界が淡く輝きだしていた。 「少しは時間稼ぎが出来るでしょう。今の内にケリをつけないと!」 「それは私達の仕事です! 女王は早く安全な所へ!」 そう続けるのはシェーナだ。傷口が開いたか、法衣の袖口は血でぐっしょりと濡れそぼっている。それでも、頭の中にはミトを逃がすことしかなかったようだ。自分の事など我関せずといった感じで、ミトの腕をぐいぐいと引っ張っていた。 「いいえ、私は逃げないわ」 「女王!」 「皆を置いて、私一人のこのこ逃げろというの? そんな事出来るわけがないでしょう! あなた達も、私の警護はいいから、早く事態の収拾にあたりなさい!」 「しかし!!」 「ホレース、非戦闘員の保護を最優先にしなさい。後は貴方に任せるわ!」 「承知しました!」 「ジャニス、神官達を集めて救援部隊を組織して。早く!」 「はい、すぐに!」 「女王」 「シェーナ、私は逃げないわよ」 「今の兵力ではとても持ちこたえられません。隣国に援助を頼みましょう」 「駄目よ」 「無理です!」 「そんなことをしても無駄よ! 乗り切れるわけがない。応援が来る頃には全滅しているわ」 「だったらーー」 「武器庫を解放しなさい」 「え……」 そしてシェーナから視線を外すミト。その目は逃げ惑う民達に向けられていた。 「聞きなさい! 武器庫を解放するわ。戦える力の残っている者は剣を取りなさい。私達の国は私達で守るのよ!」 「危ないっ!」 ミトの演説にイリアの叫び声が重なる。反射的に振り返ると、そこには転んで泣き喚く子供が、それを格好の餌にしようと滑空を始めるガーゴイルの姿があった。 俺は何ら迷うことなく魔法を放っていた。両の手から放たれた白と黒の光の玉は、空中で何度も交差を繰り返しながら、ガーゴイルの目前で轟音と共に爆散する。奴の頭はグシャッと砕け散って、胴体だけになった身体は無惨にも地面に叩きつけられていった。 一部始終を見ていた者達の間に「ウィザード」という言葉が次々と沸き起こっていた。 俺にとっては特別なことではなかった。しかし、それはミトの逆鱗に触れたようだった。「黙りなさい!」と叫んだ彼女は、その者達の顔をギリっと睨み付ける。 「あなたちは敵と味方の区別もつかないの!? いい加減になさーー」 その言葉を遮るように、鼓膜が破れてしまう程の爆音が鳴り響いていた。 「キャッ!?」 後を追うように突風が吹き荒れて、思わず腕で目を覆い隠してしまう。だがすぐにイリアのことが気になって、振り返った俺は、彼女の身体をグッと抱き寄せていた。そして顔だけをぎこちなく後ろに回すと、なんと、そこに鎮座していた筈の公会堂が跡形もなく消え去っているではないか。後に残るのはぽっかりと開いた穴と、そこからもくもくと沸き起こってくるどす黒い煙だけだった。 「一体何が起こったの!?」 少しずつひいていく煙の中に、巨大な魔物のシルエットが浮かび上がる。 「あ……」 まさに三階分の背丈はあろうかという巨体に、思わず唖然としてしまった。灰色の死肉のような肌には疎らに長い毛が生え、腕や足の付け根には裂けたような傷跡が見て取れた。その大きな目で逃げ惑う者達をぐるりと見回すと、奴は両の手を高くまで上げ、甲高い叫び声をあげて空気を震わせた。 「くっ……何て事」 悪態をつきながら馬車から飛び降りるミト。辺りを見回すと、神官長達に集まるようにと、半ば叫ぶような声で命令を下す。 「私達が食い止めるのよ、結界を張って」 誰も応える者などいなかった。対立している者同士で手を取り合うなど、この状況においても想像だに出来なかったのだろう。そして、彼らのプライドはそれを許すはずがなかった。きっと、そうなのだと思う。 「何をしているの! 私達が止めるの! さあ、配置につきなさい!!」 気圧された神官長達は、戸惑いがちに自分たちの配置へと向かっていった。それを確認したミトは、今度はお兄様です、と言わんばかりにこちらへと視線を投げかけてくる。 「お願いします」 そうとだけ言って、魔物と対峙するように身体を翻した。両の手を天に翳し、両足を地面に踏みしめ、すぐさま術の詠唱を始めたようだった。この位置からからは殆ど背中しか見えないが、ヴンと歪んだ音が響き渡って、魔物を取り囲むように光の壁が姿を現す。それを吹き飛ばそうと言うのだろうか。もう一度奇声をあげた奴は、反動に任せて、勢いよく腕を振り下ろしていた。しかし、その指先が結界に触れた瞬間、目映い光が奴の手を弾き飛ばす。今度は悲痛な呻き声が空気を切り裂いていた。 「あまり長くは持ちません。早く!」 ザザッと音を立てながら、踏みしめた足が徐々に地面へと埋まっていく。伸ばした腕は小刻みに震えて、押さえ込もうとしていた力の大きさを露骨に示していた。 「シオン……」 イリアが不安そうに声をかけてくる。俺は振り返りはせず、ただ「下がってろ」とだけ返して、左右に足を開いた。だらんと垂らした腕をゆっくりと前に突き出していく。 「ラーグ イス ウィルド オセル ユル ハガル ソーン フェル ウル」 足元から無数の光の玉が浮かび上がって、それは俺を取り囲む円を描くように回転を始める。バフッと音を立てながら抉れる地面。弾け散るように土埃が舞い上がっていく。 「ヤラ ギューフ ヤラ イス ヤラ ユル ヤラ ティール ヤラ マン ヤラ イング」 光の輪が渦を巻きながらゆっくりと上昇を始める。再び土埃がワッっと舞い上がって、流れの内に呑み込まれていったそれは、赤や黄色、青の光へと姿を変えていった。光の渦は混沌とした色彩の織りなすタペストリーと化して、周りの空気を吸い込みながら、ますます大きなうねりへと生まれ変わっていく。 あと少しで術が完成するという時だった。「女王!」という甲高い叫び声が響き渡って、俺は反射的にミトの方へと視線を向けていた。そして愕然としたのだ。彼女の頭上には巨大なガーゴイルが、大きく開けはなった口から赤黒い炎をはき出していた。それに気付いた傭兵達が続けざまに矢を射っていく。その全てが巨大な体躯に突き刺さって、バランスを崩した奴が地上へと落下を始める。 「ミト!!!」 矢のような炎が妹の身体を突き抜けていた。彼女の上体がぐらりと揺れて、その瞬間、魔物を取り囲んだ結界がパッと消滅する。しかし、彼女の身体は崩れ落ちはしない。細い両足をグッと踏みしめ、直ぐさま結界を立て直していたのだ。 「続けなさい!」 怒鳴りつけるような声が響き渡る。 「くそっ……!」 悪態をつきながら足をふんじばる俺。何とか呪文の続きを唱えようとするのだが、唇がうまい具合に動いてくれない。その間に磁場がぐらりと揺らいで、心臓が大きく鼓動を打った。 光の柱を取り囲むように、蒼白い稲妻のようなものが浮かび上がってくる。バチバチと音を立てながら、それは俺の肌にも食らいついてくる。繰り返されるのか? 必死に葬り去ろうとしてきたあの日の出来事が、またしても繰り返されてしまうと言うのか? 身体がフワッと軽くなって、足元の感覚が少しずつ無くなっていく。そうだ、あの時、俺は呑み込まれてしまった。己を取り巻く深い闇に、自ら足を踏み入れようとした混沌の中に、呑み込まれてしまった。何も知らなかったんだ。それが如何に恐ろしいものか! 「だめだ……暴走する……」 そう漏らした瞬間だった。金属を切り裂いたような音が響き渡って、足元に白い魔法陣が刻まれていく。後を追うようにしてどっしりとした身体の重みが蘇ってきた。 「え……」 「私達がサポートします。今のうちに立て直してください!」 俺を取り囲むように立っていたのはクレリックの神官達。目と目があった瞬間、彼女は口元に微かな笑みを浮かべていた。 一度だけ頷いてから前方に視線を戻した。踵にぐっと力を入れ、残りの呪文を素早く唱えていく。 目の前の空間が歪曲していた。鋏で切り取ったような景色がグニャッとへこんで、それは渦を巻きながら巨大な球体を形作っていく。そして、俺を取り囲んでいた光の帯も、ゆっくりとその内へと呑み込まれていった。その一つ一つが複雑に絡み合って、閉塞した世界を、混沌とした色彩で彩っていく。その先に立つミトの姿を、じっと見つめていた。制御するだけでも精一杯だったはずだ。それでも、この目を決して離しはしなかった。そして見てしまったのだ。ぐらりと傾くミトの身体を。 妹が崩れ落ちていく姿がスローモーションのように映っていた。結界を為していた蒼白の光が明滅をして消え去り、その瞬間、俺の掌から魔法が解き放たれていく。 逃げ惑う人々の頭上を駆け抜けていくどす黒い光の玉。彼らのわめき声を喰らい、その身はますます大きくなっていく。そして魔物の目前までやって来た瞬間だった。天地を切り裂くような雷鳴が轟き、天上から放たれた稲妻は、俺の放った魔法を炸裂させていた。 |
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fin. |
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最後まで読んで頂きありがとうございました。最後に話者として使いたい人物がいるので、本編はここで完結という事にさせて頂きます。この続きは番外編として後日アップしますので、そこまでおつきあい頂ければ幸いです。 今回はオリキャラの比率を高くし、他の作品に比べ、シオンとイリアの貢献度(?)を低くしてみました。それにも関わらずここまで読んで下さった方には、本当に感謝の言葉もありません。この話は読みきりとして出していますが、実のところ、当サイトで連載していた"apotosis"の続編的な位置づけにあります。読み切りにした理由は「これを読む為だけに長ったらしい前作を読んで頂かずにすむようにする為」に尽きますが、2005年12月中には"apotosis"のリメイク版を出したいと思いますので、宜しければまたおつきあい下さいませ。 |