DAY24 Kai
この部屋だけが唯一俺たちの世界だった。 先の一件を受けて郊外の屋敷が接収され、その一室がジェンドの静養にと与えられていた。 真っ白な壁紙に覆われた質素な部屋。大きさは俺達の部屋の半分くらいか。部屋の中央には寄り添うように二つのベッドが置かれて、その片方には彼女が眠っていた。この上なく安らかな顔をしながら、そう、彼女は深い眠りについている。あの日以来ずっと。 ベッドのすぐ横に椅子を置いて、彼女の寝顔を呆然と見つめながら、そこに一日中座っている。隣にあったもう一つのベッドを使う気にはならなかった。彼女が目を覚ました時に寂しい思いをさせたくないというのもある。だけれど、本当の理由は別の所にあった。目を離したらどこか遠くに行ってしまうのではないか、そう思うとたまらなく怖くて。一時たりとも彼女の側を離れたくはなかったのだ。 一日中彼女の側に付き添って、夜は椅子に腰掛けたまま浅い眠りにつく。僅かばかりの休止を挟んで、延々と繰り返されていく二人ぼっちの寂しい時間。耳が痛くなるほど静かで、そして虚しい時間。 毎日決まった時間になると、延命の術を施こす為に魔法医がやってくる。白い法衣を身に纏った大人しそうな女性だ。部屋に入ってきた彼女は、口元に穏やかな笑みを浮かべながら、決まって俺にお辞儀をする。それからゆっくりと彼女の側へと歩いていくのだ。 「それでは始めますね」 子供のような高い声で言って、それがいつの間にか合図になっていた。それまでは色々と話をしていた気もするけれどーーもっとも、それは彼女が一方的に振ってきた話題であったけれどーーよくは覚えていない。きっと、俺が淡泊な返答しかしないから諦めたのだろう。ともかく、その唇から紡ぎ出される言の葉がジェンドの命を繋ぎ止めているのだ。もし一日でも彼女が来なかったら、何も食べることの出来ないジェンドはあっという間に弱ってしまうだろう。それは、悲しみと恐怖の織りなす鎖となって俺を縛り付ける。そこから逃れる事などかなわない。彼女の掌から放たれる蒼白い光を見つめながら、毎日そのような事を考えていた。
「ジェンド……いつまで眠っているんだ? もう14回も陽が昇っていったよ。14回も……ずっと数えてたんだ。お前いつも言ってたよな。早く目を覚ませ、いつまで寝てるんだって。お前の方こそ……」 最後まで言うことが出来なかった。目頭がカッと熱くなって、体中に震えが走って、それ以上続けたら涙を堪えきれないと思った。俺が涙を流せば、悲しい顔を見せれば、きっとジェンドを苦しめてしまうから。例え今の彼女に意識がなかったとしても。 何かをしなければならないと思った。気を紛らわせることの出来る何か。その答えを求めるように、彼女の手をそっと握りしめる。 ひんやりとした感触が掌を伝った。布団の外に出していたせいだろうか、そんな事を考えながら、すっかり冷たくなった彼女の手を優しく撫でてやる。ゆっくりと、慈しむように。それに応えるように、彼女の指がピクッと震えた。 「え……」 慌てて彼女の顔に視線を向ける。何も変わりはない。先ほどと同じように、安らかな顔をして眠っているだけだ。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。頭の中ではあっさりと結論を出しながらも、心の中ではがっくりと項垂れていた。そしてため息を吐いた瞬間だった。彼女の睫毛が微かに震えて、その瞳がゆっくりと開いたのだ。 「ジェンド?」 その顔はどことなく怯えているようにすら見えた。口をポカンと開けたまま目をキョロキョロさせる彼女。まるで捨てられた子犬のように、そんな風に思わずにはいられなかった。 「ここは……」 「良かった……目が覚めたんだな」 ようやく俺の存在に気づいたらしかった。大きな瞳をこちらに向けながら、次に彼女が言った科白に、俺は愕然としてしまった。
「お前は……誰だ?」
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最終章 貴方と踊るワルツ
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彼女が命と引き替えに失ったもの、それは共に過ごしてきた日々の記憶。命の代償としては安かったのかもしれない。それでも、大切な人の内にある自分の存在が消えてしまうというのは、まるで自分を否定されたかのように寂しい事だった。 決して求めたりしないという事、それが何よりも重要であるように思えた。今の俺にとって大切なのはジェンドだけなのだから。自分のことなどどうだっていい。たとえ彼女が俺のことを思い出さなかったとしても、彼女が幸せになれさえすればそれでよかった。その隣にいるのが俺でなくともいい。彼女のために何かできたなら、それで彼女を支えることが出来たなら、それで良かったのだ。それが彼女を愛することだと、ようやく気づいたのだから。彼女が俺にそうしてくれたように。
「ジェンド、入ってもいいかな?」 「ああ……構わない」 「ありがとう」 「ええと……」 「カイだよ。ふふっ、別に怪しい者じゃないから。心配しないで」 「……ごめん。まだ思い出せないんだ」 「謝らないで。全然気にしてないからさ」 「ずっと付き添ってくれてたって……先生に聞いた。一緒に旅をしていた仲間だとも」 「結局何も出来なかったけどさ」 「そんな事無い……本当にありがとう。感謝してる」 「ああ。それより、具合はどうだ?」 「先生は安静にしてろって言ってたけど、体の具合は大分いいよ。気分も悪くない。ただ……」 「ただ?」 「何も思い出せないんだ……この部屋で目を覚ます前の記憶が全部」 「ジェンド……」 「医者は何か言ってたか?」 その問いかけにどう答えてよいか解らなかった。俺はその答えを知っている。だけれど、どう伝えればよいかを知らない。そうする事が正しいのかも。この沈黙が何を意味するかくらい解っていたのに。 「お前が私に近しい人だと聞いていたから……だから、何か聞いているんじゃないかと思って」 「そう……か」 「私は知りたいんだ。一体何が起こったのか……これからどうなるのか」 「そうだよな……不安だよな」 「…………」 「医者は何て?」 「何も。私が何を訊いても口を濁すだけで……」 「…………」 「もしも何か知っているなら……教えて欲しい。それがどんな事でも……受け入れる覚悟は出来ているつもりなんだ。私は……」 「俺の目を見て」 「ああ」 「落ち着いて聞いて欲しいんだ。俺が何を言っても、慌てて判断しようとしないで。何も決めつけようとしないで。いい?」 「解ってる」 「ジェンドの記憶が戻るかどうか……それは誰にも解らない。明日戻るかもしれないし、それは何年も先になるかもしれない。いつ戻るかの確約は出来ないんだ。でも、裏返してみれば絶対に戻らないとも言えないって事。そうだろ?」 「…………」 彼女は何も応えなかった。ただ唇を堅く噛みしめ、布団をじっと睨み付けているだけだった。 不意にその肩がぴくっと震える。それはあっという間に全身に広がって、噛みしめた唇は真っ青に染まっていた。 「ジェンド……」 紅の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。一粒、二粒……止めどなく流れ落ちていくそれは、頬に生々しい涙の跡を残していく。それでも、彼女は泣くまいと必死になっていたのだ。鋭く尖った八重歯を下唇に押しつけて、何とか声を漏らすまいと躍起になっていた。 抑えきれなかった声が喉の奥から聞こえてくる。酷くくぐもった唸るような声。それが酷く痛々しくて、気が付いたら彼女の躰を抱きしめていた。きつく抱きしめていた。今の俺にそうする資格があるかは解らない。だけれど、そうせずにはいられなかった。 「よしよし……一人で悩んでて辛かったよな。不安だったよな。もう我慢しなくていいから。思い切り泣いていいからな」 「自分が誰かも解らなくて……怖くてしかたないくて……誰にも言えなくて…………」 「ああ……怖かったな」 「お前のこと何も知らないのに……ごめん……こんな…………こんな事して…………」 「いいんだよ、ジェンド。俺がお前のことを知ってるから。それだけで十分だから」
あの一件以来、しきりにジェンドの部屋を訪れるようになった。それまでは意識して行かないようにしていたから。彼女が俺の事を覚えていないというのに、今までのように部屋に泊まったり、足繁く通ったりするわけにはいかないと、そう思ったのだ。それに、彼女自身一人で考える時間が必要だとも思ったから。 彼女は俺に対してすぐに心を開いてくれた。もちろん、今までのような関係とまではいかないけれど。俺の事をよく信用してくれて、何でも話してくれたように思う。今どういう気持ちなのかとか、これからどうしたいのかとか。良い事だけでなく悪い事も。それがとても嬉しかった。 それから一週間が経ち、医者から安静を解除しても良いという許可が下りた。医者曰く、記憶はいつ戻るか解らないが、身体の方は全く問題がないらしい。それを聞いて安心した俺は、急いでジェンドの部屋へと向かっていった。
「ジェンド、入るよ」 二度ほどノックしてからドアを開けた。 しかし、中には誰もいなかった。念の為に部屋中をぐるりと見回してみる。やはり誰もいない。一体どこに行ったのだろう? そう思った瞬間、廊下の方からガラスの割れるような音が聞こえてきた。 反射的に部屋から飛び出す俺。胸が酷くざわついていた。ジェンドに何かあったのではないかと、不安でたまらなかったのだ。 遠くから聞こえてくるざわめきを頼りに、先ほどの音が聞こえてきたであろう場所へと向かっていく。 その場所へとたどり着いた時、目の前には既に人だかりが出来上がっていた。人の波が邪魔をして前を見る事が出来ない。奥歯をギリッと噛みしめると、迷うことなくその中へと飛び込んでいった。 人混みをすり抜けていったその先にジェンドはいた。右の拳を真っ赤に染めて、彼女の周りには鏡の破片が飛び散っていた。 「ジェンド!!!」 びくっと身体を震わせる彼女。ぎこちなくこちらに顔を向けて、俺の姿を見つけた瞬間、紅の瞳をカッと見開いた。 「私は……私は一体何だ……?」 はじめは何を言っているのか解らなかった。しかし、彼女が震える両手をあげて、そして耳を覆い隠した時に、全てを悟ってしまったのだ。俺の中では当たり前になっていて、意識すらしていなかった事。即ち、自分がダークエルフであるという事を、少なくとも周囲の人間とは明らかに異質である事を、彼女は気づいてしまったのだ。 「落ち着いて、ジェンド。何も心配する事はないから」 「私を見るんじゃない!!」 彼女の足下に散らばった破片がキラリと光る。下手に刺激すべきではない事くらい解っているつもりだ。しかし、もし彼女が思いきった行動に出たらと思うと、このまま放っておく事は出来なかった。 「皆、下がってるんだ! ジェンド、今からゆっくりとそっちに行くからな。何もしないから、絶対に傷つけたりしないから、だから何も心配しなくていい」 「やめろ! こっちに来るな!!」 「大丈夫。何も心配しなくていいから」 そろりそろりと足を進めていく。彼女は依然立ちつくしたまま、焦ったように目玉をギョロギョロと動かしていた。 「よし、半分まできたぞ。あと少しだ。ジェンド、大丈夫だからな。何もしないから」 なだめるように言いながら距離を狭めていく。ひしひしと伝わってくる恐怖や混乱がより鮮やかさを増していく。 目を逸らしたくてたまらなかった。これ以上見ていられなかった。だけれど、それはただ単に目の前の事実から目を背けるだけではない、ジェンドという存在からも目を背ける事になるのだ。そんな事をしてしまえば、俺は二度と彼女に顔向けできないだろう。そして自分に対しても、二度とその過ちを許す事など出来ないだろう。だから、彼女を見つめる目を決して閉じはしなかった。 「やめろっ!!」 俺を払いのけようと勢いよく手をあげる彼女。その指先が目の前を横切った直後、頬に鋭い痛みが走る。少し遅れて流れ落ちる生ぬるい液体。それを見た瞬間、彼女の顔色が一気に変わっていった。 「あ……ああ……私……そんな…………ごめ……私……そんなつもりじゃ……」 激しく頭を振りながら、明らかな動揺の色を見せるジェンド。それは先ほどの混乱の比にならないほど酷いものだった。すかさず両手をとってぐいと引き寄せる俺。彼女の顔が目と鼻の先まで飛び込んでくる。 「ただのかすり傷だ! 大丈夫だから! だから落ち着くんだ!」 しかし彼女に落ち着く気配は微塵もない。ぶんぶんと腕を振り回して、必死に俺から離れようとしているようだった。そして絹を切り裂いたような悲鳴をあげたかと思うと、小さな体をびくんと震わせ、そのまま俺の方へと倒れ込んできた。 「ジェンド! くそっ……おいっ、誰か医者を呼んでくれ!! 早く!!! 医者を呼ぶんだ!!!」 彼女の身体をぎゅっと抱きしめながら、無我夢中でその背中をさすっていた。のしかかってきた彼女の身体はあまりに軽くて、そして小さかった。
どうやって彼女の部屋までやってきたかは解らない。ただ、気が付いたら医者が彼女を診ていて、俺は呆然と壁際に立ちつくしていた。 医者が言うには「過度の精神的な負荷に耐えきれなかった」そうだ。要するにショックが大きすぎたという事だろう。無理もない、前にも同じ事があったのだから。十六夜を斬ってしまった時も、取り乱して俺を叩いた時だってそうだ。大切な者を傷つけてしまった時に過剰な反応をする。 「大切な者……か」 そう呟いて、彼女の顔に視線を移した。うなされているのか、眉間にしわを寄せて、険しい顔をしている。彼女の為に一体何が出来るだろう。何をすべきなのだろう。いくら問いかけてみても、答えは見つからなくて。結局は傍にいる事が一番なのだと思う。彼女がそれを望む限り。 慈しむように髪の毛を撫でてやった。それに応えるように、薄闇の中で紅の瞳がそっと開く。 「目、覚めたか?」 にっこりと微笑みながら問いかけてみた。 彼女は一瞬のうちに目を細めて、布団から出した手を、ゆっくりとこちらに伸ばしてきた。それから恐る恐るといった風に頬に触れて、一言だけ「ごめん」と呟いた。 「かすり傷だって言っただろ? 全然平気だって」 真っ白な八重歯が下唇に食い込んでいくのが見えた。今にも泣き出しそうな顔をした彼女はパタンと手を落として、そのまま顔を横に向けてしまった。 衣ずれの音が闇に響き渡る。その後に訪れる沈黙。彼女の髪の毛をそっと撫でて、それからゆっくりと口を開いた。 「黙っててごめんな。隠すつもりはなかったんだけど、俺にとっては当たり前の事で、すっかり忘れてしまっていたんだ。でも、何も知らされずに鏡を見たら……そりゃびっくりするよな。もうちょっと気を遣っていたらよかったんだけど……本当にごめん」 「そんな事無い。こんな私のために一生懸命になってくれて、親身に面倒を見てくれて。それなのに私は……」 「全部話すよ。ジェンドの事、俺達の事、何が起こったのかも」 「……うん」 |
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to be continued...
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