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DAY1 Kai

 ぼんやりと天井を見つめている。何も考えずに、考えようともせずに。ただベッドの上に横たわって、流れゆく刻に己を揺蕩たわせている。
 肌に絡まりついてくる冷たい静寂。
 蝋燭の灯火も消えた薄暗い部屋。
 感覚だけが異様なまでに研ぎ澄まされていた。それがどのようなものかと訊かれたら、正直答えに窮してしまう。
 氷の棘に抱かれているような感覚ーーそう、奇妙に聞こえるかも知れないが、この表現が一番しっくり来る。そこで何が起ころうと、その棘は容赦なく肌を突き刺してくる。一瞬ほど鋭い痛みが走って、熱気を奪われた肌は、徐々に感覚を失っていく。その繰り返しだ。それでいて頭の中はぬるま湯に浸かっているような、何とも矛盾に満ちた感覚を一身に抱いている。
 窓からは街灯の明かりが差し込んできていた。風があるのだろうか。天井に映った光の影はゆらゆらと揺らめいていた。まるで月明かりに照らされた水面のように。その様子はどこか幻想的で、同時に、この身を抱く冷たい海を思い起こさせた。
 ぼんやりと天井を見つめている。ベッドに身体を横たえ、何も考えようともせずに。ただ、光と闇の饗宴をこの瞳に映していた。
 いや、違う。巨大な不安と焦燥に抗いながら、ただ彼女の事だけを考えていた。
 人一倍強がりで、こうと決めたら引くことを知らない、無鉄砲なダークエルフのことを。

a p o t o s i s
ア ポ ト ー シ ス

「ジェンド……」
 拳をギュッと握りしめる。掌に爪が食い込んで、鋭い痛みは、靄のかかった意識を現実へと引き戻してくる。闇の中に呑み込まれてしまえば良かったのに。これじゃあ、考えずにはいられないじゃないか。どうにかしないと、それが無駄な努力であったとしても、何かしないと気が済まないじゃないか。
 少しだけ正気を取り戻した頭で、もう一度だけジェンドの事を考えてみた。
 彼女は俺の許から離れていこうとしている。二人の思い出が詰まったこの家で、あいつはどう別れを切り出そうかと考えている。
 俺に非があるならいい。もう愛していないと言うなら、それも仕方がないことだ。諦めたくはないけど、情けなくすがりついて、みっともない真似を演じるつもりなど微塵もない。
 ただそうでないなら、彼女を行かせる訳にはいかなかった。
 一つだけ短いため息を吐き捨てる。のろのろと身体を傾け、さもめんどくさそうに起きあがった。
 目の奥に鈍い痛みが渦巻いている。体中が怠くて仕方がない。それでも、いつまでもここにいるわけにはいかない。無意味に費やしているこの時間は、俺達にとって、きっと掛け替えのないものに違いないのだから。
 傍に落ちていた彼女の上着に触れて、ギュッと握りしめた。こんな何気ないものでも、今はとても愛しく感じられる。彼女を感じさせる全てがたまらなく愛しかった。それを腕にかけると、俺はバルコニーの方へと向かっていった。

 はたして、バルコニーの片隅に彼女はいた。
 ペンキの剥げた手すりに身体を預けて、空の向こうをじっと見つめている。風を孕んだ髪の毛は空に靡いて、混沌とした黒に輝かしい紫の色を落としていた。それと対照をなすように、月明かりに染まった瞳は硝子のように透明で、長い睫毛はしっとりと濡れているようだった。
 動と静が交錯する彼女を目の前にして、不安にも似た感情がもくもくとわき起こってくる。すぐ傍にいる彼女を、こんなにも遠くに感じたのは初めてだった。長い間一緒にいたのに、こんな顔をするアイツなんて見たことがなかったのだ。
「風邪引くぞ」
 持ってきた上着を肩にかけてやる。きっと、何か口実が欲しかったのだと思う。そうでなければ、彼女の世界を侵せはしないだろうから。
 上着を羽織り直そうともせず、空を見つめたままの彼女は、「ああ」とだけ応えた。
 その隣に陣取って、同じように空を見上げてみた。
 雲一つありはしない。目の前には青みを帯びた闇が、ただひたすらに広がっているだけだ。その真ん中に冴え冴えとした月が浮かび上がっている。周りを取り囲むように星々が瞬いていた。
「カイ、話があるんだ」
「ああ」
「私と……私と別れてくれないか」
 いつかは言い出すのではないかと思っていた。
 その瞬間を恐れて、少しでも先延ばしにしたくて。
 でも、いざ言われてみると、あっけない程に何も感じなかった。彼女の声が、右の耳から左の耳へとすり抜けていく。感覚が、感情が麻痺していた。乾いた喉をゴクリと鳴らして、暗闇の先を呆然と見つめながら、俺は張り付いた唇をゆっくりと開いて言った。
「どうして?」
「理由は解っている筈だ」
「そうだな。だけど、お前の口から聞きたい。じゃないと否定できないじゃないか」
「その必要はない」
「納得しない」
「そう言うと思っていた。私が傷つくのはいい。だけれど、もしもお前を傷つけてしまったら……そんな事にでもなったら、私は自分を許せないだろうから。ふんっ、これで満足か?」
 感情の類を読み取ることは出来ない。意識的にしろ、そうでないにしろ、抑揚のない酷く冷たい声をしていたから。一体彼女はどんな顔をして言ったのだろうと、そんな疑問が不意にわき起こってきた。
 手すりを握りしめながら、ゆっくりと彼女の方に顔を向ける。即座に、そうした事を後悔した。
 彼女はじっと俺を見つめていた。口元に嘲るような笑みを浮かべて、その表情は、あまりに衝撃的だったのだ。今にも泣き出しそうな顔をした彼女は、それを笑みで掻き消そうと躍起になっていた。胸が、たまらなく痛くて仕方がなかった。それ以上何を続けることも、今の俺にはどうしても出来なかった。だって、一体どのような言葉をかければいい? 彼女の中で、既に答えは出ているのだ。それを覆すことなど、相手が俺であっても許されるはずがない。いや、俺であるからこそ、そんな事は出来よう筈がないのだ。全ては俺の為なのだから。俺を護る為に、彼女は自らを犠牲にしようとしていたのだから。
 肩にかけた上着を羽織り直して、彼女は無言のまま部屋の中へと戻っていった。
 少しずつ遠ざかっていく足音を聞きながら、今更ながらに頭の中が真っ白になっていく。
 何も考えられなかった。
 何も出来なかった。
 ただ、混沌とした感情が胸にもたげていた。

 薄暗い部屋の中で、彼女はベッドの上にちょこんと座っていた。
 何をするわけでもない。ただ俯いたまま、微動だにせずそこにいるだけだ。その姿に先程の面影など少しも残ってはいない。
 無造作に垂れた髪の毛。丸く縮こまった身体。深い陰影の刻まれた表情<カオ>。その全てが痛々しく見えて仕方がなかった。
 そんな彼女の隣に腰を下ろす。スプリングがギシッと軋んで、彼女の身体が一瞬程こちらに傾いてくる。そっと触れあう二人の肩。それでも、彼女は微動だにしない。身体を離そうともしないかわりに、寄り添おうとする素振りすら見せはしない。
 一体何を考えているのだろう。ふとそんな事を思いながら、小さな彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。
「お前が考えているような事にはならないよ。俺が、絶対に守ってやるから」
「私は……そんなこと望んじゃいない」
「もう、俺の事なんて愛していないのか?」
「………………」
「一緒にいられなくなってもいいって、そう思ってるのか?」
「………………」
「だったらそう言えよ。俺の事なんて嫌いだって。そうしたら、これ以上何も言わないから」
「……お前なんて大嫌いだ」
「………………」
「そんなこと出来るわけないって解ってるのに……お前を嫌うだなんて、そんな事出来るはずがないのに……そうやって私を苛めるんだな」
「だったら」
 言葉を遮るように、彼女はこちらをじっと見つめていた。
 震える手で俺の頬に触れながら、唾をごくりと飲み込んで、おもむろに口を開いた。
「一つ約束してくれないか」
「俺に出来ることなら」
「もしも私が私でなくなったその時は」
 彼女の顔がゆっくりと近づいてくる。洗い立ての髪の匂いがフワッと香って、視界が遮られた瞬間、小さく擦れた声が暗闇に響き渡った。

ーー私を殺してくれないか

 有無を言わせぬように乾いた唇が重ねられる。彼女と繋がっている部分の感覚だけが生々しくそこにあって、他は自分の一部だとは信じられないくらい、何も感じはしなかった。
 そんな俺を現実へと連れ戻すように、生暖かい液体が唇へと零れ落ちてくる。彼女の細い指がグッと背中に食い込んで、その瞬間、ぼんやりとしていた頭の中がハッと冴え渡った。
 今まで何度と無く交わしてきた筈なのに、こんなしょっぱいキスは初めてだった。

to be continued...


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