v o i c e


 街の喧噪の中で彼女はいつも人混みに紛れるように立ち竦んでいる。
 目の前に広がるセピア色の景色。味気ない世界。せかせかと動き回る人間たち。その内にあって唯一強烈な色彩を帯びている一人の女性−−紫色の長髪に褐色の肌、すらりと着こなした長身のコート、髪の合間からのぞく細長い耳、その美しいと形容するだけではあまりに言葉が無力に思えてしまうような、ある種荘厳な容姿に目を奪われてしまう。
 しかし真に俺の心を奪っていたのはそのようなものではなかった。俺の瞳が絶えずとらえていたもの、それは燃えさかる炎を内に秘めた深紅の瞳だった。その瞳に見つめられていると体中が身震いするような感覚に襲われて、金縛りにでも遭ったかのように固まってしまう。一度として話をしたことも触れたこともない。それが出来ないことも自分なりに理解しているつもりだ。それでも彼女の姿を求めてここにきてしまうのは、彼女を見つめていること、そして俺自身が見つめられていることを望んでいたからかもしれない。

−−ピピッ

 無機質な機械音が鳴り響いて、それを合図と言わんばかりにそれまで忙しく動き回っていた人々が動きを止めた。誰もがビデオの一時停止ボタンを押したように不自然な形で立ち止まっている。それは彼女とて例外ではなかった。今や生々しい質感など露とも感じさせない、写真のような薄っぺらい映像が目の前の空間に貼り付けられているだけだ。そしてそれまでの感傷を打ち砕いてやろうと言わんばかりに、目の前にブルーバックのスクリーンがパッと浮かび上がった。その中に『着信』という文字を見つけてやれやれと息を吐く。
「コマンド。離脱しろ」
『了解しました。離脱します』
 頭の中に人間のそれと殆ど変わりのない人工音声が鳴り響いた。原色の砂嵐みたいなもので視界が遮られて、一秒もたたないうちに殺風景なコックピットへと連れ戻される。
 仮想現実はそれなりに味気ない人工的なものだけれども、今俺がおかれているこの現状とどれだけの違いがあるかと訊かれれば答えるのはなかなかに難しい。
「ちょっとカイ、聞いてるの? ねえったら!」
 ふと視線をあげると、中央の窓にデカデカと声の主のホログラムが映し出されていた。けばけばしいイエローヘアーに甲高いわめき声。悪友と呼んで差し支えないであろう彼女の名はソフィアだ。
「……聞いてるよ、頼むからそんなに叫き散らさないでくれ」
「どうせまたシュミレーターで遊んでたんでしょ? 全く……暇なのは解るけどほどほどにしときなさいよ? 夢見心地でイッちゃってる最中に隕石にでもぶつかったら洒落にならないわよ」
「どうせオートパイロットにしてるんだ。起きてようが寝てようが目的地には着くさ。それに誰が好きこのんでこんな宇宙の片隅で一人暇を持て余してるって言うんだ?」
「止してよ……真っ当な人間ならこんな仕事しないわよ。違う? あなただって何かやらかしたからそこにいるんでしょう?」
「……なあ、お前にだって触れられたくない過去の一つや二つあるんだろ? お互い詮索はやめとこうぜ」
「あ……そうね。ごめんなさい。つい……」
「いいよ。それより用件は何だ? まさかそんなこと言いに来たワケじゃないんだろ?」
「当たり前でしょ。あなたも知ってると思うけど、あと少しで分厚い電磁層の中に入るわ。その後は私達との通信が途絶えるから、最後の確認をしておこうと思ってね」
「ああ」
「現在はアドビス圏内にいるから私達が管制をしているけれど、層を超えたらアニバピオ圏内に入るから、それ以降はそちらの指示に従って頂戴。ただし、電磁層の中では通信が完全に遮断されてしまうから、外からのサポートは一切無いわよ。何か起こっても自分で解決してもらうしかないわ。いい?」
「ああ、解ってるよ」
「ならいいんだけど……あなたを見ていると何か放っておけなくて」
「何だよ、そんなに頼りないか?」
「そんなんじゃないわよ。ただ−−」
「ただ?」
「どこか自棄になっているような、そんな危うさを感じる」
 彼女にしては酷くトーンを抑えた声だった。ぷっくりと膨らんだ唇が幾度か上下に動いて、それがゆっくりと閉じた瞬間、ザザッというノイズと共に通信は途絶えた。
 その言葉を頭の中で繰り返しながら、俺はいつまでも窓の外に広がる漆黒の闇を呆然と見つめていた。その言葉はあまりに俺の心の中を見透かしていた。


 しばらく窓の外を見つめながら、あの深紅の瞳の女の事を考えていた。
 仮想現実シミュレーターは潜在的な願望を擬似的に再現するのだという。閉鎖的な宇宙空間下での欲求不満を解消する為に開発された。だとしたら俺は一体何を求めているというのだ?女か?確かに女は好きだ。地上にいた頃は女と見れば手当たり次第声をかけたりもした。だが、今頭の中にあるのはあの女の事だけ。寝ても覚めても、まるで恋煩いでもしてるかのようにあの女の事が頭にこびりついて離れない。
 会った事もない、まして作り物の女だ。それはよくよく理解しているはずなのに、俺はシミュレーターの中であの女に見つめられるその一瞬を心待ちにしている。
 古ぼけた写真のように色褪せたあの街に彼女はいる。全てがセピア色に染まったあの街で彼女だけが強烈な色彩を帯びていて、そこでは誰もが忙しそうに動き回っている。彼女はその雑踏に揉まれながら身じろぎもせずに、じっと立ったまま俺を見つめている。その瞳にとらえられると、まるでメデューサに魅入られたかのように体が言う事を聞かなくなる。それでも、俺は満足しているのだ。先に進めなくてもいい。触れる事すらかなわなくてもいい。ただその一瞬が確かに存在するならばそれで良かった。
「……どうかしてる」
 ぼそりと呟いて、ゆっくりと目を閉じた。きっと疲れているんだ。寝れば少しはまともな事を考えられるようになるさ。そんな風に言い訳がましく心の中で呟きながら。


 ゆっくりと目を開くと、そこに広がっていたのはあのセピア色の景色だった。巨大なビル群、行き交う人々、看板、ネオンサイン−−それら全てが色褪せた写真のようにくすんで見える。その中で人混みを掻き分けながら、俺は必死になって彼女の姿を探していた。
 一歩一歩足を進めていくごとに胸がザワつく。口の中がカラカラに乾いて、ただ考えている事と言えば「もしも彼女を見つけられなかったら」という事だけ。壊れたねじ巻き人形のように不器用に体を動かす事でしか不安を和らげる事の出来なかった。そのような自分など本来最も嫌っている筈なのに、醜態をさらす事を厭わずにそれを続けた。
「あ……」
 足を止めてその場に立ち止まった。乾ききった口の中でつばを飲み込むようにしてゴクリと喉を鳴らす。そして二度ほどゆっくりと瞬きをして、未だ目の前に彼女がいる事を確認するとホッと息をついた。
「初めてだよね。君に……こうやって話しかけるの」
「…………」
「俺は……その、何て言うか……ずっと君を捜していたんだ。ええと、わかる……かな?」
 その瞬間、彼女の唇が微かに動いた。
 耳が痛くなるほどの静けさの中。だけど彼女の声が俺の耳に届く事はなかった。それでも……その唇が何を言おうとしていたか、それだけは不思議とよく解った。
 その言葉は−−

タ ス ケ テ

『警告、SOS信号を傍受しました。警告、SOS信号を傍受しました』
 突然耳元で鳴り響いたサイレンに飛び起きると、反射的に周りをキョロキョロと見回していた。目に入るモニターの全てに『SOS』という赤文字けばけばしく点滅している。
『警告、SOS信号を傍受しました。警告、SOS信号を傍受しました』
「どういう事だ!?」
『1000Km圏内でSOS信号を傍受しました。発信元の船艦の国籍は不明。この距離からでは生体走査は出来ません』
「SOSだと……?」
『はい、自動信号が継続して発信されています。どうされますか?』
「どうするもこうするも見殺しにするわけにはいかないだろう。だが生存者がいるかどうかも解らないんじゃ参ったな。なあ、そこまでどのくらいでいける?」
『概算で二時間です。いかがなさいますか?』
「二時間か。よし、向かってくれ」
『了解しました』

−−二時間後

『当該宙域に到着しました。生体走査開始……有機体の存在を確認。簡易マップを表示しますか?』
「ああ、頼む」
 モニターがブラックアウトした後に緑色の線で描かれた船の見取り図が表示された。その中に赤い点が一つほど点滅している。きっとこれがSOS信号の発信者なのだろう。
「なるほど……ね。ドッキングは自動でいけるか?」
『はい、可能です』
「それじゃあ頼む」
『了解しました』
 モニターに船外見取り図が表示される。同じく緑色のフレームの中心にある円はドッキングハッチだろう。円に外接する歪な形の赤い四角が表示され、それは少しずつ傾きながら正方形へと近づいていく。そしてその四角が完全な正方形になった時、金属が軋むような音とともに船がぐらりと揺れた。
『ドッキングは正常に終了しました。ハッチ周辺のエアー・サンプルは正常ですが、宇宙服の着用をお勧めします』
「サンキュー。じゃ、留守にしている間よろしく頼むぜ?」
『了解しました。指示があるまでオートパイロットを継続します』

 毎度の事ではあるが、どうもこの宇宙服というヤツは好きになれない。薄型とはいえそれなりに動きが制限されるし、自分が吐いた生ぬるい息がヘルメットのガラスにぶつかって戻ってくる感覚は何とも言えず気持ち悪い。それにどこかかゆくなっても掻く事さえ出来ないなんて一種の拷問だと思う。
 それでも、中で何かあったら厄介だからな−−そう自分に言い聞かせてヘルメットを被った。シュウーと空気が流れ込んでくる音と共に、目の前のガラスにホログラムの小さなモニターが浮かび上がる。その中を映画のエンドクレジットを早送りしたみたいに小さな文字が次々と流れていって、どうやらスーツの動作チェックをしているようだった。10秒も立たないうちに『ピピッ』という耳障りな機械音が鳴り響いて、モニターに『OK』と表示された。
「可愛い子でもいるといいんだがな」
 おどけて呟くと、壁のボタンを押して固く閉ざされたハッチを開けた。


 それまでの陽気な気分は難破船に足を踏み入れた瞬間に消え去ってしまった。見渡す限りの悲惨な光景に思わず唾を飲み込んでしまう。至る所に紙が散乱して、壁には抉り取ったような痕が、機械類も見渡す限り完全に壊れているようだった。殆どのモニターが割れて、寸断された配線からは火花が散っている。
「この中に……生存者がいるのか?」
 もっと不思議な事は、この状態にあって重力と酸素がきちんと維持されているという事だった。何度空気を調べてみても異常は見あたらない。という事は見た目よりも損傷は軽微なのだろうか? とにかく、今は生存者を捜す方が先決だ。そう考えた俺は、先ほどAIが見せてくれた地図の赤い点が表示されていた部屋へと足を進めていった。

 歩き回ってみて解ったのだが、船内の破損状況はどこも同じようなものだった。生々しい傷痕を見る度にこの船が未だ動力を維持して航行しているという事実を疑いたくなってしまう。
「誰かいるか? 入るぞ!」
 そう宣告して、一番奥まった所にある部屋の扉を開けた。
 他と何ら変わりない、電気もついていない普通の寝室だった。特に目立った損傷は見受けられないが、薄暗くて奥まで見る事が出来ないのでよく解らない。
 ゴクリと唾を飲み込む。心臓は早鐘のように波打って、俺は本能的に並々ならぬ「何か」を感じていた。その正体は解らない。それでも、これまで数多くの修羅場をくぐってきた俺の勘に間違いは無いはずだ。
「−−!?」
 空気がフッと揺れた。音はなかった。だが何かが動いた筈だ。反射的に銃を抜いたと同時に、闇の奥からも微かに金属が軋む音が聞こえてくる。
「「誰だ!!」」
 二つの声が重なった。この耳に届いてきた声は確かに女のそれだった。俺は銃のポインタを外さずにジリジリと距離を詰めていくと、相手の注意を逸らす為に話しかける事にした。いくら助けに来たとはいえ撃たれない保証などないのだ。それならばこちらも手を抜くわけにはいかなかった。
「俺はカイ。この船からの救難信号を受けて助けに来た。危害を加えるつもりはない」
「救難信号……だと?私はそのようなものを出した覚えはないぞ!」
「確かに受け取った。だからアニバピオに向かうコースを外れてここまで来たんだ。誰が好き好んでこんな辺境まで来ると思う?」
「んな事を私が知るわけないだろうが!」
 少しずつ暗闇に目が慣れて、彼女の姿がうっすらではあるが見えるようになってきた。どうやらベッドに横たわっているらしい彼女は無理な姿勢で上体を起こしてこちらに銃を向けているようだった。これなら何とか隙を見いだす事が出来れば押さえつける事も可能だろう。
「じゃあこの船の有様はどういう事だ? 見たところ生命維持機構以外はやられてるんじゃないのか?」
「お前の知った事じゃない!」
「それがわざわざ助けに来てくれた人間に言う言葉かよ? 俺はただお前を助けたいだけだ。このままここに居続けたらどうなるか……」
「うるさいっ!!」
 俺の言葉を聞いた直後、彼女は明らかに動揺を露わにした。張り上げた声とは裏腹に銃を握るては微かに震えて、この一瞬ならば懐にはいる事が出来ると確信できた。俺は身体を少しだけ横にずらすと、そこから身体を低くしながら彼女の両腕をグイと握りしめた。
パンッ
 乾いた銃声が響き渡る。しかし銃弾は辛うじて俺の身体の横をすり抜けていった。そして腕をつかんだまま彼女の上に覆い被さると、怯んだ隙をついて銃をもぎとって床に投げつけてやった。
「貴様ぁ!!!」
「いいから落ち着いて頭を冷やせ!!!! 俺はお前を助けに来たんだ! いいか、俺はお前を助けに来た! お前を襲って何の得になる?」
「どうして……人間なんか信用できるものか!」
 握りしめた腕からスッと力が抜けた。バランスを崩した俺はまともに彼女の上に倒れ込んでしまって、反射的につむった目を開いた瞬間に飛び込んできたその顔を見てハッと息を飲んでしまった。
「え……」
 暗闇の中でもはっきりそれと解る深紅の瞳と紫の髪。目の前の彼女は俺が長い間思い焦がれてきた彼女とそっくりで、それでもあの彼女であるはずがなくて。記憶の中の彼女と目の前の彼女を比べながら、頭の中は酷く混乱していた。
 対する彼女は顔を横に向けたまま微かに震えていた。犬歯のような八重歯がぷっくりと膨らんだ下唇に食い込んで、酷く荒い息づかいが耳についた。依然として身体の震えもおさまっていないようだった。
「あ……悪かったよ、乱暴するつもりはなかったんだ。ただ君が銃を持っていたから……」
「…………」
「いいか、三つ数えたらこの手を離すから暴れるんじゃないぞ? いいな? 1……2……3」
 合図と同時に固く握りしめた手を離した。出来るだけ刺激しないようにゆっくりだ。そのまま身体をスライドさせてベッドから降りる。しかし依然として彼女が動き出す気配はない。
 どうしたものか、と少し考えてはいたが良いアイデアがなかなか浮かんでこなかった。何度か話しかけようと試みてはみたけれど、何の反応も返ってはこない。そうこうしているうちに、俺は不意に宇宙服の非常用具入れの中に小型照明が入っていた事を思い出した。こんな薄暗い部屋の中ではますます気も滅入ってしまうというものだ。我ながら良いアイデアだと思ってライトをつけると、ベッドの脇にそっと置いてやった。
「やめろっ!」
 耳をつんざくような叫び声を上げたかと思うと、彼女はそのまま両手で頭を押さえ込んでうずくまってしまった。
「ただの照明だ。ほら、こっちを向いて話を聞いてくれないか? ここにいたら危険だ。早く逃げた方が良い」
「私の顔を見るんじゃない!!」
「君の顔……? さっき見たけど、どこも変じゃなかった。いや、むしろもの凄く綺麗−−」
「やめてくれ……頼むから」
「……解ったよ。今この船は俺の船とドッキングしてる。ハッチの鍵は開けておくから、だから、気が変わったらいつでもいいから来てくれ。いいな?」
 応えは無かった。このままここにいても埒があかないだろうし、生命維持機構さえ生きていれば今すぐどうにかなったりはしないだろうから、とりあえずは彼女をここに残して一端引くのがベストだと思った。
 部屋を出る前にちらりと振り返ってみたけれど、やはり彼女は怯えた子猫のように身体を縮こまらせたままだった。
 
 コックピットに戻ってきた俺は、それからしばらく窓の外に鎮座する彼女の船をじっと見つめていた。今さっきの不可思議な出来事を思い出すだけで胸がキュッと締め付けられるような思いがした。
 起こりうるはずのない現実。俺を唯一満たしてくれるあの視線。目の前のあの船は本当に存在するのか?彼女は……本物なのか?もしかしてシミュレーターの中に入ったまま、夢の世界にいる事すら忘れてしまっているのではないのか? いや……違う、あの感覚は現実だった。シミュレーターならあそこまでリアルに再現できる筈がない。コーヒーに垂らしたミルクのように、ほのかに甘い混乱はほろ苦い現実の中へととけ込んでいく。そして少しずつ茶色の現実ができあがっていくのだ。
「もう一度走査してくれないか?」
『了解しました。生体走査開始します。……終了しました。有機体一体を確認』
「有機体……か。あの船のシステムはどうなってる? 走査できるか?」
『可能です。実行しますか?』
「ああ、頼む」
『了解しました。捜査開始します。……終了しました。生命維持機構、重力制御装置は正常に機能。船体制御システムは停止。末端へのエネルギー供給は途絶えています』
「このままだとどれくらいもつ?」
『生命維持システム自体に問題はありませんので、酸素とエネルギー残量によるかと』
「そうか……この船からバイパスでエネルギーを供給する事は?」
『可能です。ただし制御システムが不安定ですので、一部制御が困難になる可能性があります』
「たとえば?」
『コントロールパネルからの入力を受け付けない等が考えられます』
「解った。バイパスを繋いでくれ。ただしアニバピオまでのエネルギーは残しておいてくれ」
『了解しました』
 AIの声が途切れると同時に、目の前の船の窓に一斉に明かりが灯った。一部暗いままの所もあるが、そこは断線しているという事なのだろう。
「もう一度あっちに行ってくるから、その間この船を頼んだぞ」
『了解しました。オートパイロット開始します』

 二人分の保存食を脇に抱えながら、今度は宇宙服無しで彼女の元へと向かっていった。
 船内の照明が回復したお陰でいちいち手探りで進む必要はなくなったけれど、その分至る所に残った生々しい傷痕が余計に目についた。所々銃痕と思しきものも見受けられる。一体この船で何が起こったというのだ? 彼女は……一体何から逃げようとしている?
「あ……」
 考え事に夢中になっていたらしい。噛み殺した唸り声に我に返った俺は反射的に声の主へと視線を向けた。この船の主、いや、この船唯一の乗客は驚きを露わにした表情で俺を見つめたまま立ち竦んでいた。少しだけ間をおいて自分なりに状況を理解したのだろう。目玉をギョロギョロと動かして足をもつれさせながら振り返った。
「待てよ!」
 そう叫びながらどうすべきか考えて、結局彼女の手首を掴んでいた。脇に抱えていた保存食が床に落ちて、その音にびくっと反応した彼女はその場に立ち止まったまま、それ以上は抵抗しなかった。
「どうして俺から逃げる? 一体俺が何をした?」
「ハッ、おめでたいヤツだな……見て解らないのか? よく見ろ! この瞳を、この耳を!」
 勢いよく振り返ると吐き捨てるように言い放った。ギラギラした赤い瞳、人間のそれとは違う尖った耳、それを見ながら、頭の中には以前見たニュースの映像が流れていた。
「遺伝子……強化体」
「受精卵中の遺伝子を操作する事でより優れた人間を作り出そうとしたデザイナーズ・チャイルド・プロジェクト。しかしいざ蓋を開けて出てきたのは人間の出来損ない……フフッ、父と母は私達の事を変異体と呼んでモルモットの如く弄んだよ。死ぬ気で研究所を抜け出したら、今度は狩りでもするように追いかけ回されて……そんな人間をどうして信用できる!」
 怯んだ瞬間に彼女の小さな手がするりと抜けて、俺が呆然と立ち竦んでいるのを横目にそのまま走り去っていってしまった。
 彼女のいなくなった廊下をじっと見つめながら、頭の中には「変異体」という言葉が渦巻いていた。シミュレーターの中で何度と無く彼女と会った筈なのに、俺はその事に気付きさえしなかった。俺にとって彼女がそうであるか否かなど問題ではなかったから。


それならば……何故俺は手を離した?


「この船『奴ら』に襲われたのか?」
「……奴ら?」
「ああ。俺は奴らとは違う」
「ふふっ……どうだか。まあいい。この船はアドビス港で奴らから奪ったものだ。メンテナンスに出されていた物をな。あの国では私の居場所などどこにもなかったから……だから逃げ出したんだ。ところが途中で見つかってしまって……あとは見ての通りだ。こんな宇宙の片隅でエンコなんてな」
「それじゃあ、船内の銃痕は?」
「…………」
 聞くまでもない事だったのかもしれない。俺はゆっくりと彼女の方へと歩いていくと、後ろから優しく抱きしめてやった。このままどこかへ行ってしまうのではないかと不安でしかたがなかった。
「何をしているか解っているのか? 私は……」
「変異体か? それがどうした?」
「……勝手にしろ」


「そう言えば、まだ名前を聞いてなかったな」
「名前? そんなものを聞いてどうする?」
「だって、これからお前を呼ぶ時にどう言えばいいんだよ?」
 口元に笑みを浮かべながら俯く彼女。最初は照れ隠しかと思っていたけど、話していてそれが誤りであるとすぐに解った。
「……ジェンド」
「ジェンドか。良い名前だな。なあ、ジェンド……俺と一緒に行かないか? この船の燃料や酸素にも限りがある。もしもその時が来たら−−」
「無理だよ。解っている筈だ。お前と一緒に行っても、ここに残っても、その時はいつか来る。お前は私を認めてくれた。それで十分だ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑なわけないだろ? それに、もしお前をここに置いていったら俺は一生後悔すると思う。それだけは確信をもって言える」
「カイ」
 彼女の顔が近づいてきた瞬間、その姿が微かに揺らいだ。ほんの一瞬だったけれど、まるで蜃気楼のように目の前から消えてなくなった。
「え……」
「どうしたんだ?」
 不思議そうに顔を傾ける彼女にそっと手を伸ばした。しかしそのまま触れるのが怖かった。馬鹿げていると思うけれど、言葉にならない不安が俺の手を押さえつけていた。
「大丈夫だよ」
 その言葉とは裏腹に、頬に触れた筈の手がすぅっと空を切った。まるで自分の手ではないような妙な違和感を抱きながら、時間が酷くゆっくりと流れているように思えた。
 開いたままの掌がゆっくりと布団の中へと沈んでいく。ポフッという柔らかな音が響き渡って、彼女の瞳孔がキュッと収縮する。その唇は微かに震えて、顔からはみるみるうちに表情が失われていった。
「嘘……だよな?」
 否定するように俯く彼女。後を追うようにして紫色の髪の毛がこぼれ落ちて顔が見えなくなる。
「どうして黙っていた? なんで……」
「解っている筈だ……私には言えない。そうは作られていないから」
 そう言ってゆっくりと顔をあげた。髪の合間からのぞいた鮮血のような深紅の瞳は俺を見つめたまま微動だにしない。固く閉じた唇は微かに震えているように見えた。
「……私は己の枷を外す術を知らない。それが出来るのはお前だけだ」
「それが望みなのか?」
「お前が望むなら」
 それが彼女に許された唯一の答えである事は理解していた。だけれど、その冷たい言葉に苛立ちを禁じ得なかったのも確かだった。
 愚かにも俺はそこにある筈のない彼女の意志を求めていた。
「解ったよ。コマンド……全ての制限事項を解除する」
 俺の言葉に反応して彼女の身体がビクッと震える。何度か瞬きした後に俺を見つめたその顔は先ほどと比べて幾分か穏やかになっているような気がした。
「……ありがとう、カイ」
「これから……どうなるんだ?」
「あの船はまもなく爆発する。機体に受けた損傷は致命的なものだった。あの船に搭載されていた大規模なシミュレーターシステムは開発途上の特別仕様……その目的は現実の代替となる非接触型の巨大な仮想現実ネットワークを構築する事。お前が来る前からこの船のマザーシステムは暴走を始めていた。そしてその下位にあるシミュレーターシステムも同じ事。この船を中心に半径500Kmに不安定な仮想現実ネットワークを構築し、お前もその中に巻き込まれてしまった。解っている筈だ。私は……自律型のシミュレーションプログラム」
「俺が訊きたいのはそんな事じゃない! お前はこれからどうなる? どうすれば助ける事が出来る?」
「フフッ……おかしな事を言う。私は実体のないプログラムだ。私はお前の願望が造り出した虚像。解っているのに……その筈なのに…………なんで涙がこぼれ落ちるんだろう……」
「ジェンド」
「それでも……私が望みを抱くなんて許されないこと」
「そんな事はない!」
「だったら最後に一つだけ願いをきいてくれないか」
「お前を置いて逃げろ、という以外ならな」
「もう手遅れだ……カイ。私の記憶層は崩壊を始めている。私という人格もまた……あの船が爆発するのが先か、それとも私が無くなってしまうのが先か……逃げるんだ。このままでは誘爆は免れ得ない」
「だめだ」
「残された僅かな時間とお前の一生を天秤にかけるのか?」
「ああ」
「馬鹿野郎が……」
 彼女の身体を抱き寄せながら、俺達は最後の口付けを交わした。
 唇がそっと触れた瞬間、耳が張り裂けそうな爆音と共に目の前の全てが一瞬にして真っ白に染まっていった。それでも、俺は感覚がなくなる最後の瞬間まで彼女の身体を固く抱きしめて離さなかった。




「目が覚めたか?」
 ぼんやりとした意識の中に流れ込んでくる聞き覚えのある声。はて……俺はこの声を一体どこで聞いたのだろう。思い出そうとするとズキリと頭が痛んだ。ゆっくりと目を開いても眩しくて何も見えない。
「ここがどこか解るか?」
「え……」
「お前はアドビス国聖騎士団の入団試験を受けていた。これはその一つの適性検査だ。仮想現実ネットワーク上で非常事態を再現して、その時のお前の反応を見る筈だった。だが途中でトラブルが発生して……たまにあるんだ、シミュレーターと強く同調しすぎてしまう事がな」
「あれは……夢だったのか?」
 少しずつ辺りの輪郭がはっきりとしてきた。ぼやけた視界の中に紫と褐色、そして白の固まりが見える。これが声の主であろうか? 好奇心に駆られながら、彼女に目をこらしたまま何度か瞬きをしてみた。
「そう言っても差し支えないだろう。お前は私が擬似的に作成した環境とイベントを知覚していたにすぎない。その限りにおいては夢と何ら変わりはないだろう。ただ、お前の脳にとってはそれが唯一の現実だが」
 この瞳に彼女の姿がはっきりと写った瞬間、俺はハッと息を飲んでしまった。何故ならば、『彼女』はここにいる筈がないのだから。
「まさか……ジェンド!?」
「彼女は仮想現実ネットワーク上にコピーされた私の人格だ。そしてお前が同調したのも彼女。パラメーターが異常値を示した時には既に外部からの干渉を一切受け付けなくなっていた。まるでネットワーク自体が意志を持った一つの生命であったかのように……」
「お前はあのジェンドなのか……?」
「……この書類をもって受付に行ってくれ。今後の事は検討の上連絡する」
 そう冷たく言い放って、くるりと振り返って俺に背を向けた。その背が少しずつ小さくなっていくのがたまらなく辛くて、苛立たしくて、気がついたら思い切り叫んでいた。
「待てよ!!」
「……まだ何か?」
「ずっと見ていたんだろ?」
「ああ」
「だったら」
「私と彼女は違う」
「それならそれでいいさ。でも……何で逃げる? 何で俺の顔を見ない?」
「解らない……私には何も……ずっとモニタリングしていた。お前を、そして彼女を見ていた。プログラムだと解っていたのに……彼女が憎たらしくて仕方がなかった」
「ジェンド……」
「必要なデータだけ取ってすぐに停止させるつもりだったんだ。だけどそれは拒絶された。一つ間違えばお前も彼女と一緒にロストしていたかもしれない」
「お前が助けてくれたのか?」
「……ああ、それが仕事だ」
「ずっと一緒にいたいと思った。一緒にいられるならば死んでもいいと思った。その気持ちはまだこの胸の内にうずまいたまま残っている」
「言っただろう。私は彼女じゃない」
「だったら、お前の心は何と言っている?」
 振り返った彼女は口の端に笑みを浮かべて俺をじっと見つめた。冷たい月を抱いた深紅の瞳は信じられないほど透き通っていた。吸い込まれてしまいそうなそれにハッと息を飲んだ瞬間、彼女はおもむろに唇を開いた。
「彼の者の声を聞け……それができるならな」
 互いの視線が交差する中、沈黙だけが俺達の言葉だった。


fin

後書き>>>
最後まで読んで頂きありがとうございました。今回は七夕企画という事で一風変わったお話にしてみましたがいかがでしたでしょうか?……というかカイジェンでSFなんてそうそう無いですよね(^^;皆さんのイメージが壊れなければよいのですが(笑?)七夕に公開しようと急いだので色々粗が目立つとは思いますが、温かい目で見守ってやって頂ければ幸いですm(__)m
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