薄暗い廊下に二人分の足音が木霊している。 対照的な二人をよく現した二つの音。一つはかかとを叩きつけるような低い音で、もう一つは、つま先が床を弾いた高く澄んだ音。普段ならば不協和音を奏でるそれも、今日はゆっくりと同じリズムを刻んでいる。 部屋の支度が出来るまで城の中を歩いて回ろう、そう言い出したのは俺だった。しかし、ここに見て楽しい所などあるわけがなかった。ここにあるものと言えば、一様に変わり映えのしない廊下とドアの連なりくらいなのだから。よく知っていた筈なのに、どうしてそのような事を思いついたのだろう。一歩一歩足を進めるごとに「カイについて行けばよかった」という後悔の念が沸き起こってくる。ただ植物が生い茂っているだけとはいえ、ここに比べれば、中庭の方がいくらかマシだったに違いない。 「ねえ、何か聞こえなかった?」 俺の背中を突っつきながら、不意にイリアが口を開いた。 「んん? そっか?」 そう応えながら足を止める。お約束と言わんばかりにぶつかってくるイリアの身体。ドスンと鈍い音が響いて、蛙を握り潰したような間抜けな声が後に続いた。 「うぅ……痛い……」 「って、何で俺の背中にくっついて歩いてんだよ?」 「だ……だって……」 「もしかして怖いんじゃないだろうな?」 「そ……そんな事ないもんっ!」 「まあ古い城だからな。いつどこから幽霊が出てきてもおかしくねぇよな」 「や……やめようよ?」 「もしかしたらあそこの角から……」 そこに誰かの気配を感じて、咄嗟にイリアの口を押さえつける。 「シッ……やっぱり誰かいるみたいだ」 当然応えはない。その代わりに、掌で押さえつけた唇は、何かを訴えようとばかりにモゴモゴと動いている。今にも噛みついてきそうな程に。 「手離すけど騒ぐんじゃねぇぞ?」 一応念を押してからゆっくりと手を離した。 真っ赤な顔をして俺を睨み付けるイリア。どうやら、息が出来なかったというわけでもないようだ。唇だけを激しく動かしながら、せめてもの抵抗にか、俺の身体をポカポカと叩いている。俺が言った通り声を出していないのは感心だが……なになに、し・お・ん・の・ば・か、だと? 普段ならたしなめてやる所だが、その様子があまりに滑稽で、噴き出すのを堪えるのがやっとだった。 「シッ」 パクパクと動いている口に人差し指をあてる。彼女は未だ不満そうではあったけれど、取りあえず抵抗する気は失せたらしい。しかめっ面をしながら、今度は頬をぷぅっと膨らませている。おまけで頭をくしゃくしゃに撫でて、それからやっとの事で奥の部屋へと歩き出した。音を立てないように気をつけながら。 どうやら、ドアの向こうにいるのは男と女の二人らしかった。話の内容までは解らないが、言い争っているのか、その語気はかなり荒いものだった。 吸い寄せられるようにドアに耳をつける俺。 盗み聞きをするなんて最低だ。そんな事は解っている。だけれど、そうせずにはいられなかったのだ。妙な胸騒ぎとでも言おうか、一枚の扉を隔てた先にある「何か」が猛烈に気になっていた。イリアは服の裾を引っ張って制止していたけれど、それを受け入れるつもりなどありはしなかった。 「どうしても引くおつもりはないという事ですね?」 「そちらにもそのつもりは無いのでしょう?」 「ええ」 「では交渉決裂ですね」 「そうですね」 「私は忠告しましたよ」 「忠告? 面白い事を仰るのですね」 「そうは聞こえませんでしたかな? まあいいでしょう。どの道これ以上あなたとお話しする事はありません」 ドア越しに足音が近づいてくるのが解った。どこか隠れる所はあったか? そう思いながら、辺りを見回してみる。しかし、それらしい所はどこにもない。どうやら偶然を装うのが得策らしい。 そう決め込んだ直後にドアが開いた。そこに現れたのは初老の男だった。いかにも怒った風に肩を揺さぶっている。この顔……どこかで見た覚えがあるな。そうだ、俺はこの男を知っている。名前は何だったか? ルーファス……そう、ルーファスだ。いつも嫌みな笑みを浮かべながら俺を見つめていた。そうだ、俺はこの男の事をよく覚えている。 俺の顔をチラッと見つめた彼は、さも不機嫌そうに喉を鳴らしてみせた。それから何事もなかったかのように、俺達が来た方向へと立ち去っていく。その後を追うようにもう一人も姿を現した。 「お兄様……」 驚きを隠せない様子で立ち止まるミト。バツが悪そうに「すみません」と吐き捨てると、すぐに俺達の横をすり抜けていった。時間にしてみればほんの僅かな間だ。しかし、充血した瞳に浮かんだ涙を決して見過ごしはしなかった。 心が酷く掻き乱されていた。その瞬間、良心の奥底に眠っていた「俺」自身は、ある傷みを伴いながら目を覚ましたのだ。長い間忘れていたその傷みは、もしかして俺が俺である事の証だったのかもしれない。たとえどれだけそれを否定し、そこから逃れようとしても。 「……悪い、先に戻ってる」 応えを待たずに振り返っていた。奥歯をガリッと噛みしめて、それから勢いよく走り出した。 一刻も早く、ここから立ち去りたかった。彼女の目の届かない所へと行きたかった。この身を蝕む不安を悟られたくはなかったのだ。 「あっ、シオン!!」 驚きと戸惑いの混じり合った乾いた声が響き渡る。しかし、それに応える余裕などどこにもありはしない。俺はその視線から逃れようと、ただひたすら走り続けていた。
乱暴にドアを開けて、部屋の中へと滑り込んでいく。ぜいぜい言いながらドアにもたれかかっていた。それから思い出したように後ろに手を回して、手探りでノブを握りしめる。 酷く混乱していた。いや、混乱と言うよりむしろ混沌と言った方が正しいのかもしれない。頭の中を飛び交っていたのは、必死になって忘れようとしてきた夥しいアドビスの記憶。それは一気に頭の中へと降り積もっていって、俺自身をも飲み込んでしまうのではないかとさえ思えた。 怖かったんだ。自分を手放してしまうその瞬間が。魔力を暴走させてしまったあの時のように、そんな姿をイリアに見せたくはなかった。 「あ……うぐ…………」 酷い圧迫感が体中に襲いかかってくる。 喉が締め付けられるような感覚に、呼吸すらまともに出来なくなってしまう。 視界がどんどん狭まっていく中、反射的に仰け反った背中が勢いよくドアにぶつかった。肺に溜まっていた大量の空気が、喉元まで一気に込み上げてくる。それを何とか吐き出そうとするのだけれど、何故かうまく出来なくて。焦れば焦るほどどうしていいか解らなくなって。目の前の景色がぐらりと揺れたかと思うと、俺の身体は為す術もなく床に倒れ込んでいた。 床に爪を立てながら何とか息を落ち着けようとする。しかし、息を吐き出そうとすればするほど、大量の空気は容赦なく喉の奥へと飛び込んでくる。瞳の奥には白い光の粒がちらついて、いくらまばたきをしても消えようとはしない。 震えが止まらなかった。どうしていいか解らなかった。何も考えられなかった。酷い混乱の中で、恐怖を感じる余裕すら無かったはずだ。それなのに、突然飛び込んできたその声は、一瞬のうちに俺を我に返らせていた。 「シオン! ねえ、どうしたの!? シオン!!」 大丈夫だ、その一言を口に出来たならどれだけ良かっただろう。しかし、俺に出来た事といえば、せいぜい床の上でのたうち回るくらいで。 「ごめん、入るからね!!」 次に聞こえてきたのは勢いよくドアを開ける音。それを呆然と聞きながら、ただ「しまった」という言葉だけが頭の中でぐるぐると回っていた。 「な……シオン!!! シオンッ!!!!!」 視界の中に、いびつに歪んだイリアの顔が現れては消えていく。その度に首の辺りがこすれて鋭く痛んだ。 「私誰か呼んでくるから! すぐに戻ってくるからね!!」 背を向けた彼女の服を反射的に掴んでいた。びっくりしたような顔を向ける彼女。その姿を辛うじて視界におさめながら、ブルブルと首を横に振っていた。その瞬間、ここにいた頃に何度もそうしてきた筈の「ある事」が頭を過ぎったのだ。 「大丈夫って……そんなわけないでしょ!?」 握りしめた彼女の服を離さぬまま、もう片方の手で背中のマントをギュッと掴んだ。それを喉の奥まで押し込んでいく。さっきよりも息が苦しくなって、何かに縋り付きたくて、俺はただひたすら彼女の腕をギュッと握りしめていた。 イリアは腕と俺を交互に見返してから、意を決したように俺の手を握りしめてくれた。
「ここにいた頃にはよくなっていたんだ。ストレスが溜まってたり、精神的に追いつめられてた時にな」 「どうして言ってくれなかったの?」 「アドビスを出た後になった事はなかったし、敢えて言う必要は無いと思ったんだ」 「違うよ。辛いの、何で言ってくれなかったの?」 「わざと言わなかったんじゃない。自分の中で色々な事が一気に沸き起こって……俺自身混乱してたんだと思う。自分でも気付かないうちにさ。大丈夫だと思ってたのに」 「……ごめん」 「どうして謝る?」 「追いつめるつもりじゃなかったの。ただ……」 「解ってるよ。俺を誰だと思ってる?」 「ふふっ、そうだね」 「ああ、でもありがとう」 「うん。私には大したこと出来ないかもしれないけど、いつも側にいるからね。辛い時もそうでない時も。だから甘えてくれていいんだからね?」 「頼りにしてる」 「まかしといて!」 「なあ」 「なに?」 「今夜……ずっと側にいてくれるか?」 「もちろん! シオンが嫌って言ってもそうするつもりだったから」 「ははっ、お前らしいな」
仄暗い部屋の中で、互いの吐息を間近に感じていた。不自然なまでに規則正しい息遣いを聞きながら、こいつもまだ眠れないのか、と心の中で呟いてみる。 グラスの水に落ちた月明かりが天井に反射していた。 蒼白い光の波が揺らいで、それは宵闇に浮かぶ海のようにすら思えた。イリアもこれを見ているだろうか? ふとそのように思ったけれど、彼女の顔をこんなにも間近に見るのは、何となく気恥ずかしくて。その代わりに、伸ばした手をゆっくりと横に動かしていく。彼女の小さな掌をそっと握りしめた。 「綺麗だね」 透き通った声がすぅっと闇に溶け込んでいく。 こんな時でさえ気の利いた科白一つ言えない自分が怨めしかった。カイならどんな風に言っただろう? いくつか思いついたものはあったけれど、とても俺に言えそうなものなどなくて、喉の奥に引っかかった歯の浮くような科白をごくりと飲み込んだ。 「ああ、そうだな」 結局、これが俺の言葉なのだと思う。こいつの前では気取る事なんてない、ただありのままの自分でいればいいのだと。それは決していつまでも変わらなくていいわけではないけれど。 「なあ」 「ん?」 「お前が側にいてくれて良かった」 「私も、シオンが側にいてくれて良かった」 そう言って、彼女は重ねた手をギュッと握り返してくれた。
久しぶりにゆっくり眠る事が出来た、というのはかなり誤魔化した言い方になるだろう。実際の所は「寝過ごしてしまった」と言うのが正しい。開け放たれた窓からはさんさんと陽の光が差し込んできて、太陽は随分と高くまで昇っているようだった。あまりの目映さに腕で目を覆い隠した瞬間、誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。 「ああ」と応えながらゆっくり起きあがる。床に脱ぎ散らかしたローブを羽織って、のそのそとドアの方へと歩いていった。 「おはよう御座います。あ……まだお休み中でしたか?」 目の前に立っているのは、この城の兵士とおぼしき男だった。俺の顔と服を交互に見つめてから、申し訳なさそうにそう付け加えた。 「いや、いいんだ。それで、一体どうしたんだ?」 「女王から伝言を承って参りました」 「ああ」 「はっきりとした時間は申し上げられませんが、昼過ぎの所でお会いになられるそうです。多忙故にご理解頂きたいと」 「それは構わない」 「それから、本日城下にて祭りが催されております。お時間までそちらに行かれても宜しいかと。カイ様には既にお伝えしましたが、イリア様のお姿が見えないようでして……」 「あ……ああ、アイツには俺から伝えておくよ」 「そうですか。それでは宜しくお願いします」 「わざわざすまないな」 「いえ、それでは失礼致します」 ドアを閉めてから、今更ながら心臓が高鳴っている自分に気がついた。全く、変な事をしていたわけでもないのに、俺って奴は……そんな事を考えながらイリアの方へと顔を向ける。 幸せそうな顔をしたアイツは、未だ布団にくるまったまま、唇から可愛い吐息を漏らしていた。やれやれ、今日はどうやって起こしてやるかな。 「イリア、起きろよ。もう朝だぞ?」 当然身体を揺さぶったくらいで起きる筈がない。こいつの寝坊は筋金入りなのだ。仕方なしにふっくらとした頬をつまむと、左右にびよーんと引っ張ってみた。 「おーー伸びるのびる」 言ってる自分が馬鹿に思えるが、これがやってみてなかなか面白い。そんなこんなをしばらく続けていると、不意に彼女の目がパチッと開いた。虚ろな瞳で俺を見つめながら、小さな唇からは間の抜けた声が聞こえてくる。そして二三度目をパチクリさせて、妙に低い声で「いーーたーーいーー」と唸ってみせた。 「ようやく起きたか?」 「起きたか? じゃないよ〜女の子のほっぺつねったりしていけないんだ〜」 「誰かさんがきちんと起きないからだろ?」 「うぅ……今何時くらい?」 「さあな、でも結構遅くまで寝てたみたいだぜ」 「何だよ〜シオンだって寝てたんじゃんか」 「でもお前より早く起きただろ?」 「さっきの人に起こされたくせに」 「何だよ、お前起きてたのか?」 「ううん、一度起きたけどまた寝ちゃったの」 「全く……お前って奴は」 「それで、何だって?」 「ああ、昼過ぎにミトと会えるそうだ。あと、城下町で祭りをしてるらしいぞ」 「わーーお祭り? 行きたいな。ね、行こうよいこうよ!!」 「そうだな。じゃあさっさと準備してこいよ」 「うん、解った!」 そうして鉄砲玉のように部屋から飛び出していく彼女。やはり、こういう時の行動力は並大抵ではないようだ。
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to be continued...
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