DAY5 Sion
深い闇が世界を抱いている。両腕を大きく広げて、彼の者はオッツ・キイムを覆い尽くす。その息は混乱と静寂をもたらし、この世界に小さな宇宙を産み落としていた。 その闇を追い払わんと懸命に燃えさかる薪の炎。橙色の炎が、小気味よい音を立てながら、ゆらゆらと天に昇っては消えていく。どのくらい繰りかえされたろう。誰も口を開こうとはせず、動こうともせず、ただ虚ろな瞳で炎を見つめているだけだ。
「怪我の具合は大丈夫か?」 ゆっくりと顔をあげたカイは、包帯の巻かれた手の甲を撫でて「大丈夫です」とだけ答えた。 その包帯は俺が巻いてやったものだった。はじめはイリアにやらせていたのだが、案の定傷口を締め上げるわミイラみたいにするわで、結局俺がすることになってしまった。 「全く……お前って奴は」なんて呆れた風に言いながら、心の中でホッとしている自分がいたんだ。ドジで間抜けな奴だけど、人の心を和ませる事にかけては天下一品だと思う。本人は意識すらしていないだろうけれど。 「夜も遅いし、そろそろ休むか? 明日は早くに出発するんだしな」 二人の顔を交互に見つめる。イリアは無言で頷いていたけれど、カイの奴は「そうしてください」とだけ短く応えた。見張りは自分がやると言いたいのだろう。そう言うのではないかと思っていたが、それを許すわけにはいかなかった。 「お前もだ、カイ。見張りは俺がする」 どのように返してくるか位見当がついていた。しかし、次に彼の見せた表情<カオ>は全く意外なもので、それに戸惑わずにはいられなかったのだ。 俺の顔をじっと見つめながら、カイは微笑んでいた。口の端を微かに弛めて、とても穏やかな顔をしていた。まるで何もなかったかのように。そしてそれは、夕方の一件以来ずっと抱いていた「ある違和感」の正体でもあったのだ。 そう、俺が知る限り、カイは一度として取り乱しはしなかった。理不尽な誘拐に対して恨み言を口にしたりもしなかったし、まして泣き崩れもしなかった。そうして、今はその顔に笑みすら浮かべている。彼の態度や仕草の一つ一つが、俺にとっては不気味に思えて仕方がなかった。 「俺なら大丈夫です。怪我も大したことはありませんし。王子こそ、魔法を使って体力を消耗されているのでしょう? 明日に備えてゆっくり休んでください」 「昔の俺とは違う。あの程度の魔法を使った位でへばったりはしないさ。それに、身体への負担を減らす術も身につけたしな」 「それでも……」 「いいよ! 私が起きてるから、二人は寝てて? 私おろおろしてるだけで何も出来なかったし、ほら、そんなに疲れてないからさ」 「な〜に言ってんだよ。目に隈なんて作りやがって。ホントは眠くて仕方ないんじゃないのか?」 「そんな事無いもんっ!!」 「嘘つきにはこうしてやる! うりうりうりっ、これでどうだっ!」 「やぁ……もう! くすぐったいって!!」 「だったら大人しく寝るか?」 「やだ」 「ちぇっ、お前そう言うトコ妙に強情だよな」 「だって、何もかも二人に任せてばっかじゃ悪いもん……」 「そんな事ねえって。解った。それじゃあ2〜3時間したら起こすから、そうしたら交代で番をするってのでどうだ?」 「うん、それならいい」 「決まりだ。それじゃあ横になってろ」 そう言って促すと、鞄の中から薄手の毛布を取り出して、それを彼女の身体にかけてやった。それだけでは寒いだろうから、上に俺のマントも重ねてやる。 「風邪、ひくんじゃねえぞ?」と小馬鹿にしたような口調で付け加えて。 普段ならば噛みついて来たに違いない。だけれど、今日のアイツはただ微笑んでいるだけだった。それから「うん」と応えると、もう一度だけにっこり笑って、目を閉じてしまった。 そんな彼女に少しだけ物足りなさを感じてしまう。心のどこかで「食いついてきて欲しい」と思っていたのだろう。まったく、我ながらガキじゃあるまいし。俺は一つだけため息を噛み殺すと、元いた場所へと戻っていった。 少しだけ弛んだ顔を引き締めて、カイの顔をじっと見つめる。彼は炎を見つめたまま、その顔には酷く虚ろな表情を浮かべていた。 「お前も寝ていいぞ。後でイリアに起こさせるから」 「いえ、私が起きていますから。王子はお休みになって下さい」 「カイ」 「どの道目が冴えて眠れませんから」 「それでもだ。目をつむって横になるだけでいい」 「大丈夫ですから」 「……勝手にしろ」 ぷいと視線を背けて、吐き捨てるように言い放っていた。少し冷たい言い方だったか。そんな風な後悔がすぐさま沸き起こってくる。だったら初めから言わなければいいのに。だけれど、無性に苛立って仕方がなかったのだ。人の気遣いをむげにして、必要のない無理をしようとしている彼に。いや、違う。本当は自分に対して苛立っていたんだ。きっと、そうだと思う。この男には幼い頃から世話ばかりかけてきたのに、俺には何一つ恩を返す事も出来ない。それがたまらなく歯がゆかったのだ。 「悪かったよ」 「何がですか?」 「……何となくだ。色々」 「………………」 「………………」 「アイツの名前を呼んだ時、ほんの一瞬だけ我に返ったんです」 「え……」 「悲しみに染まった紅の瞳で俺を見つめながら、こう言ったんだ。ただ一言だけ、殺せ……と」 どう返して良いか解らなかった。彼の顔を見つめている、ただそれだけの事ですら苦痛に思えて、俺はただ口をつぐんでいるしか出来なかったのだ。そしてそれは、己の無力さを噛みしめた瞬間だった。 「結局、俺は自分の事しか考えてなかったのかもしれません。アイツが何を欲していたのか、どうして欲しかったのか、それに耳を傾ける事もせずに」 「それじゃあ、ジェンドはどうして欲しかったんだと思うんだ?」 「さあ……俺にはもう解りません」 「ジェンドもそうだったんじゃないのか?」 「どういう事です?」 「いつ自分が自分でなくなるか解らない、そんな極限状態の中で追いつめられて、混乱して。本当は自分でもどうしたいか、どうすればいいか解らなかった。そうは考えられないか?」 「アイツの瞳から強い意志を感じたんです。あれは決して一時の気の迷いとか、そういうのではありません」 「だったら、何故彼女はお前に殺して欲しいと思ったんだ?」 「俺を傷つけたくないから……前にそう言っていました」 「何故傷つけたくない?」 「何故って……少なくとも彼女にとって俺が大切な人間だったから、そういう理由以外にありますか? 俺だって、もしあいつを傷つけてしまったらと考えたらゾッとする。俺が俺でなくなって、ましてこの刃でなんて……」 「そんな事をしたら、永遠にその罪と苦しみを背負って生きていかなければならない。彼女を傷つける事で、自分をも傷つける事になるのかもしれない」 「………………」 「彼女もそう思っていたのかもしれない。お前を傷つけてしまうくらいならば、それで一生苦しむくらいならば……自分が死んだ方がマシだと。お前とジェンド、そのどちらがそうなってもおかしくなかった。そしてどちらもが心の中では自らの死を願っていた。どうだ?」 「…………」 「お前達の中では、それで完結していたのかもしれない。だが、ここにもう一つの選択肢がある。お前が死ぬのでもない、ジェンドが死ぬのでもない、もう一つの選択肢がな。もしあの時にジェンドを殺していたら、その可能性は永遠に喪われていた」 「ジェンドを助け出して、二人とも生き残る……か」 「あの後お前はそう言ったな? 絶対にジェンドを助け出してみせるって。あれは嘘じゃないだろ?」 「当たり前だ!」 そう叫んでからハッと我に返ったような顔をするカイ。それからイリアの方をチラッと見つめて、押し殺した声で「俺は絶対にこの手でジェンドを助け出してみせる」と続けた。 カイの様子が何か可笑しくて。俺は口元を弛ませながら、薪の中に視線を落とすと、喉の奥でフフッと笑ってみせた。 「……当たり前だ。だから俺たちはここにいる。だろ?」 そしてゆっくりと彼の方に視線を上げる。未だ口元には微笑を残しつつ、睨み付けるように、カイの瞳をじっと見つめた。 「俺たちは一つなんだ。誰かを犠牲にして誰かを助けるなんて、そんな選択肢は存在しない。イールズ・オーヴァの目的が何であれ、それが達成された時に、俺たちを生かしたままでおくと思うか? そうは思えないし、そうなれば俺たちだって黙っちゃいない。仮に勝機がないと解っていたとしても、俺たちは進むだけなんだ。つまり、初めから俺たちに与えられた道は二つ。生きるか、死ぬか。それ以外は存在しない。そして俺たちは絶対に死なない」
DAY8 Sion この国に対してどのような感情を抱いているか。そのように訊かれたなら答えに窮してしまう。ここが俺の故郷であるのは間違いないが、久しぶりに訪れて感慨に耽る事も、まして懐かしく思う事もありはしない。ただ一つ思い出す事といえば、いつもここから逃げ出したいと思っていたという事。この国は俺を閉じこめる巨大な鳥籠で、俺はその中で適切なーーあるいはそれ以上のーー待遇を受ける代わりに、己の役割を演じるよう強いられていた。そういう意味において、ここが忌むべき場所である事に何ら疑いはない。それでも、ここが俺の故郷である事にも違いはないのだ。どれだけ否定をしようとも、どれだけそれを拒んでも。この身を流れる血が、本能が、ここを愛せと囁いてくる。義務的な観念を押し付けてくる。例えそうしたとしても、ここに居場所を見つける事など出来ようはずがないのに。
国というものも、所詮は人間とそう隔たったものではない。産声を上げてこの世に生を受け、理など何一つ解らないまま大きくなって、物心が付いた頃には青春を謳歌し、そして徐々に衰退の一途を辿っていく。改めてこの国を見回してみると、まさに人生の晩秋を思わせるような、そんな切なさや空しさを感じずにはいられなかった。かつては黄金の都と呼ばれた王都でさえ、今や派手なメッキは剥がれ、錆び付いた身体を晒しているだけだ。 そう、王都に足を踏み入れた今、俺はかつての虚栄の市を見つめながら、そのような事を考えていたのだ。 どうしてーー喉元まで出かかった言葉をごくりと飲み込む。今更理由を問うてどうなるわけでもない。そのような非生産的な事に労力を割くべきではない。そんな事を考えながら、過去にしがみついた思考を振り切るよう、足早に歩き始めた。
ふと、道ばたにばらまかれていた新聞に目がとまった。号外らしいそれには『ジラート師失踪、誘拐か!?』と大きな見出しが付いている。 「どうかした?」 「あ……いや、この記事が目についただけだ。またか、って思ってな」 「そういえば最近多いですね」 「ん? ん? 一体何の事?」 「ほら、また魔導士が失踪したんだよ。今度はアドビスのお偉いさんだ」 不思議そうに首をかしげるイリア。どうやら、こいつは本気で解ってないらしい。らしいと言えばその通りだが、呆れすぎて全身から力が抜けていってしまう。 「今度って事は前もあったんだよね?」 「カイ、教えてやれよ?」 「ここ最近、立て続けに有名な魔導士さん達がいなくなってるんだよ。誰も何も言わずに突然いなくなるから、皆が大騒ぎしてるんだ」 「へえ……そうなんだ?」 「ったく、いっつも俺と一緒にいるクセして、何で俺が見聞きした事をお前が知らないんだ? 食べ物にばっか注意がいってるからそうなるんだぜ?」 「だ……だって……」 「まあまあ、イリアちゃんは食べるのが大好きだから」 「……兄さん、それフォローになってないよ」 「は……はは……それより、これからどうします?」 「あーーーごまかした!!」 「そうだな、まずは王立図書館に行ってみよう」 「そうですね。情報がない事には、こちらも動きようがないですから」 「ううう……二人とも私のこと無視してぇ……」 「ほら、何いじいじしてんだよ。さっさと来ないと置いてくぞ?」 「あ、待ってってば!」 まったく、どこまでいってもマイペースな奴だと思う。時々呆れる事もあるけど、だけれど、そこがこいつのいい所でもあるんだよな。それがなくなったら、きっとイリアじゃなくなってしまうから。俺が好きなのは今の彼女なのだから。 「ほら、待っててやるから走るなって。慌てるとまた転けちまうぞ?」 「そんなことないもんっ! って、わわっ!?」 顔から地面に突っ込んでいくイリア。ドスンと大きな音が響き渡る。やれやれ、どうやら前言撤回した方がいいかもしれないな。 「言わんこっちゃない」 「うう……だって……」 「手貸せって」 「……うん」 「怪我大丈夫か? 血ぃ出てないか?」 半べそをかいたイリアは、大げさに顔を動かして全身を調べると、ぶんぶんと首を横に振ってみせた。 「ふふ、何だか微笑ましいですね」 言葉通りに微笑を浮かべるカイ。だけれど、少し細めた目には、何とも言えない哀愁が漂っていて。その瞳は、決して笑ってはいなかった。
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to be continued...
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